清和源氏

G606:水野貞守  源 経基 ― 源 満政 ― 八島重実 ― 浦野重遠 ― 水野貞守 ― 水野勝成 G607:水野勝成

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水野勝成 水野勝俊

 初陣は遠江国高天神城攻めで、以後家康に従って武田家との戦いや天正壬午の乱を転戦する。しかし、小牧長久手の戦いの際に一軍の大将でもあるにも関わらず一番槍を挙げるなどの軍令違反を咎められたことや、さらに自らの不行状を忠重に報告した家臣を斬ったことで出奔し、父によって奉公構え(事実上の他家への仕官禁止)となる。そのため、主に中国地方や九州を放浪し小西行長,加藤清正,豊臣秀吉や佐々成政,三村親成らに仕えて重用されるが、奉公構えによる水野家からの横槍に加えて気性の激しさなども手伝っていずれも長続きしなかった。しかし、勘当されたとはいえ徳川方有力大名の嫡子としては非常に不自然な行動をしている事や、その後の福山への入封などから、西国の豊臣方大名の動向を探るための家康の密偵的な役割もあったのではないかとの推測もある。
 慶長3年(1598年)に家康らの仲介もあって父・忠重と和解する。慶長5年(1600年)に忠重が加賀井重望に殺された為、急遽家督を継いだ。関ヶ原の戦いでは岐阜城攻め、曾根防衛、大垣城攻めに加わり、刈谷3万石を安堵された。
 慶長15年(1610年)に従五位下に任官し日向守を名乗る。日向守は明智光秀が名乗っていたため、誰もが忌避していた官職であるが、勝成は気にすることなく笑い飛ばし、逆に日向守を欲したという説もある。
 大坂の役にも参加しているが、特に夏の陣では大和口の先鋒の将に指名され、道明寺の戦いなどで活躍し、大坂城一番乗りの功を越前勢と分け合う。この功を認められるが、またしても大将の勝成自身が一番槍を成し遂げたため、家康に冷遇されてしまい、この戦いで城を焼き払われた大和郡山に加増の上に転封される(郡山藩6万石)。
 さらに元和5年(1619年)には備中の一部と備後の一部で福山藩10万石を与えられたが、当初入った神辺城に代えて幕命により西日本の幕府側拠点として瀬戸内海に近い福山城と城下町を築いた。
 「鬼日向」と渾名されることもあるように猛将として知られた。晩年に起こった島原の乱の際には、戦歴を買われて九州の大名以外では唯一参陣を要請され、嫡子勝俊、孫の勝貞と親子三代で出陣している。そもそも外様大名ばかりといった様相の中国地方に配されたのも、そうした大名の監視・お目付役としてであった。その一方で、放浪時代の恩人で知謀の名高い三村親成を高禄で家老職に迎え福山藩政に力を注ぎ、城下町の建設,産業育成,治水工事や新田開発を積極的に行い、治世にあっても英明を謳われ、それまでは概ね湿地帯であった現在の福山市の発展の礎を築いた。
 勝成は宮本武蔵との深い交友もあり、武蔵は大坂夏の陣では勝成の軍勢の客将として嫡男勝重(勝俊)を守護した。武蔵の最初の養子宮本三木之助は水野軍武者奉行中川志摩之助の3男で、大坂陣後に4男九郎太郎と共に武蔵が養子に貰い受けたものである。後に武蔵が福山を訪れた際に家老中山将監屋敷に立ち寄り腰掛けたという庭石が、今は備後護国神社境内に移されて現存している。
 寛永16年(1639年)に家督を嫡子美作守勝俊に譲り隠居するが隠居料の1万石をもって更なる福山城下町への投資を続けた。慶安4年に福山城内において死去し、福山城下の菩提寺、曹洞宗賢忠寺に葬られた。

 水野勝俊は慶長3年(1598年)放浪の身であった父勝成が身を寄せていた三村親成知行の備中国成羽城下にて生まれる。幼少から勝成に従い慶長14年(1609年)に11歳で美作守に叙任される。慶長19年(1614年)には大坂の役に参加し翌年の夏の陣では特に軍功をあげた。なお、大坂の役では宮本武蔵が勝重付けとして名を連ねている。元和5年(1619年)に勝成の福山入封に同行するが、福島正則の築いた鞆の浦の鞆城(後の鞆町奉行所)に居住したため「鞆殿」と呼ばれたという。寛永9年(1632年)の熊本藩加藤忠広の改易に際しては勝成と共に熊本城受け取りの任に当たった。寛永15年(1638年)の島原の乱では父勝成に従い息子伊織と伴に参陣し総攻撃で原城への一番乗りを果たした。翌年(1639年)、勝重は42歳で勝成から家督を譲り受け備後福山藩二代藩主に就任する。以後、16年余り藩主を務め父勝成の事業を継続し、新田開発や領地の整備に奔走した。ただ、勝成は隠居後も藩政へ口出しすることがあり、これに対し勝俊が苦言を呈する場面もあったようだ。福山城下の整備では城下南東に架けた新橋(天下橋)が明治時代まで城下の中心となった。勝俊は水野家歴代藩主で唯一日蓮宗に帰依しており、城下の日蓮宗妙政寺の大檀越となっているが、他の寺社への庇護も厚く「鞆祇園宮(現在の沼名前神社)」に寄進した能舞台は今日も残され国の重要文化財に指定されている。そして、慶安4年(1651年)の勝成の死後から4年後の承応4年(1655年)に江戸藩邸で死去し広島県福山市北吉津町の日蓮宗妙政寺に葬られた。墓は巨大な五輪塔で、墓前には勝俊に従い殉死した7人の家臣(西山半左衛門,三宅半助,横山惣右衛門,田中十郎右衛門,上田七兵衛,馬場長右衛門,河上一郎右衛門)の墓が並んでいる。
 勝俊は庶民出自の母を持ち父の流浪生活に付き従ったためか、封建的時代の藩主としては過剰なほど領民に対する気遣いを見せている。例えば、福山城下が火災により焼失したときには家臣に再建を余り急がせて町人が迷惑してはいけないから、少し遅れてもよいので町人に迷惑をかけぬよう命じており、飢饉のとき、藩の鷹師が麦畑を荒らすことがあれば父勝成の領地であろうと自分の領地であろうと届けなしに百姓総出で鷹師を処罰してもよいとしている。また、度重なる不作に対しては資金の貸与や年貢の減免など手厚い救済策を講じ農民の没落を防いでいる。さらに、藩主就任の翌年には幕府から備中松山城在番を命じられるが、藩士が皆木綿の着物を着ていたことから、その質実さを松山の町民が称えたという。しかし、家臣にこうした倹約を強いたにもかかわらず、勝俊の死に際しては家臣7人が殉死するなど、信任は非常に厚かったようである。能楽や俳諧を好み、俳人野々口立圃と親交を深めるなど、文化面でも熱心であった。そして、天災や領内整備による財政の窮乏を凌ぎ藩の安定に尽力するなど、文献で見る限り勝俊は名君と評価できるが、カリスマ的存在である父勝成の存在により影が薄くなりがちである。

水野勝貞 水野勝種

 14歳のとき島原の乱に参戦し、帰陣後の寛永16年(1639年)に徳川家光に披露される。翌17年(1640年)従五位下に任官し「備後守」を名乗る。承応4年(1655年)父・勝俊の病死により31歳で藩主を相続し、同年、徳川家綱に拝謁して従四位下に任官、「日向守」と改める。祖父勝成の日向守に対し「後日向守」とも呼ばれる。寛文元年(1661年)に病に伏し翌年に江戸藩邸において38歳で卒す。
 文芸の興隆に努め京都から俳人野々口立圃を呼び多くの門人を輩出させたり、城下の寺院で度々芝居を催したという。また、草戸稲荷神社前には遊女町を造ったといわれる。
 藩政においては生え抜きの藩士を積極的に登用しているが、勝貞の死後、家老上田玄蕃ら門閥派の巻き返しにより勝貞に重用された猪熊三右衛門ら側近5人が殉死に追い込まれる事態となった。この御家騒動(水野家家中騒動)に家中は激しく動揺したといわれ、城下の惣堂神社が「騒動」に繋がるとして延広神社に改称されたという。
墓所は広島県福山市若松町の水野家菩提寺の曹洞宗賢忠寺。

 福山藩3代藩主であった水野勝貞の長男として、寛文元年(1661年)に福山で生まれる。母は瀬尾氏。正室は酒井雅楽頭忠清の娘である。また彼は数え37歳で死去するが、7人もの男子に恵まれたが長男から六男まではいずれも早世。末子の水野勝岑(七男)が跡目相続したが、彼も数え2歳で早世したため、水野氏による福山藩政は終焉を迎えた。
 寛文3年(1663年)に父の死により、わずか数え3歳で福山藩の跡目を相続。寛文8年(1668年)に徳川家綱に初めて披露され、延宝3年(1675年)に従五位下に任官し美作守を名乗る。藩政の功績としては沼隈町の磐台寺観音堂をはじめ、領内の神社仏閣の再興や造営を行ったことがあげられる。天和元年(1681年)越後騒動により断罪された松平三河守綱国を預かる。元禄2年(1689年)および元禄5年(1692年)に奥詰を勤める。元禄10年(1697年)に江戸で死す。初代藩主の水野勝成らが眠る福山の賢忠寺に葬られる。

水野勝岑 水野成之

 6人の兄が全員早世していたため、同年8月に父が死去した後、10月22日に家督を相続した。
 しかし、御目見のために江戸に参勤した際、幼児にとって過酷な長旅の無理がたたって途中で病になり、御目見した翌日の元禄11年(1698年)5月5日に夭逝した。水野家は無嗣断絶、福山藩は改易となった。なお、勝岑の亡骸は江戸三田の常林寺に葬られた。
 福山城城下に除封、分家が名跡を継ぐとの幕府の決定が伝わると、藩士は初代藩主勝成の孫で、勝成の四男・勝則の息子・番頭水野勝寿を跡目相続にするため篭城しようなどと評議したり、領民も幕府へ訴訟すべしといきまくなどの騒ぎとなった。これに対し家老や目附の説得により事なきを得て、城は無事に明け渡された。幕府は決定通り分家、初代藩主勝成の曾孫で、勝成の末子・勝忠の次男・勝直の長男・勝長に勝岑の名跡を継がせ、水野家宗家は存続した。しかし、石高は大幅に削減され、能登羽咋郡西谷に1万石(後に下総結城藩1万8,000石)を与えられた。
 勝岑が亡くなったのが5月5日であったため、福山水野家にかかわった子孫の家では、こいのぼりを揚げないという風習が生まれた。

 慶安3年(1650年)、3,000石で小普請組に列した。旗本きっての家柄でありしかるべき役に就けるが、お役入りを辞退して自ら小普請入りを願った。
 父・成貞は傾奇者であり初期の旗本奴であったが、成之もまた、江戸市中で旗本奴である大小神祇組を組織、家臣4人を頼光四天王に見立て、綱,金時,定光,季武と名乗らせ、用人頭(家老)を保昌独武者と名づけ、江戸市中を異装で闊歩し、悪行,粗暴の限りを尽くした。旗本のなかでも特に暴れ者を仲間にし、中には大名の加賀爪直澄や大身旗本の坂部三十郎(坂部広利)などの大物も混じっていた。旗本という幕府施政者側の大身であったため、誰も彼らには手出しできず、行状はエスカレートしていった。そのため、同じく男伊達を競いあっていた町奴とは激しく対立した。
 そのような中、明暦3年(1657年)7月18日、成之は町奴の大物・幡随院長兵衛を殺害した。成之はこの件に関してはお咎めなしであったが、行跡怠慢で寛文4年(1664年)3月26日に母・正徳院の実家・蜂須賀家にお預けとなった。翌27日に評定所へ召喚されたところ、月代を剃らず着流しの伊達姿で出頭し、あまりにも不敬不遜であるとして若年寄の土屋数直の命により即日切腹となった。享年35。2歳の嫡子・百助も誅されて家名断絶となった。なお、反骨心の強さから切腹の際ですら正式な作法に従わず、膝に刀を突き刺して切れ味を確かめてから腹を切って果てたという。旗本奴への復讐心に息巻いていた町奴たちに十郎左衛門の即日切腹の沙汰が知らされ、旗本奴と町奴の大規模な衝突は回避された。
 なお、母と共に蜂須賀家へ預けられた弟の水野忠丘が、元禄元年(1688年)に赦され、元禄14年(1701年)に旗本となったことで家名は存続した。
 後世、彼の「反権力」「反社会性」などが講談,脚本で題材にされることが多かった。

水野勝知

 天保9年(1838年)2月26日、陸奥二本松藩の第9代藩主・丹羽長富の8男として生まれる。文久2年(1862年)に結城藩の第9代藩主・水野勝任が早世したため、その養子として家督を継ぎ、第10代藩主となる。幕末の動乱期の中では佐幕派として行動し、両国橋勤番や日光祭礼奉行、元治元年(1864年)7月10日に学問所奉行、慶応3年(1867年)に半蔵門番、彰義隊の指揮などを任されるなど、諸役を歴任した。
 ところが勝知のこのような佐幕的行動を藩内の恭順派が反発し、恭順派は第8代藩主・水野勝進の子・水野勝寛を新藩主として擁立する。このため、勝知は恭順派から結城城を奪回し、戊辰戦争では旧幕府軍に与して戦ったが、新政府軍の攻撃を受けて結城城は落城し、勝知は水路から脱出して上総成東や上野山内に潜伏した後、実家の二本松にまで逃れたが、新政府に捕らえられて身柄を伊勢津藩に預けられることとなった。
 明治2年(1869年)、戦後の処罰として勝知は勝寛に家督を強制的に譲らされた上で隠居することとなり、所領も1,000石減封されることとなった。大正8年(1919年)4月22日に死去。享年82。