清和源氏

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飯島為光 飯島為長
 長府藩の三沢家に伝わる史料などによれば、信濃国伊那郡飯島本郷に居館を構えた土豪に飯島氏があった。清和源氏片切氏の分かれで、寿永年間(1182~84)に片切為行の子・為綱が飯島本郷に居を構え、その子為光が飯島太郎を称したものである。為光は飯島郷の地頭となって、承久の乱には幕府方として出陣、功があった。乱後の論功行賞で出雲国三沢郷を賜り、為光の孫広忠が三沢郷に下向した。

 一説には、広忠の孫・為長(為仲)が乾元元年(1302)はじめて出雲に入部し、3年間雨川に住んで農地を開拓した、ともいわれている。
 三沢氏は農地を開拓するとともに、製鉄業にもつとめその力を蓄えていった。やがて、鴨倉に城を築いて現在の仁多町・木次町湯村を領し、ここを拠点に勢力を強めていった。そして為長は弟たちを林原,堅田,鞍懸などに封じて農地を開拓させ、名主として土地と農民を統括させた。みずからは鴨倉にあって三沢氏惣領として庶子家を統率、勢力を拡大していった。古記録によれば、為長が三沢城に入城したとされる嘉元3年(1305)の頃、飯島姓を改めて三沢姓を号したという。
 その後、林原,堅田,鞍懸の庶子家をすべて惣領とし、三沢家の領地を拡張、一族の結合団結をさらに固めた。

飯島為幸 飯島為清

 大永2年(1522)尼子経久に従い、安芸西条の鏡山城攻めに加わりこれを奪取した。しかし、享禄4年(1531)尼子経久の奇襲にあい、横田藤ケ瀬城は落城、兄・為国と弟・為隆は捕らわれて富田に幽閉された。しかし、為幸は三沢城に健在で、為清も亀嵩城にあり、尼子は軍を引き揚げていった。その後、尼子晴久が天文八年(1539)安芸の毛利元就と争ったときは尼子軍に属して出陣した。
 この戦いで、毛利氏の応援に大内氏が一万の軍勢を派遣し、晴久が包囲に陥ったとき、為幸は先登に進んで敵の首級をあげること十三級に及んだが、晴久は大敗戦となったので、元就を討ち取らんと駆け入ったが、元就の馬廻りから発せられる矢を7本まで身に受けて討死にした。ときに、39歳であった。

 天文10年(1541)、毛利元就,大内義隆らが出雲へ進攻するとの報があり、尼子旗下の十三将は密かに連携して大内へ誼を通じ、為清もそれに加わった。翌年、大内義隆が出陣、次いで毛利元就軍も進攻してきた、為清はいったん大内に降礼をとったが、対陣の最中に他の降将とともに大内を裏切り尼子に走ったので、形勢一変、大内軍は敗走した。
 天文13年、尼子晴久はふたたび山陰を制覇し、さらに備後・美作への進攻を図った。このとき、三沢氏は尼子氏に従わなかったため、晴久は為清の横田荘の代官職を取り上げ、これを尼子譜代の森脇山城守に与えた。天文20年、為清は森脇山城守を急襲し、森脇を横田に走らせた。とはいえ、その後は尼子晴久に従って出陣した。以後、尼子の陣中で常に中堅の部将として働いている。
 弘治4年(1558)毛利方の吉川元春が石州温湯城に進攻したとき、尼子晴久は温湯城に援軍として出陣し為清もこれに従って出陣、大森銀山城を猛攻撃のすえに落とした。しかし、その留守を狙って毛利方の備後高野山入道久意が鴨倉城へ攻め込んできたことから、上阿井合戦が起こった。
 永禄4年(1561)、毛利元就が吉川元春とともに出雲へ軍を進めてきた。元就の赤名進駐を機に三沢、三刀屋、赤穴の三将は毛利氏に降礼をとった。元就は三沢らが投降した翌永禄4年8月、赤名を発って高尾豊前守が守る多久和城攻めを手始めに出雲へ進発し、8月尼子方の馬木城を攻めた。為清は毛利軍に属して真木氏の夕景城攻略に加わった。
 真木氏の当主久綱は、おりしも富田城に在番して留守中であった。とはいえ、夕景城は要害堅固な上に弓矢の達人も多く、一丸となって防戦し一進一退の攻防戦は三昼夜も続いたが、結局城は落ち城代の澁谷長平は潔く本丸に火を放って自刃した。ついで、三沢勢は五百人の兵力をもって高尾城を攻め落とし、さらに弓幡城へ向かった。ここでも激戦となり、三沢氏も一時、攻めるのを見合わせたが、さらに攻撃の手を緩めなかったことから、ついに城は落城した。
 翌年、為清と子の為虎は毛利方の吉川元春の陣に属し、白鹿城攻めに加わり、また一族は熊野城を攻め城主熊野和泉守を討ち取るなどの功をたてた。永禄12年(1569)の毛利軍の九州大友攻めに際しては吉川元春の手に属し、筑前立花城攻めに加わっている。尼子勝久はその隙を狙って尼子氏再興を企て、雲南地方に兵を進めたため、為清は急ぎ帰り尼子軍と日登で激戦を展開した。
 元亀元年(1570)、毛利軍に従い尼子軍と布部山に戦い功をたて、さらに尼子軍を追って松江の羽倉城・真山城を攻めた。そのまま天正元年(1573)の鳥取城進攻に参陣し、翌天正2年、4年ぶりに三沢に帰った。同6年、毛利軍は羽柴秀吉の支援をえて上月城に立て籠る尼子勢を攻めた。為清・為虎父子は出雲・石見勢の一手となって、吉川元春軍に加わって奮戦、上月城攻略に功をたてた。
 天正7年(1579)以来、毛利方の鳥取城は羽柴秀吉軍の攻撃を受け、同9年には完全に包囲された。有名な鳥取の干殺しで、三沢為清・為虎父子は毛利輝元に従って参陣した。翌10年、秀吉の備中高松城攻めに参陣している。

飯島為虎 飯島為基

 天正17年、毛利輝元に謀られて芸州で虜同様の身となり、さらに長州厚狭郡へ移された。とはいえ、全くの左遷というわけでもなく、輝元の知遇を得て古帳一万石を給され、同地に居館を構えている。その後も毛利氏の部将として天正18年の小田原攻めに参陣、続く慶長2年(1597)朝鮮にも出陣し蔚山城の攻略に手柄をたて、秀吉から感状も受けている。
 慶長五年(1600)関ヶ原の戦いには、毛利輝元・秀元の請いにより赤間関警護の大任についたが、合戦後、毛利氏は長州に削封された。そして、為虎は長府毛利藩の付家老として代々の地を去っていった。ここに、乾元元年から天正17年までの280年余、連綿と続いた三沢氏も出雲の地と永遠に訣別することになった。

 三沢為基は長府藩を出奔して、仙台藩伊達家に仕えた。為基の息子三沢清長は娘・初子が藩主伊達綱宗の側室(伊達綱村生母・綱宗には正室はいなかった)となった事から重臣の待遇を受けた。伊達綱村,伊達村和,伊達宗贇は、伊達綱村と三沢初子との間にできた子である。
 三沢氏の血は亀田藩岩城家,宇和島藩伊達家にも流れており、出雲三沢氏の母系の子孫は奥州でも繁栄した。