村上源氏

K324:村上天皇  源 顕定 G802:源 顕定

リンク G803G805
源 顕定 海老名季兼

 村上天皇の皇孫で一六位蔵人,侍従,弾正大弼を歴任する。
 長和5年(1016年)2月に嫥子女王が斎宮となると斎宮別当に任ぜられるが、7月20日に妄りに故障を申し立てたことから、藤原兼綱,源親方と共に恐懼に処された。寛仁元年(1017年)に敦明親王が皇太子を辞して、敦良親王(のち後朱雀天皇)が立太子されると東宮昇殿を聴された。
 寛仁2年12月(1019年1月)に敦康親王が死去すると、その葬送の次第を母に伝達している。その後、民部大輔に任ぜられた。治安3年(1023年)8月4日卒去。享年は不明だが、兄の生年から45歳以下であったとみられる。
 あるとき陣座で五位蔵人・藤原範国が職事(蔵人)として申文を受け取るため、上卿・藤原実資がその申文を範国に読み上げていたところ、東の端にいた顕定は性器を露出した。範国はそれを見て噴き出したが、実資は奥の方にてそれが見えなかったためこれに激怒したため、その失態が奏上されてしまった。範国は恐れ慄いて事情を言えなくなってしまったが、顕定はそれを面白おかしく思っていたという。

 一般には村上源氏とされ、源有兼が小野盛兼の子季兼を養子に迎えたという。そして、季兼が相模国海老名郷に土着して郷名を名字としたことに始まる。しかし、これは相模守を務めた有兼に結び付けようとした潤色と思われる。おそらく、当初から武蔵七党のひとつ横山党に属し武蔵小野郷を本貫とした族であろう。
海老名季貞 海老名季久
 1156年(保元元年)の保元の乱では源義朝に随行するも、1159年の平治の乱では平氏に仕えた。石橋山の戦いでは大庭景親に仕えた。  海老名氏は石橋山合戦では頼朝に敵対したが、その後、海老名季久は源平合戦に功をたて、幕府御家人となった。また鎌倉幕府滅亡後も室町幕臣としても続いている。