村上源氏

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源 雅俊 公胤

 京極大納言と号した。延久5年(1073年)叙爵。侍従,左近中将,中宮(藤原賢子)権亮などを経て、応徳元年(1084年)白河天皇の蔵人頭となり、応徳3年に堀河天皇の蔵人頭をも務めた。寛治5年(1091年)参議に任ぜられる。その後、正二位権大納言まで昇進した。議政官として右兵衛督,左右衛門督,春宮(宗仁親王=のちの鳥羽天皇)権大夫などを兼帯し、また白河院別当として若狭国,武蔵国の知行国主を務めた。保安3年(1122年)4月13日、59歳で薨去。
 雅俊の邸宅は押小路南・京極大路東に所在し、邸宅の所在地に因んで京極大納言と呼ばれた。信仰心が厚く、堀河天皇崩御の後、京極に九体の丈六阿弥陀仏像を安置する御堂を建立、また同じく堀河天皇のために、香隆寺において丈六千手観音像と涅槃経を供養している。一方で『平家物語』では「あまりに腹あしき人」と、粗暴で猛々しい性格だったと述べられている。

 園城寺(三井寺)に入って叔父・行顕に天台,密教を学び、阿闍梨となる。1183年(寿永2年)律師に任じられている。源氏将軍家の帰依を受け、度々鎌倉に下向した。後に北条政子の願いにより源頼家の遺児である公暁を弟子として預かった。一方で後鳥羽上皇の信望も厚く、園城寺長吏,法勝寺別当,僧正に任じられている。当初は1198年(建久9年)法然が「選択本願念仏集」を著したとき、これを批判した「浄土決疑抄」を著したりしたが、後に念仏に帰依したとされる。曹洞宗の祖・道元に臨済宗の栄西への入門を勧めたことでも知られる。
 歌人でもあり、『新古今和歌集』に1首入集している。

元海 俊寛

 平安時代後期の真言宗の僧。松橋大僧都とも称される。
 叔父の定海に師事して密教を学び、勝覚,定海から灌頂を受けた。長承元年(1132年)5月には醍醐寺座主に任じられ、康治2年(1143年)に権少僧都に任じられた。以後多くの修法を行うとともに円光院,無量光院,三宅寺の寺務を務め、仁平3年(1153年)権大僧都・東寺二長者に任じられている。また、醍醐寺三宝院座主として三宝院に納められている秘宝の披見を制限するため、京都無量寿院を創建して秘宝の複製を納めた。

 後白河法皇の側近で法勝寺執行の地位にあった。1177年、藤原成親,西光らの平氏打倒の陰謀に加わって鹿ヶ谷の俊寛の山荘で密議が行われた(ただし『愚管抄』によれば、信西の子・静賢の山荘で密談が行われたとされている)。だが、密告により陰謀は露見し、俊寛は藤原成経,平康頼と共に鬼界ヶ島へ配流された。
 『源平盛衰記』によると、成親卿は松の前,鶴の前という二人の殿上童を使って、俊寛を鹿ケ谷の陰謀に加担させたということになっている。松の前は美人だが愛情の足りない女で、鶴の前は不美人だが愛情に溢れた女であった。成親卿がこの二人に俊寛の酒の相手をさせたところ、鶴の前に心をよせて女児を生ませた。すっかり鶴の前に心を奪われた俊寛は、謀反に加担する事を同意したのだ、という。
 『平家物語』によると、鬼界ヶ島に流された後の俊寛ら三人は望郷の日々を過ごし、成経と康頼は千本の卒塔婆を作り海に流すことを発心するが、俊寛はこれに加わらなかった。やがて、一本の卒塔婆が安芸国厳島に流れ着く。 これに心を打たれた平清盛は、高倉天皇の中宮徳子の安産祈願の恩赦を行う。 翌1178年に船が鬼界ヶ島にやって来るが成経と康頼のみが赦されており、俊寛は謀議の張本者という理由から赦されず島に一人とり残された。俊寛は絶望して悲嘆に暮れる。翌1179年、俊寛の侍童だった有王が鬼界ヶ島を訪れ、変わり果てた姿の俊寛と再会した。有王から娘の手紙を受け取った俊寛は死を決意して、食を断ち自害した。有王は鬼界ヶ島より俊寛の灰骨を京へ持ち帰った。