<桓武平氏>高望王系

H437:千葉常重  平 高望 ― 平 忠常 ― 千葉常重 ― 東 胤頼 H462:東 胤頼

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東 胤頼 東 重胤

  以仁王の挙兵時には大番役として在京していた。『吾妻鏡』によると収束後関東に下り、共に大番役を終えたばかりの三浦義澄と伊豆国の源頼朝の下に参上している。この際に以仁王の挙兵の詳細を報告し、頼朝に対して何らかの決断を促した、もしくは既に決起を決心していた頼朝から何らかの指示を受け取ったと考えられている。
 後、下総国に戻り、父・常胤に対して安房国へ逃れた頼朝への加勢と下総目代を誅することを主張、常胤もこれを認めて頼朝の軍に合流することを決定し、胤頼は千葉荘を後にするに際し長兄・胤正の子・成胤と共に下総目代を襲い攻め滅ぼした。そのため下総国千田荘領家で皇嘉門院判官代の藤原親政が千余騎を率いて千葉荘に侵入、千葉荘に戻った成胤と合戦になり、わずか七騎で迎え撃った成胤が絶体絶命のなか遂に親政を生虜にしたという。平清盛の姉婿・親政を生虜にしたことで様子見していた上総広常など坂東の武士団がこぞって頼朝の軍に合流、関東における頼朝の軍事力は平家方の勢力を大きく上回ることになった。
 この後、頼朝は治承寿永の乱を制し、下総国を掌握した常胤より東荘を相続され、以降胤頼の子孫は東氏を名乗る。
 その他『吾妻鏡』には一ノ谷の戦い,奥州合戦などに名を残す。また建久元年(1190年)の頼朝の上洛にも随員として記されている。以降記録から胤頼の名は消え、子・重胤に家督を譲ったと考えられている。
 文治2年(1186年)の正月、頼朝が鶴岡八幡宮に参拝した際に、宮の庭上に着座した供奉人の中で胤頼が父である常胤のほぼ真正面の位置に座したことが、子が父に対して公の場で正対して座するという同格の振舞を行ったとして秩序の逸脱であるとして、直後の埦飯の席で御家人の間で問題視された。これに対して頼朝は、大番役の際に胤頼が叙された位は貴族とされ昇殿を許されるとされる従五位下であり、これは父・常胤の位の正六位上とは歴然とした違いがある。また上西門院に仕えることでは同じであり、「官位は朝廷より賜ったものであり、これに従うこと」として、御家人の座次は父子の秩序よりも官位の秩序を優先させる方針を説明した。胤頼が父より高位を贈られた理由として、和歌などの文芸に通じていたともされ、後に東氏は歌道において古今伝授を行いうる地位を確立するが、その源流がここに見て取れる。
 その後、晩年には出家して法然上人の弟子になった胤頼は法阿弥陀仏(法阿)と称していた。嘉禄3年(1227年)に発生した嘉禄の法難の際には、延暦寺の僧兵から法然の遺骸を守るために、蓮生(宇都宮頼綱),信生(塩谷朝業)兄弟、道弁(渋谷七郎)などの出家者や六波羅探題の武士団らとともに、東山の法然廟所から二尊院までの遺骸移送の護衛にあたった。

  父・胤頼の記録への登場は1190年頃から途絶えており、恐らくこの前後に家督を父から譲られたと思われる。重胤の記録への登場は建久6年(1195年)頃からで、正治元年(1199年)の梶原景時の変で御家人66名による弾劾署名が行われた時も、この中に名前を連ねている。
 2代将軍・源頼家失脚後は新将軍となった実朝の近習として頭角を現す。これは重胤の歌人としての才覚が大いに役に立ったと思われる。藤原定家の弟子と伝えられる。また、歌の名手として名前の高かった父・胤頼から手ほどきも受けていたと考えられる。
 実朝の重胤の寵愛振りを示す出来事として『吾妻鏡』では建永元年(1206年)11月に、重胤が下総国の東荘に帰ってしまい、なかなか帰ってこないので重胤に和歌を送って帰国を促した。なおこの時に実朝が、重胤に対して帰国を促した歌は『金槐和歌集』に集録されている。しかし、実朝の歌を受け取ってもなお重胤が鎌倉に帰参しなかったため、重胤は実朝の勘気を蒙ってしまうこととなる。この後については『吾妻鏡』によると以下の内容となる。翌月重胤は北条義時の元を訪れ、事の詳細を相談する。義時は重胤に対して自分が取り成すから実朝に対して和歌を送るように勧める。義時が持参した重胤の歌を実朝は大層気に入って3回も吟じ、勘気を解かれる。重胤は義時に感謝し「子葉孫枝、永く門下に候すべき」と誓う。
 この後、滝口武者の補充として上洛。京より鎌倉へ帰参後、京の様子などを実朝に報告している。なおこの時鎌倉から逐電して以降、行方不明になっていた熊谷直実が京で亡くなっていることが報告されている。
 重胤の記述は実朝暗殺の承久元年1月27日(1219年2月13日)以降不明となる。この事件後、実朝の近習を中心として多数の御家人が出家したとあるので、重胤もこれに従って出家、家督を子の胤行に譲ったと思われる。

 

東 常縁 東 常慶

  室町幕府奉公衆として京都にあり、冷泉派の清巌正徹にも和歌を学ぶが、宝徳2年(1450年)、正式に二条派の尭孝の門弟となる。康正元年(1455年)、関東で享徳の乱が発生、それに伴い下総で起きた本家千葉氏の内紛を収めるため、8代将軍・足利義政の命により、嫡流の千葉実胤,自胤兄弟を支援し馬加康胤,原胤房と戦い関東を転戦した。だが、古河公方・足利成氏が常縁に敵対的な介入を図ったために成果は芳しくなかった上、同行していた酒井定隆も成氏に寝返った。
 更に関東滞在中に応仁の乱が発生し、所領の美濃郡上を守護・土岐成頼を擁する斎藤妙椿に奪われた。しかし、これを嘆いた常縁の歌に感動した妙椿より所領の返還がかなった。その後、二人は詩の交流を続けたという。文明3年(1471年)、宗祇に古今伝授を行い、後年「拾遺愚草」の注釈を宗祇に送っている。
 常縁は古今伝授の祖として注目されるが、当時の歌壇の指導者であったわけではなく、むしろ二条派歌学の正説を伝えた歌学者としての功績が大きい。家集には『常縁集』、歌学書には『東野州聞書』がある。

  遠藤胤重の子・和田五郎左衛門が小多良郷和田会津の要害に拠り、宗家にも抵抗するようになると、その勢力拡大を恐れた常慶は、天文9年(1540年)に木腰城主の遠藤胤縁(胤重の父)、その弟・盛数と謀り、五郎左衛門を篠脇城修理の相談と偽っておびき寄せ、胤縁,盛数の手により暗殺した。これを知った和田氏一族郎党の報復の軍議がまとまらないうちに、常慶は和田一族を急襲して滅ぼし、小多良の地を一族の遠藤善兵衛に与えた。
 天文9年(1540年)8月25日、越前の朝倉義景の兵が領内に侵入し、石徹白村の常慶の娘婿・石徹白源三郎に先導を強要したが、源三郎はやむをえず朝倉勢を案内しながらも、弟の兵庫に常慶へ急報させた。常慶は遠藤胤縁,盛数兄弟の進言で決戦を覚悟し、篠脇城の防御を固めた。9月3日に攻撃してきた朝倉軍を、放射状竪堀から巨石を落下させ撃退したが、それによって城自体も著しく破損するという結果になった。翌年、城の修復がままならない状況下で、再び朝倉勢が郡上に迫ると、常慶は大島の安養寺に救援を依頼。安養寺は信徒1,000人を集めて、美濃・越前国境の油坂峠に布陣し、安養寺の軍のみで朝倉勢の侵攻を阻止した。天文10年(1541年)、篠脇城の修復を諦めた常慶は改めて郡上の防衛に適した城を築くことを決め、赤谷山に東殿山城を築き、子の常堯に守備させた。
 天文10年(1541年)、阿千葉城の主鷲見貞保が命に背いたため、常慶は討伐軍を起こし、貞保を自害させて、古代から郡上北部で勢力を持っていた鷲見氏を滅ぼした。
 天文21年(1552年)、東氏一族で福野城にあって下川筋で勢力を拡大していた河合七郎一族を不安視した常慶は、遠藤盛数に討伐を命じ、盛数は七郎を滅ぼして下川筋の領地を与えられ、鶴雄山城を築いた。
 常慶は実子の常堯が悪逆非道だったため、遠藤盛数を婿養子に迎え、弘治年間(1555~58年)に家督を譲ったともいう。一方、常堯にも遠藤胤縁の娘と縁組させようとしたが、胤縁は常堯の非道を理由に同意せず、娘を畑佐六郎右衛門に縁付かせた。これを恨んだ常堯は、永禄2年(1559年)8月1日、胤縁が東殿山城を訪問すると、家臣の長瀬内膳に命じて鉄砲で射殺させた。かねてから宗家に取って代わることを考えていた盛数は、兄の弔い合戦を大義名分に郡内の諸豪を募り、8月14日に出陣した。一説には飛騨の三木頼綱の加勢も得た盛数は八幡山山頂に布陣し、常慶・常堯と吉田川を挟んで南北に対峙した。連日の防戦の末、8月24日に東殿山は落城し、常慶は戦死した。一説には、北辰寺の位牌から、娘婿の盛数に助けられて北辰寺に至り、永禄4年(1561年)8月24日に同寺で死去したともされるが、それは遠藤氏の権威を利用するために後代に作られたとも考察されている。なお、子の常堯は逃れてその後も抵抗を続けたが、天正13年11月29日(1586年1月18日)の天正大地震の際、飛騨の帰雲城にいてその崩壊で死去した。