<桓武平氏>高望王系

H501:平 忠通  平 高望 ― 平 将常 ― 平 忠通 ― 鎌倉景通 H531:鎌倉景通
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鎌倉景通 梶原景実
 前九年の役において、源頼義の配下として従軍。勇猛七騎の一人として名を残している藤原景通と同一人物と見なされている。  鎌倉甲斐権守章名の子と思われ、平良文の子孫とされる村岡忠通(平忠通)の孫にあたるが、『尊卑分脈』による系譜では、父は瀧口太郎致成で、良文の弟・平良茂の曾孫もしくは平良兼の子・公雅の孫とする。なお他系図でも景通の系譜は異なっており、『系図纂要』では忠通の子で良文の孫、『正宗寺本系図』では良文の息子とする平忠頼のさらにその息子とされている。子の景久から梶原氏を名乗った。  梶原景時の兄で、梶原専光坊僧正景実ともいうとの記載があり、伊豆山走湯権現(伊豆山神社)の僧侶で、源頼朝の師僧であった。頼朝の要請により鶴岡八幡宮の臨時別当を務め、晩年に梶原神社,早馬神社を創建したとされる。梶原神社,早馬神社には鎌倉初期の懸仏が祀られている。
梶原景時 梶原景季
 治承4年(1180年)8月、源頼朝が挙兵して伊豆国目代・山木兼隆を殺害。景時は大庭景親とともに頼朝討伐に向い、石橋山の戦いで寡兵の頼朝軍を打ち破った。敗走した頼朝は山中に逃れ、大庭景親は追跡を続けて山中をくまなく捜索したが、景時は飯田家義ともども頼朝の山中の在所を知るも情をもってこの山には人跡なしと報じて、景親らを別の山へ導いたという。その後、頼朝は安房国へ逃れて再挙し、千葉常胤,上総広常ら東国武士が続々とこれに参じて大軍に膨れ上がり、10月に鎌倉に入った。頼朝は平維盛率いる平氏軍を撃破し、大庭景親は捕えられ斬られた。12月に景時は土肥実平を通じて頼朝に降伏。翌養和元年(1181年)正月に頼朝と対面し御家人に列した。弁舌が立ち、教養のある景時は頼朝に信任され鶴岡若宮の造営、囚人の監視、御台所・北条政子の出産の奉行など諸事に用いられた。時期は不明だが景時は侍所所司(次官)に任じられている。  寿永2年(1183年)12月、上総広常と双六を打っていた景時は、にわかに盤を乗り越えて広常の頸をかき斬り討ち取った。広常に謀反の企てがあるとの噂があり、頼朝が景時に命じて殺させたものである。  寿永3年(1184年)正月、景時父子は源義仲との宇治川の戦いに参陣。源義経配下の嫡男・景季は佐々木高綱と先陣を争い武名を上げた。戦後、源範頼,義経,安田義定らは簡単な戦勝報告であったが、景時の報告書だけが義仲の討ち取られた場所,様子,主だった敵方の武将の死者と討ち取った者の名前など詳細に戦果を記しており、頼朝はその事務能力,実務能力の高さを喜んだ。  同年2月7日の一ノ谷の戦いでは最初は景時が義経の侍大将、土肥実平が範頼の侍大将になっていたが各々気が合わず所属を交替している。範頼の大手軍に属した景時,景季,景高父子は生田口を守る平知盛と戦い、大いに奮戦して「梶原の二度駆け」と呼ばれる働きをした。その後も西国における平家追討は続くが、義経と景時の対立は『平家物語』に屋島の戦いでの逆櫓論争(六日の菖蒲)や壇ノ浦の戦いでの先陣争いなどとして語られるが、史実性については疑問視する見方もある。ただ、義経と景時に対立があったことは確かである。  この報告がいわゆる「梶原景時の讒言」と呼ばれるが、義経の独断とわがまま勝手に恨みに思っていたのは景時だけではなく、景時以外の義経に同行していた将たちが、頼朝に対して義経を弁護していないことも事実である。  義経は頼朝の怒りを受けて鎌倉へ帰還することを許されず、京へ追い返された。土佐坊昌俊が義経暗殺に派遣されるが返り討ちに遭い、義経は院宣を得て行家とともに挙兵するが兵が集まらず失敗し、京を落ちて奥州平泉の藤原秀衡のもとへ逃れるが、文治5年(1189年)に藤原泰衡に殺された。義経の首は鎌倉へ送られ景時と和田義盛がこれを検分している。  景時の讒言と呼ばれるものには夜須行宗と畠山重忠の事例がある。夜須行宗が壇ノ浦の戦いでの恩賞を願ってきたとき、景時は夜須という者の名なぞ聞いたことがないと申し立て訴訟になり、証人が出て夜須の戦功が明らかになり景時は敗訴した。罰として景時には鎌倉の道路の普請が科せられた。  畠山重忠が罪を受けて謹慎させられ千葉胤正に預けられた。重忠は罪を恥じて絶食してしまい、頼朝は重忠の武勇を惜しみこれを赦免。重忠は武蔵国の館に戻ったが、景時はこれを不審として、重忠が恨みに思い謀反を企てていると言上した。頼朝は重忠へ使者を遣わせると、恥辱と感じた重忠は自害しようとし、使者はこれを押しとどめて申し開きをするため鎌倉へ行くよう説得。景時が尋問役となったが重忠は身の潔白を断固として反駁し、頼朝もようやく疑いを解いた。人望のある重忠を陥れようとしたとして景時は御家人たちからひどく恨まれた。一方で景時は都築経家,金刺盛澄,城長茂,曾我兄弟の赦免を願い出ることもしている。  建久3年(1192年)、景時は和田義盛に代わって侍所別当に就任した。『吾妻鏡』はこの交代について、景時が一日だけでも仮に別当になりたいと懇願し、義盛がそれならばと暇のついでにこれを許したが、景時が奸計をもって別当職を奪ってしまったとしている。しかし、侍所別当という重職がこのようないきさつで交代するとは考えにくく、実際には頼朝の意向によるものと考えるのが妥当であろう。実際、戦乱の時代が終われば、武人である和田義盛よりも、武勇だけではなく、事務能力,実務能力に優れ(当時の坂東武者は文章を書ける者はほとんどいなかったといわれている)、また和歌のひとつもこなせる景時は頼朝にとっては得難い手駒であっただろう。  正治元年(1199年)正月に頼朝が死去すると、景時は引き続き宿老として二代将軍・源頼家に重用された。4月に若い頼家の失政を理由に政務が停止され十三人の合議制が置かれると景時もこれに列した。頼家と有力御家人との対立が元で不祥事が続き、これを嘆いた結城朝光が「忠臣は二君に仕えずという。故将軍が亡くなった時に出家遁世しようと思ったが、ご遺言により叶わなかったことが今となっては残念である」と言ったことが景時に伝わってしまう。朝光の言葉に激怒した景時は、これを頼家への誹謗であると讒言し断罪を求めた。このことを知った御家人たちは怒り、三浦義村,和田義盛ら諸将66名による景時排斥を求める連判状が頼家に提出された。頼朝の死後、頼家の元でも継続して権力を振るう景時に対する御家人の不満として噴出したのである。11月、頼家は景時に連判状を下げ渡すと、景時は弁明せずに一族とともに所領の相模国一ノ宮の館に退いた。  正治2年(1200年)正月、景時は一族を率いて上洛すべく相模国一ノ宮より出立した。途中、駿河国清見関にて偶然居合わせた吉香友兼ら在地の武士たちと戦闘になり、同国狐崎にて嫡子・景季、次男・景高、3男・景茂が討たれ、景時は付近の西奈の山上にて自害。一族33人が討ち死にした。『吾妻鏡』は、景時が上洛して九州の軍兵を集め、武田有義を将軍に建てて反乱を企てたとしている。しかし義経の転落を見ていた景時が同じ轍を踏むとは考えられず、土御門通親や徳大寺家といった京都政界と縁故を持つ景時は、都の武士として朝廷に仕えようとしていたと見られる。梶原一族滅亡の地は梶原山と呼ばれている。なお、吉香友兼が景茂を打ち取った際、友兼が所持していた青江の太刀は、友兼の子孫である安芸国人吉川氏の家宝として伝授され、国宝「狐ヶ崎 」として現在に伝わる。  石橋山の戦いにおいて平氏方で参戦していた父の景時は頼朝の命を救い、後に頼朝が再挙して鎌倉に入り、関東を制圧すると景時は頼朝に臣従して御家人に列し、重用された。養和元年(1181年)4月、景季は頼朝の寝所を警護する11名の内に選ばれた。  養和2年(1182年)、懐妊した御台所・北条政子の産所への移転に供奉し、若公(源頼家)を無事出産すると護刀を父・景時とともに献上した。政子の妊娠中に頼朝がひそかに愛妾・亀の前のもとへ通っていたことが発覚し、激怒した政子が牧宗親に命じて亀の前の屋敷を打ち壊し、激怒した頼朝は宗親を罰するが、これを怒った政子の父の北条時政が伊豆国へ引き揚げてしまう事件が起きた。頼朝は時政の嫡男・義時のもとへ景季を遣わし、戻った景季は頼朝に義時は父に従わない旨を報告している。  寿永3年(1184年)正月、平氏を打ち破って京を支配していた源義仲と頼朝が対立し、頼朝は弟の源範頼と義経を近江国へ派遣。景時・景季父子はこれに従った。『平家物語』によれば、この戦いで景季は佐々木高綱と有名な宇治川の先陣争いをして武名をあげている。鎌倉を出発するときに景季は頼朝に名馬・生食を賜るように願ったが、頼朝はこれを許さず代わりに磨墨を与えた。ところが、頼朝は後で生食を佐々木高綱に与えてしまった。軍中で高綱が生食に乗っていることを知った景季は恥辱と考え、高綱を殺して自害しようと決意する。高綱が機転を利かせて、これは賜ったのではなく盗んだのだと言うと景季は「自分も盗めばよかった」と笑った。  義経軍と義仲軍は宇治川で対陣し、高綱は生食、景季は磨墨に乗って一番乗りの功名を立てんと川に乗り入れようとした。高綱が「馬の腹帯が緩んでいる。絞め給え」と助言し、景季は落馬しては一大事と馬の腹帯を締め直していると、その隙に高綱が川に進み入ってしまった。謀られたと知った景季も急いで川に乗り入れ、川中で激しく先陣を争い、結局、高綱が一歩早く対岸に上陸して一番乗りを果たした。範頼,義経はこの宇治川の戦いで勝利し、義仲を討ち取った。  同年2月の一ノ谷の戦いでは景時,景季,景高父子は範頼の大手軍に属した。『平家物語』によれば弟の景高は一騎駆けして敵中に突入。これを救わんと景時,景季も敵陣へ攻め入り敵陣を打ち破り後退するが、景季が深入りしすぎて戻らない。景時は涙を流して再び敵陣に突入して奮戦し、「梶原の二度駆け」と呼ばれる奮戦をした。『源平盛衰記』によれば、この戦いのときに景季は箙に梅の花の枝を挿して奮戦し、坂東武者にも雅を解する者がいると敵味方問わず賞賛を浴びた。この戦いで景季は庄高家(あるいは庄家長)と共に平重衡を捕える手柄を立てている。  一般に父の景時は源義経を陥れた大悪人とされるが、その子の景季は軍記物語では華やかに活躍している。景時も一ノ谷の戦いで東国武士らしく大いに奮戦している。  その後は父の景時とともに義経軍に属した。義経は屋島の戦い、壇ノ浦の戦いで平氏を連破し、元暦2年(1185年)3月に平氏を滅ぼした。『平家物語』『源平盛衰記』などによれば、この際に景時は逆櫓論争や先陣争いで義経とことごとく対立して深く遺恨を持ったとされる。『吾妻鏡』の合戦後の報告で景時は義経の傲慢と独断専行を厳しく非難しており、対立があったのは確かである。  義経は捕虜を連れて京へ帰還。後白河法皇はこれを賞して義経と主だった武士たちに官位を与えた。この際に景季は左衛門尉に任じられている。この無断任官を鎌倉の頼朝は激怒し、任官した24人ひとりひとりを口を極めて罵り、鎌倉への帰還を禁じた。その罵倒文が『吾妻鏡』に記されているが、景季については名前が挙がっているだけで何も悪口が書かれていない。  景季らは後に許されて鎌倉へ帰還しているが、義経は許されることはなく鎌倉近辺の腰越まで来たが京へ追い返された。同年9月、景季は義勝房成尋とともに頼朝の使者として上洛した。目的は勝長寿院供養の道具を求め、併せて平氏残党の配流を朝廷に促すためだが、同時に義経へ叔父の源行家を追討するよう頼朝の命を伝えることになっていた。景季は義経の邸を訪ねるが病であるとして面会を断られた。一両日待って再び訪れると面会を許され、義経は脇息にもたれて衰弱した様子で病が癒えるまで行家追討はできない旨を伝えられた。景季が鎌倉へ帰還して頼朝へこの旨を伝えると、父の景時は面会一両日待たせたのは不審である、食を断って衰弱して見せたのに相違なく、義経と行家は既に同心していると言上した。  その後、義経と行家は挙兵するが失敗し、義経は奥州藤原氏のもとへ逃れるが、文治5年(1189年)に藤原泰衡の軍勢に襲撃され平泉衣川館で自害した。  同年7月、頼朝は奥州藤原氏討伐のため大軍を率いて鎌倉を進発。景季は父や弟たち一族とともに従軍した。白河関で景季は召されて和歌を献じている。頼朝は大勝して、奥州藤原氏は滅びた(奥州合戦)。  建久4年(1193年)、甲斐源氏の安田義定の子の義資が上皇の女房へ艶書を投げ込む事件が起きた。女房所は後難を恐れてこれを秘匿していたが、景季の妾の龍樹の前がこれを語り、景季が景時へ伝えた。景時は頼朝に言上し、義資は斬首され、義定も所領を没収された。  景季は有力御家人として活動し、鎌倉幕府の諸行事に参列したり、奉行を務めるなどしばしばその名が見える。父・景時は頼朝に重用され、侍所別当に任じられて権勢を振るった。  正治元年(1199年)正月に頼朝が死去すると梶原一族の運命は暗転。同年11月に景時は三浦義村,和田義盛ら御家人66人の連名の弾劾を受けて、鎌倉から追放され、所領の相模国一ノ宮へ退いた。正治2年(1200年)正月、景時,景季は一族とともに相模国一ノ宮を出て上洛を企てた。途中、駿河国清見関で吉香友兼ら在地の武士と諍いになり、弟たちは次々と討ち死にしてしまった。景季は景時とともに山中に退いて戦い、ここで一族とともに自害した。享年39。
梶原景高 梶原朝景
 治承寿永の乱に際して、父に従い源頼朝の麾下に参陣。寿永3年(1184年)の一ノ谷の戦いにおいては、源範頼率いる大手軍に属し、生田口を守る平家軍の主力と対峙する。この際景高は、梶原勢500余騎の先陣を切って敵陣に突進し、父・景時より「後続の進度を考慮しないで、ただ単身先駆けする者には恩賞はないと、大将軍からの仰せであるぞ」とたしなめられる。しかしそれに対し景高が、「武士が先祖から伝えられた梓弓が一度放ったら帰ってこないように、自分も一旦進み出た以上はどうして引き返すことなどできましょう」と即座に返答し、勢いを止めようとしなかったため、景時もこれを追うような形で進撃。景高,景季(長男),景茂(3男)らとともに敵陣の逆茂木を取り除きながら奮戦し、結果的に戦果を挙げ、世に「梶原の二度懸け」として賞されることとなった。 その後、文治5年(1189年)の奥州合戦にも従軍し、味方が奥州藤原氏の要害を次々に突破して平泉を目前にした時、その戦勝を祝する和歌を詠み、頼朝の歓心を買っている。  このように、父や兄同様、文武に秀でた御家人として鎌倉幕府創業に功があったが、正治元年(1199年)に父が他の御家人からの弾劾を受けて失脚すると、父兄とともに相模国の所領に退去。一族郎党とともに上洛を目指すが、途中駿河国において吉川友兼らの追討を受け討ち取られた。36歳没。  一子・景継は、実朝の時代になって幕府への帰参を許されるが、承久の乱において京方に属し戦死したという。  兄と同じく源頼朝に仕え、元暦2年(1185年)土佐平定の命を受けて治承寿永の乱の戦後処理に当たり、その後は在京御家人として活動。法性寺観自在院領だった山城国相楽郡木津庄を兄・景時の指示で押領し、後年まで院庁より頼朝に対して押領停止が要請されている。同年、自身は刑部丞に、子の景定は兵衛尉に任じられるが、頼朝の推挙を受けていなかったため、同時に任官した東国出身の在京武士ともども頼朝より譴責されている。文治2年(1186年)東国武士らが荘園を押領しているという徳大寺実定の訴えを頼朝に取り次いでいる。実定とは懇意の間柄だったようで、景時,朝景揃って恩を受けていたという。禁獄中だった平庄司という盗賊の首領が脱獄した際にはこれを捜索、追捕して検非違使に引き渡すという功を挙げた。また頼朝と敵対して逐電した源義経の捜索や、親義経派の調査などを行っている。同年9月、鎌倉に帰参して在京中の職務を復命した。 文治5年(1189年)奥州合戦に一族ともに従軍。建久元年(1190年)頼朝が上洛した際には後陣の一番として随行した。建久4年(1193年)大江行義の娘より、美作国久米郡神目の所領を横領したことを頼朝に訴えられる。押領は正当なもとの認められたものの、頼朝の説得に応じて行義の娘に所領を返還した。同年の富士の巻狩りにも一族ともに参加。また文覚が備前国の東大寺造営領で不当な行いをしていたため、安達清経とともに譴責使として京都へ派遣され、文覚の弁明書を持って鎌倉へ戻っている。建久6年(1195年)の頼朝上洛にも随行した。  正治2年(1200年)梶原景時の変の際には兄の景時に従うが、景時が駿河国で戦死すると北条時政の元へ降伏し、工藤行光に武具を差し出した。建暦3年(1213年)北条氏と対立していた和田義盛に与し、和田合戦では梶原景衡,景盛,景氏らとともに義盛方に加わったが、義盛らが討たれた5月3日の合戦で同族の太郎,小次郎とともに戦死した。