<桓武平氏>高望王系

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長尾景忠 長尾景行

 南北朝時代から室町時代前期にかけての武士。長尾氏7代当主。関東長尾氏の祖。多くの系図では、長尾景為の嫡男とされる。長尾藤景の娘婿となったとする説もある。
 出自に関しては別説あり、長尾藤明(あるいは藤景)の子とする説や、千秋上杉藤氏(藤明らの兄弟と思われる)の子などもある。また、長尾氏の親族である鎌倉氏の後裔が、宝治合戦以降に長尾氏の名跡を継いだ家系とも言われ、出身が長尾氏のいずれの流れであったかは判然としていない。
 景忠自身は上杉憲顕の重臣として各地を転戦。時には上杉氏の名代として足利尊氏に従軍し、「二引旗」を賜って石動山攻略などで武功を重ねたと云われる。越後守護・上杉憲顕配下の越後守護代としても活躍し、康永2年/興国4年(1343年)、憲顕が鎌倉に帰ったあとも越後の国内経営に努めた。観応の擾乱後には上野の守護代に任じられた。一貫して憲顕の腹心として活動し、長尾氏発展の基礎を築いた。

 景行の実在を認めず、忠房,清景兄弟を景忠の子・景直の弟として、景直を景忠の嫡男とする系図もある。
 室町時代の人物。上野国守護代。この景行は永享年間に上野国に蒼海城を築城したと伝わる。上記の景行と同名だが、活動時期がずれているため別人かと思われる。

 

長尾忠政 長尾景棟

 総社長尾氏当主として武蔵守護代を務めると共に、応永29年(1422年)には山内上杉家の奉行人の1人として奉書に名前を連ねている。応永32年(1425年)に鎌倉長尾氏の長尾房景の死去に伴って家宰に就任した。
 忠政が家宰を務めていた時期は、関東管領でもある山内上杉家当主が上杉憲実・清方の時代であり、永享の乱,結城合戦と山内上杉家の存亡に関わる戦いが続いた。この時期に関東管領を支えた忠政は「文武器量尋常の勇士……凡そ忠功一代武勇の発明、八州の隠れなし」などと伝えられる活躍を見せた。特に永享の乱では、憲実の代わりに兵を鎌倉に進め、途中の相模国葛原で進退窮まった鎌倉公方・足利持氏を投降させ、金沢にいた持氏の側近である上杉憲直,一色直兼を攻め滅ぼしている。
 文安元年(1444年)に家宰を白井長尾氏の長尾景仲に譲ったが、奉行人としての活動は同5年(1448年)まで知られている。
 宝徳2年(1450年)死去。後は嫡男・景棟が継いだとされているが、一般には景棟あるいは弟の良済の養子として総社長尾家を継いだとされる長尾忠景(景仲の子)を芳伝名代(=忠政家督)と記した系図や書状が残っており、それらを信じれば、忠景は文安年間には既に総社長尾家の家督を継いでいたことになる。そのため、景棟,良済兄弟は父の忠政に先だって死去したため、改めて家督継承者として忠景を後継者に迎えたとする説もある。 

 宝徳元年(1450年)の父の没後に武蔵国守護代として享徳の乱では山内上杉氏の一員として戦い、寛正3年(1462年)頃には本領の武蔵長尾郷に住んでいたとされ、文明10年(1478年)に没し、養子の忠景が後を継いだとされている。
 ところが、その後の研究で、忠景が景棟ではなく、父・忠政の養子であったことを示す系図(「長林寺本長尾系図」)や忠景の書状の存在が指摘され、文安年間(1440年代)には忠景が総社長尾家を継いでいた可能性が指摘されるようになった。このため、景棟,良済の兄弟が家督を継いでいたとしても文安年間には既に没しており、その後に忠景が忠政と養子縁組をして後を継いだと推定されるようになり、従来考えられてきた享徳以降の景棟の事績は全て忠景の事績であったと考えられている。
 また、応永33年(1426年)頃の山内上杉氏の家臣奉書に登場する「修理亮」が景棟の可能性があり、一方でこの時期に父親の忠政の山内上杉家家宰としての活動が見られないことから、この時期に景棟が父の職務を代行していた可能性を指摘する説もある。 

長尾忠景 長尾顕景

 白井長尾家から惣社長尾家・長尾景棟の養子となり、家督を継いだ。その後、武蔵国守護代など山内上杉家の要職を務めた。一方、実家の白井長尾家では、父・景仲が山内上杉家の執事に就任し、父の後は兄・景信が執事となっていた。
 文明5年(1473年)に景信が死去すると、上杉顕定は忠景を山内家の執事とした。これに不満を抱いた景信の子・長尾景春は足利成氏に通じ、顕定に反乱を起こした(長尾景春の乱)。
 忠景は顕定方の将として甥の景春の反乱の鎮圧に転戦するも、五十子の戦いで敗北し上野に逃れるなど苦戦を強いられた。反乱が終息した後も長享の乱が勃発すると、それまで協調してきた主家の山内上杉家と扇谷上杉家が対立関係となり、忠景の本拠である上野においては長野氏ら上州一揆の国人勢力が台頭するなど、晩年まで戦いの人生を送った。
 鎌倉円覚寺雲頂庵を再興した。文亀元年(1501年)閏6月29日死去。
 惣社長尾氏の継承について、長尾忠政の欄を参照。

 総社長尾氏庶流・高津長尾氏の長尾定明の子として誕生。関東管領・上杉顕定に仕えて偏諱を受ける。永正7年(1510年)、越後国の長尾為景との戦いに加わった父・定明が長森原の戦いにおいて顕定と共に討たれたため、その後を継いだ。
 大永4年(1524年)、従弟で総社長尾氏当主の長尾顕方が山内上杉家の家宰職を足利長尾氏の長尾景長に奪われたことを恨み北条氏綱と内応した。これを知った関東管領・上杉憲寛によって顕方は廃され、代わりに顕景が当主となった。しかし、顕景も白井長尾氏の長尾景誠と共に長尾為景に通じたため、大永7年(1527年)に憲寛の命を受けた上野長野氏に攻められて降伏、出家して知龍斎元昶と名乗って家督を景孝に譲った。享禄4年(1531年)には既に出家していたことが確認できる。
 その後の動向は不明だが、上野への武田信玄の侵攻で総社長尾氏が所領を失った時に老齢の顕景も一族と共に越後の上杉謙信を頼ったとも言われている。 

長尾景仲 長尾景信

 上野群馬郡白井城主。太田道真と共に「関東不双の案者(知恵者)」と称された。孫には太田道灌(外孫)がいる。
 鎌倉長尾氏の長尾房景の次男として誕生。母方の伯父・長尾景守の婿養子となって白井長尾氏の家督を継いだ。14歳であった応永8年(1401年)、養父の死によって上杉氏の重臣である白井長尾氏を継ぐ。当時の家宰であった長尾氏の長尾忠政と共に上杉憲定を補佐し、以後5代の当主に仕えることとなる。応永23年(1416年)の上杉禅秀の乱では、由比ヶ浜で上杉禅秀の軍を破って主君である関東管領・上杉憲基と鎌倉公方・足利持氏を鎌倉へと復帰させた。
 文安元年(1444年)、忠政が家宰を退くと子供達を連れて出奔した上杉憲実に代わって山内上杉家当主を兼ねることになった憲実の弟の越後国守護・上杉清方(上条上杉家)の要請で山内上杉家の家宰に就任した。清方が急死すると、景仲は扇谷上杉家の家宰で婿の太田資清(道真)と相談して憲実の長男・上杉憲忠を擁立させた。
 ところが、足利持氏の遺児・永寿王丸(足利成氏)を新しい鎌倉公方に擁立する動きが清方の後を継いだ越後守護・上杉房朝や関東諸将の間で起き、室町幕府もこれを容認した。文安4年(1447年)、永寿王丸と憲忠は鎌倉に入って憲忠が関東管領に任命され、2年後の宝徳元年(1449年)に永寿王丸が元服して「足利成氏」と名乗って正式に第5代・鎌倉公方に就任した。だが、成氏が永享の乱,結城合戦で鎌倉公方家に殉じた武将の遺児達を側近として登用するようになると、上杉氏やその家臣団の反発も高まっていった。
 宝徳2年(1450年)、相模国鎌倉郡長尾郷が足利成氏の命令を奉じた簗田持助に押領される事件が起きる。4月20日、景仲・太田道真が鎌倉に兵500騎を入れて謀反を起こそうとしたが、成氏は事前にこの情報を入手すると、その夜のうちに鎌倉を脱出して江の島に立て籠もった。翌日には由比ヶ浜で両軍は交戦した。長尾・太田軍は惨敗した上に、事情を知らない主君・憲忠までが成氏救出のために、長尾・太田の兵を襲撃してしまう。景仲と道真は道真の主君である前扇谷上杉家当主・上杉持朝の糟谷館に逃げ込んだ(江の島合戦)。
 その後、成氏は鎌倉に戻り、憲忠も職務に復帰、その懇願によって景仲らの罪も赦免された。ところが、その後も成氏側,憲忠側双方の武士が対立陣営の所領を押領する事件が頻発した。このため、憲忠,持朝は成氏打倒を計画する。だが、享徳3年12月27日(1455年1月15日)、景仲が長尾郷の御霊宮に泊りがけで参詣に出ていた夜に、憲忠は成氏の御所にて成氏軍に討たれてしまう。さらに、景仲に代わって上杉氏の家宰職となっていた義兄弟の長尾実景も嫡男・景住と共に成氏方の襲撃によって殺害された。
 憲忠暗殺の報せを聞いた景仲は鎌倉に戻ると、ただちに管領屋敷に火を放つと共に憲忠の正室(上杉持朝の娘)ら生き残った人々を持朝の糟谷館に避難させた。糟谷館に着いた景仲は、持朝ら上杉一族の要人と協議して京都にいる憲忠の弟・房顕を次の関東管領に迎え入れると共に成氏を討伐することを決めた。更に景仲はそのまま領国の上野に入って兵を集めると共に、使者を越後守護・上杉房定に派遣して援軍を求める一方、嫡男・景信を直接京都に派遣して事の次第を幕府に報告、房顕を迎えることにした。そして、景仲は長尾実景,景住の死で空席となった家宰の地位に再びつくことになった。
 康正元年(1456年)に入ると、成氏は上杉氏の本国である上野を攻略するために鎌倉を出発して武蔵府中の高安寺に入った。この報せを聞いた景仲は直ちに上野,武蔵の兵を率いて府中に向けて出撃し、上杉一族もこれに合流すべく出陣した。だが1月21日、分倍河原の戦いにて惨敗し、扇谷上杉家当主・上杉顕房、犬懸上杉家の上杉憲秋ら名だたる武将を多く失い、難を逃れた景仲だけが残った軍をまとめて辛うじて常陸国小栗城まで落ち延びた。しかし、閏4月には小栗城も成氏軍が攻め落として景仲は上野に逃れた。だが、成氏も上杉氏救援に駆けつけた今川範忠によって鎌倉を追われて下総国古河城を根拠として古河公方を名乗った(享徳の乱)。その後も戦いは関東地方各地を二分して展開し、長禄3年(1459年)の上野・羽継原の戦いでは成氏軍を打ち破るなど、上杉軍の中核として活躍して道真と並んで「東国不双の案者」などと呼ばれた。
 寛正4年(1463年)、鎌倉にて死去。享年76。関東管領上杉氏と白井長尾氏の発展のために力を尽くした生涯であった。嫡男の景信が家宰職を継いで山内上杉家を統括、成氏との戦いを継続していった。
 宝徳2年(1450年)に雙林寺を開基、木像が安置されている。

 寛正2年(1461年)、家督を継ぎ、山内上杉家の当主・上杉房顕の執事となった。
 文正元年(1466年)に房顕が嗣子無くして死去する。そのため越後国の上杉房定の子・顕定を山内上杉家に迎え、文正2年(1467年)には関東管領にしている。そして景信自身は守護代として山内上杉家の実権を掌握し、陰の実力者として古河公方である足利成氏と対立する。
 文明3年(1471年)4月、自ら総大将として上杉軍を率いて下野国に攻め入り、赤見城や樺崎城を落としている。同年6月24日、成氏の居城・古河城を陥落させた。しかし文明4年(1472年)に成氏が古河城を奪い返したため、再び自ら総大将として下総に攻め入り、足利軍と対峙する。
 翌文明5年(1473年)6月23日、死去。享年61。
 景信の死後、顕定は弟・忠景を山内家の執事職に任じたため、これに不満を抱いた景信の嫡男・景春は足利成氏に通じた(長尾景春の乱)。 

長尾景春 長尾景英

 北条早雲と並ぶ関東における下克上の雄の一人である。
 山内上杉家の家臣として享徳3年(1455年)からの享徳の乱で古河公方・足利成氏と戦い、文明3年(1471年)に父と共に成氏の古河城攻めにも参戦している。
 文明5年(1473年)に父・景信が死去すると白井長尾家を継ぐが、山内上杉家当主・上杉顕定の家宰の地位は叔父で総社長尾氏当主の長尾忠景が継ぐこととなった。山内上杉家の家宰職は鎌倉(足利)長尾氏当主が継承し、適任者がいない場合には総社・白井両家の長老から選ばれていたことから不自然な人事ではなかったが、祖父,父の功労で当然家宰になれると考えた景春はこれに対して不満を抱き、やがて顕定や忠景を憎悪するようになる。また、この人事によってこれまで景仲,景信に従って所領を与えられた武士の中には忠景が当主になることで所領を忠景の配下に奪われるのではという不安が高まり、こうした不安を受けた景春は一連の動きを白井長尾家を抑えようとするものと考え、反乱を決意する。
 文明7年(1475年)に武蔵国鉢形城に立て籠もり、翌年6月には反乱を起こして、顕定軍を五十子陣において大いに打ち破った。文明9年(1477年)1月には顕定軍を大いに破り、顕定の勢力を上野国にまで放逐することに成功した(五十子の戦い)。また、上杉氏と敵対する豊島泰経,豊島泰明,千葉孝胤,那須明資,成田正等らと同盟を結び、相模国から下総国に至る関東一円に戦線を拡大した。
 しかしこのような状況を見た扇谷上杉家の家宰・太田道灌が武蔵に勢力を拡張する好機として攻め込んでくる。景春も勇戦したが、道灌の八面六臂の活躍の前に各地で敗れて景春の勢威は衰退する。このため景春は足利成氏の支援を受けることで、何とか道灌と戦い続けた。しかし文明10年(1478年)、道灌の策略で長年対立していた上杉氏と成氏の間で和議が成立すると景春は後ろ盾を失い、結果として道灌に攻められて鉢形城は落城し、秩父の山岳地帯に逃れるが、文明12年(1480年)6月、最後の拠点である日野城を道灌に攻め落とされ、景春は武蔵を追われた(長尾景春の乱)。
 古河公方・足利成氏の下に逃れた景春は、成氏から左衛門尉の官途名を与えられて奏者を務めながら再起をうかがっていたが、やがて道灌が暗殺されると、成氏の下にいた景春は道灌を討った後に顕定に攻められていた上杉定正に加担して相模に入り顕定と戦う(長享の乱)。なお、この頃に出家して「其有斎伊玄」と号している。ところが、明応3年(1494年)に定正と結んでいた成氏が顕定と和睦すると、あくまでも顕定と戦おうとする景春と成氏の意向に従って顕定と和睦しようとする嫡男・景英が対立、最終的には成氏に従った景英は帰参を許されて顕定から白井長尾家の当主に取り立てられ、景春は当主の座を追われると共に親子で敵味方に分かれて戦うことになったとみられる。
 永正2年(1505年)に扇谷上杉氏が降伏して長享の乱が終結すると、行く宛を失った景春はやむなく顕定に降伏した。ただし、白井城は景春の乱以来、顕定の実家である越後上杉氏が占領しており復帰できなかった。
 永正6年(1509年)、顕定が景春の同族で越後国守護代・長尾為景を討つために越後に出兵すると、これを好機と捉えた景春は為景や相模で自立していた伊勢宗瑞と同盟を結び、翌永正7年(1510年)6月7日に相模の津久井山にて挙兵する。7月に入ると景春は顕定に味方する扇谷上杉家の軍に敗れて津久井山から撤退するものの、直後に顕定が越後で戦死したとの報せが入り、白井城奪還の機とみた景春は8月には上野へと兵を移動する。その頃、白井城では顕定の養子・憲房が敗軍をまとめていたが、景春はこれを攻めて白井城奪還を図った。だが、既に白井長尾氏の当主となっていた景英や現地の一揆・浪人衆らは憲房側についたために最終的には白井城を追われる。景春は都留郡から再度関東への復帰を図るがこれも失敗に終わり、永正9年(1512年)には駿河国の今川氏の下で亡命生活を送っている。
 永正11年(1514年)8月24日に死去、享年72。駿河などの亡命先で客死したとみられている。
 景春が文明8年(1476年)から数十年にわたって反乱を続けたことは、結果として関東における上杉氏の勢力を大いに衰退させることに繋がった。早雲は景春を「武略・知略に優れた勇士」として賞賛したという。

 父・長尾景春と共に主君である上杉顕定と戦うが、本拠地である上野国白井城が奪還され、また景春父子が頼りとしてきた古河公方・足利政氏が上杉顕定と和解すると、扇谷上杉氏を頼ってあくまでも顕定に対抗しようとする父と対立した。明応5年(1495年)までに景英は父の下を離れて顕定に降り、景英は山内上杉家の重臣に列した。永正2年(1505年)に長享の乱が終結すると、追い詰められた景春も顕定に降伏した。
 永正7年(1510年)に入ると、景春は密かに越後国の長尾為景,相模国の伊勢宗瑞と結んで顕定の越後出兵の隙に再度挙兵する。同年7月に顕定が戦死すると、景春は顕定の養子で白井城を引き続き占拠していた憲房とも戦うが、逆に景英は憲房に対して同じ顕定の養子であった上杉顕実から関東管領の地位を奪うように勧めた(永正の乱)。このために親子の対立が激化して景春は出奔し、逆に景英は憲房を援けて顕実追放に功を挙げたとして、憲房によって白井城を返還されたとみられるが、その時期については憲房が勝利した永正9年(1512年)から大永4年(1524年)の間としか判明していない。更に大永4年の段階では既に嫡男・景誠に家督を譲っていたとみられている。 

長尾憲景 長尾輝景

上野国白井城主。一時期、八崎城主。白井長尾氏7代当主・長尾景誠の横死後に長野業正の斡旋で景誠の養子となり、白井長尾氏の家督を継いだ。この際に主君で関東管領・上杉憲政より偏諱を受けて「憲景」と改名した。
 天文21年(1552年)に上杉憲政が北条氏康によって上野を追われると、憲景は後北条氏に従ったとみられる。その後永禄3年(1560年)に憲政を擁した長尾景虎(上杉謙信)の関東侵攻が行われると、これに従った。憲景は一時期「脳病」で一時重篤状態となり、謙信の小田原城攻めには名代として嫡男・憲春を参陣させている。
 その後も上杉氏の関東侵攻に従い武蔵,上野の各地を転戦する一方で敵対する後北条氏や武田氏と戦った。永禄10年(1567年)3月に武田方の真田幸綱に白井城を攻略され、さらに北条方に寝返った厩橋城主・北条高広に攻められ上野を追われた。
 白井城を追われた後は一時期常陸国の佐竹義重の元に身を寄せており、太田資正と共に小田氏治と戦う一方で、謙信に戦況報告と越山の要請を行っている。その後、謙信の元に従ったとされる。
 永禄12年(1569年)に越相同盟が結ばれたことで北条高広に奪われた所領が返還され、元亀元年(1570年)に謙信より白井領のうち田留城を与えられ、さらにその1,2年後に八崎城を築城して白井城奪還を狙った。
 天正6年(1578年)に御館の乱が勃発すると由良国繁を通じて後北条氏に従属したが、態度を鮮明にしていない段階で景虎方の厩橋北条氏に居城の八崎城を攻められ、さらに武田方の真田昌幸によって不動山城を攻略された。その後、厩橋北条氏を通じて武田氏に従属し、同8年(1580年)3月に北条方で当時女淵城将を務めていた猪俣邦憲に田留城を攻められている。しかし翌年5月には再び後北条氏に従属し、その翌年(1582年)3月に武田氏が滅亡するにあたり真田昌幸の北条方への従属の仲介を担っている。
 武田氏滅亡後は一時上野に赴任してきた滝川一益に属したとみられるが、神流川の戦いで後北条氏が再度上野に進出するとこれに従った。この段階で憲景は白井城を奪還し、およそ15年ぶりに白井城への帰還を果たした。尚、同年2月には次男・輝景に家督を譲ったとみられる。また、後北条氏に従った段階で3男・鳥房丸(後の景広)を人質として提出した。その後翌年正月までに中山城を攻略し、北条氏政より沼田領の攻略に励むよう求められている。
 没年は天正12年(1584年)とされる。その後の白井長尾氏は後北条氏の従属国衆となり、後北条氏の元で隣接する吾妻・沼田領を治める真田氏攻略の先鋒的役割を担うことになる。

 長尾憲景の次男であったが兄・憲春に代わって嫡男となる。越後国の上杉輝虎(謙信)に仕えて偏諱を受け輝景と名乗る。
 謙信の死後、真田昌幸ら甲斐武田氏の勢力に攻められて居城の白井城を奪われると、父・憲景は形式上、家督を輝景に譲る形で武田氏に屈した。天正10年(1582年)に武田勝頼が織田信長に滅ぼされると、直ちに上野国を任された織田氏重臣・滝川一益と結んで白井城を奪還した。本能寺の変後は、後北条氏について弟・鳥房丸(のちの政景,景広)を人質として差し出した。
 天正11年(1583年)、父・憲景が没すると、家臣の中からは北条氏政に寵愛を受けている鳥房丸を当主に迎えるべきであるとする意見の派閥が現れ、輝景派の家臣団と対立した。それは元服して氏政の一字を受け政景と名乗った鳥房丸が天正13年(1585年)に帰国したことで一層強くなった。その後、政景と親北条派の重臣が輝景派の重臣を謀殺すると、輝景は親北条派重臣の出仕を停止するなど家中の緊張が高まった。
 天正17年(1589年)、輝景が病気で倒れると、親北条派は強引に輝景を隠居させて政景を当主に立てた。ただし、同年暮に輝景が豊臣秀吉に対する備えの強化を指示する発給文書が存在するため、この家督継承を史実ではないとする説もある。いずれにしても翌年の秀吉の小田原征伐によって北条氏が没落すると、白井長尾氏の領地も没収となり、輝景は越後の上杉景勝を頼って再び上杉氏に仕えることとなった。
 後に弟の景広(政景から改名)も景勝に仕えたためにこれを後継者とした。慶長3年(1598年)に景勝から所領安堵状を受けたのを最後に記録から姿を消して景広が当主として登場するため、この安堵状の後に没したと考えられている。 

長尾景広

 天正10年(1582年)、兄・長尾輝景の命によって後北条氏の人質として小田原城に入る。最初は北条氏政の偏諱を受けて政景と名乗った。3年後に帰国するも重臣である牧和泉守・牧弾正の父子の居城・田留城を所望する。輝景と牧父子はこれを拒むが、政景は親北条派の重臣達の支持を受けて独断で牧氏一族を滅ぼして田留城を奪取、天正17年(1589年)には兄を隠居させて家督を奪ったとされる。
 天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐の後に白井長尾家は没落。一時期は加賀国前田氏に預けられるが、その後すぐに、兄と共に同族・上田長尾家出身の上杉景勝に仕えた。兄の死後に継承分を併せて1,000石を領する。田中三九郎の陣代として田中権四郎を称し、60石の馬廻組として仕えていたが、後に景勝の命で長尾氏に復姓、侍組となり1,000石を領するとしている。
 大坂冬の陣にも参戦し、前備を勤めた。元和元年(1615年)には侍頭となり、1,000石加増される。出羽国山形藩の最上氏改易の際には山形城の接取と警護を担当した。
 寛永3年(1626年)に辞職し、同7年(1630年)死去。