<光孝平氏>

K321:光孝天皇  光孝天皇 ― 是忠親王 ― 興我王 ― 平 篤行 H902:平 篤行

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平 篤行 平 兼盛

 山城守・興我王の次男。官位は従五位上・大宰少弐。
 仁和2年(886年)篤行を含む興我王の子女5人が平朝臣姓を与えられて臣籍降下する。
 寛平5年(893年)文章生に補されると、秀才を経て、寛平10年(898年)対策に及第し、翌昌泰2年(899年)式部少丞に任ぜられる。延喜3年(903年)従五位下・三河守に叙任されて地方官に転じると、延喜8年(908年)筑前守、延喜9年(909年)には大宰少弐を兼帯するなど地方官を歴任した。またこの間の延喜8年(908年)には治国の功労により従五位上に叙せられている。延喜10年(910年)1月卒去。
 勅撰歌人として、『古今和歌集』に和歌作品1首が採録されている。

 筑前守・平篤望または大宰大弐・平篤行の3男。官位は従五位上・駿河守で三十六歌仙の一人。
 『尊卑分脈』によると、光孝天皇の玄孫として以下の系譜となっているが、いくつかの矛盾点が指摘されている。興我王は、貞観2年(860年)従五位下に叙爵していることから、天安元年(857年)生まれの是忠親王の子とはできない。兼盛ははじめ諸王であったことから、仁和2年(886年)平朝臣を与えられ臣籍降下している平篤行の子とはできない。
 復元系譜として、光孝天皇-是忠親王-篤望王-平兼盛が提示されている。この根拠は、兼盛王は「仁和御後』として従五位下への王氏爵を受けていることから光孝天皇後裔の三世王(曾孫)と考えられること、『兼盛集』奥書に「筑前守篤望王三男」とあること、また、篤望王は朱雀朝(930年代)に活動記録があることが挙げられている。篤望王と忠望王は兄弟でもある。
 大学寮で紀伝道を学び寮試に及第して擬文章生となるが、天慶9年(946年)村上天皇の即位に際して王氏爵に預かるべき諸王がいなかったため、兼盛王が従五位下に叙爵された。天暦4年(950年)平朝臣姓を与えられて臣籍降下して、越前権守に任ぜられる。その後も応和元年(961年)山城介と地方官を務める。応和3年(964年)大監物として京官に復し、康保3年(966年)従五位上に叙せられる。円融朝の天元2年(977年)駿河守に任ぜられ再び地方官に転じた。正暦元年(991年)12月28日卒去。
 『拾遺和歌集』『後拾遺和歌集』における代表的な歌人の一人であり、『後撰和歌集』以降の勅撰和歌集に約90首が採録。家集に『兼盛集』がある。また、『天徳内裏歌合』における壬生忠見との対決も有名だが、ほかにもさまざまな歌合・歌会・屏風歌の有力歌人として知られる。生存中から様々な挿話,逸話の主人公として知られていた。
 兼盛が妻と離婚した際、妻は既に妊娠しており、赤染時用と再婚した後に娘(のちの赤染衛門)を出産したため、兼盛が娘の親権を主張して裁判で争ったが認められなかったとの逸話が伝わる。