中国(秦王朝)渡来系

HT02:秦 島麻呂  秦 酒公 ― 秦 島麻呂 ― 東儀季兼 HT03:東儀季兼

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東儀季兼 季熈

 大坂天王寺で楽人をつとめる東儀氏の出身。初名は兼行。正親町天皇に京都方の安倍季房にかわって内侍所御神楽の篳篥を担当することを命じられ、安倍姓を許される。元和2年1月24日死去。53歳。

 

 10歳で宮中に奉仕、正六位肥後介。13歳で「還城楽」童舞を天覧に供した。篳篥に長ける。明治3年東京に移り、宮内省楽師となり、林広守らと雅楽局創設に尽力。伶人,雅楽師長を経て、41年楽部と改称されて初代楽長となり、45年まで務めた。この間、伊勢神宮の御神楽再興に尽力、また雅楽保存のため、華族名家の子弟を集めて糸竹会を組織した。唱歌「風車」「学ノ道」「山吹」などを作曲。
東儀和太郎 東儀季治
 昭和元年宮内省(宮内庁)楽部楽生となり、楽師、34年楽長補、45年楽長を務め、51年退官。この間、37〜53年東京芸術大学講師、54年米国ウェスリン大学客員教授、のち小野雅楽会楽長,国立音楽大学講師などを兼任。雅楽の普及に努めるとともに、廃曲の復元に尽力。著書に「日本の伝統“雅楽”」「日本の古典芸能雅楽曲の作法」などがある。

 1872年(明治5年)に京都から東京へ移住する。1879年(明治12年)から宮内省に出仕し、1890年(明治23年)に雅楽部の伶人兼楽手に補せられる。1892年(明治25年)9月に早稲田専門学校文学科に入学したと本人自筆の履歴書に書いているが、学籍簿には記録されていない。1897年(明治30年)には宮内省を退職し、帝国教育会や独逸学協会学校に勤める。
 1902年(明治35年)からは坪内逍遥に師事し、1905年(明治38年)には早稲田大学の講師として清国留学生部に唱歌を担当する傍ら、1906年(明治39年)には文芸協会の創立に参加し、高田早苗の知遇を受けて早稲田大学学監室主事の名を与えられて秘書、更に副幹事に任ぜられる。1911年(明治44年)に早稲田大学を辞して演劇、特に俳優養成に専念する。
 文芸協会の解散した後は無名会,新文芸協会を創設し、更に晩年は日本音楽史の編述に当る。1925年(大正14年)2月4日、脳出血のため死去。
 早稲田大学校歌の作曲でもある。

東儀秀樹

 商社マンだった父親の仕事の関係で、幼年期をタイ,メキシコで過ごす。成蹊高等学校卒業後に國學院大學の文学部二部神道学科で学ぶかたわら、宮内庁式部職楽部の楽生科で雅楽を学ぶ。1986年から10年間、楽師として活躍する。宮内庁の楽師として活動する一方で、1996年にアルバム『東儀秀樹』でデビューする。雅楽器とピアノやシンセサイザーといった現代楽器をコラボレートしている。同年に宮内庁を退職し、フリーランスでの活動をスタートさせる。
 本人は雅楽器だけでなく、ピアノ,キーボード,シンセサイザー,チェロ,ドラム,ギターなどさまざまな楽器の演奏を行う。また「生きてきたぼくたちへ」など、自らボーカルを執る楽曲もある。
 映画,テレビ番組やCMにも楽曲を提供し、俳優としても活動しており、2008年放送のNHK大河ドラマ『篤姫』では孝明天皇役で出演した。
 2004年、文化庁芸術選奨文部科学大臣新人賞を受賞した。専門として演奏する雅楽器は篳篥であるが、龍笛,鳳笙なども演奏する。ただし、宮内庁の楽師には管楽器において「他管を侵さず」という厳格な決まりがあり、例えば篳篥を選んだ時点で他管の龍笛および笙を演奏することはない。また最近は、雅楽よりも庶民的な芸能で既に衰退した伎楽の復興にも力を入れていて、コンサートなどでもたびたび上演している。
 2008年に京都嵯峨芸術大学の客員教授に就任した。また、学習院女子大学非常勤講師,上野学園大学,名古屋音楽大学,大正大学,池坊短期大学客員教授,皇學館大学特別招聘教授を務める。