| K302:欽明天皇 | 継体天皇 ― 欽明天皇 ― 厩戸皇子 | K303:厩戸皇子 | ● |

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| 厩戸皇子 | 山背大兄王 |
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| 聖徳太子Wikipedia参照 |
『日本書紀』皇極紀によると、推古天皇が病死後にその後継問題が発生し、蘇我氏の庶流・境部摩理勢らは山背大兄王を擁立する。その結果、蘇我蝦夷の擁立する田村皇子らと皇位を争うが、蝦夷から山背大兄王に対して自重を求める意見をされたこともあって皇位は田村皇子が継承することとなり、629年に即位する(舒明天皇)。 |
| 弓削王 | 泊瀬王 |
| 皇極天皇2年11月1日(643年12月20日)に、大臣の蘇我入鹿の命を受けた巨勢徳多,土師猪手,大伴長徳ら約100名の兵に、斑鳩宮にいた父・山背大兄王と共に襲撃される。『聖徳太子伝補闕記』によれば、癸卯年11月11日(643年12月30日)丙戌亥時に太子子孫を宗我大臣并林臣入鹿が殺し、その6日後の辛卯辰時に大狛法師が斑鳩寺にいた弓削王を殺したという。これにより上宮王家は滅亡した。 |
628年に推古天皇が崩御すると、皇嗣を巡って、敏達天皇の孫・田村皇子(のち舒明天皇)を推す蘇我蝦夷と、用明天皇の孫・山背大兄王を推す境部摩理勢とが争う。泊瀬王は兄の山背大兄王を支持して、境部摩理勢を自邸の泊瀬王宮に匿うなどその後ろ盾となった。しかし、山背大兄王の説得により摩理勢は泊瀬王宮を退去し、さらに泊瀬王は病気となり間もなく没した。 |