<継体朝>

K307:天武天皇  継体天皇 ― 欽明天皇 ― 敏達天皇 ― 押坂彦人大兄皇子 ― 天武天皇 ― 高市皇子 K310:高市皇子

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高市皇子 長屋王

 672年、壬申の乱の勃発時、吉野宮にいた父とは別居して、高市皇子は近江大津京にあった。天武天皇元年6月24日に行動を起こした大海人皇子は、大分恵尺を使者として、高市皇子と大津皇子に事を告げ、伊勢で会うよう命じた。2人の皇子は別行動をとり、高市皇子は鹿深を越えて6月25日に積殖山口で父に追いついた。鹿深は甲賀,積殖は伊賀の阿拝郡の柘植である。このとき従っていた者は、民大火,赤染徳足,大蔵広隅,坂上国麻呂,古市黒麻呂,竹田大徳,胆香瓦安倍であった。高市皇子はそのまま大海人皇子の一行に加わった。大津皇子は遅れて鈴鹿関に着き、無事に合流した。
   6月26日、伊勢の朝明郡の郡家の手前で、一行は村国男依に出会った。男依は、美濃の軍3000人で不破道を塞ぐことができたと報告した。大海人皇子は郡家に着いてから高市皇子を不破にやって軍事を監督させ、東海と東山に動員を命じる使者を送った。
   6月27日、高市皇子は不破から桑名郡家にいた父に使者を送り、「御所から遠くにあって、政治を行うのに不便です。近い所にいてください」と要請した。そこで大海人皇子は野上に移った。この日、不破においた伏兵が、西から来た敵の使者、書薬と忍坂大麻呂を捕らえた。高市皇子は和蹔から野上まで父を出迎え、敵の使者のことを報告した。大海人皇子は、高市に鞍馬を与え、軍事をすべて委ねた。
  高市皇子は和蹔に帰り、大海人皇子は野上に行宮を作った。和蹔は、後の関ヶ原盆地を指す。不破関はその西方の入り口、野上は東の端にある。各地から来た大海人皇子の軍勢は、和蹔に集結して高市皇子に掌握されたと考えられる。
  28日に大海人皇子は和蹔に出向いて軍事を検校して帰った。29日にも和蹔に行き、高市皇子に命令を与え、軍衆に号令して、また野上に帰った。
  日付は不明だが、6月末か7月初めに、敵の小部隊が玉倉部邑を衝いたが、出雲狛が撃退した。
  7月2日、大海人皇子はそれぞれ数万の2つの軍を送り出した。一方は伊勢から倭(大和)に向かって大伴吹負軍の増援となり、もう一方は不破から出て近江に直に入った。これ以後の戦闘で、高市皇子の名は見えない。近江進攻軍とともにあり、指揮の実際は諸将に委ねたか、なお和蹔にあってさらに遠方から来る軍を受け入れたのであろう。
  7月23日に大友皇子が自殺したことで、壬申の乱は終わった。8月25日に、大海人皇子は高市皇子に命じて、近江の群臣を処罰させた。
  乱の終結した直後、天武天皇2年(673年)2月に即位した天武天皇の皇親政治のもと、高市皇子を除く他の皇子たちはまだ幼かったが高市皇子より以下、小錦より以上の大夫らに衣,袴,褶,腰帯,脚帯,机,杖を賜うとある。
  天武天皇8年(679年)5月6日に、天皇、皇后(持統天皇),草壁皇子,大津皇子,高市皇子,川島皇子,忍壁皇子,志貴皇子は、吉野宮で互いに助け合うことを約束した(吉野の盟約)。10日に六皇子が大殿の前で天皇を拝した。天武天皇が自らの死後に壬申の乱のような皇位継承争いが起こることを恐れたためとされる。
  この頃から高市皇子は天武天皇の皇子の中で第三の地位とされるようになった。皇女を母にもつ草壁皇子,大津皇子に次ぐ。天武天皇14年(685年)1月21日、冠位48階の制が定められたとき、高市皇子は浄広弐の位を与えられた。天武天皇の皇子の中で草壁皇子、大津皇子に次ぎ3番目であった。
  天武天皇が亡くなった直後、皇太子につぐ皇位継承資格を持つと見られていた大津皇子が謀反の罪で死刑になった。続いて皇太子の草壁皇子が持統天皇3年(689年)4月13日に薨御した。そのためそれまで天武天皇の皇后として政務を執っていた鸕野讚良皇女が翌年(690年)1月1日に即位した。持統天皇である。この年の7月5日に全面的な人事異動があり、高市皇子は太政大臣に任命された。このときから薨御まで、高市皇子は皇族・臣下の筆頭として重きをなし、持統政権を支えた。
  持統天皇4年(690年)10月29日、高市皇子は多数の官人を引き連れて藤原宮の予定地を視察した。持統天皇5年(691年)1月4日、高市皇子の封は5000戸になった。
 持統天皇10年(696年)7月10日薨御。『延喜式』諸陵によれば墓は「三立岡墓」で、大和国広瀬郡にあり、東西6町南北4町で守戸はなし。一方で、高松塚古墳の被葬者を高市皇子とする説もある。

 大宝4年(704年)無位から正四位上に直叙される。和銅2年(709年)従三位・宮内卿に叙任されて公卿に列す。
  霊亀3年(717年)左大臣・石上麻呂が薨去すると、翌養老2年(718年)長屋王は参議・中納言を経ずに一挙に大納言に任ぜられ、太政官で右大臣・藤原不比等に次ぐ地位を占める。この異例の昇進は血統の良さもさることながら、優れた政治的能力を期待され、藤原不比等も長屋王を政治家として育成を図ろうとしていたことが窺われる。また、元正天皇は即位前に吉備内親王と同居していたらしく、その夫である長屋王に厚い信任を寄せていたといわれている。
  養老4年(720年)8月に藤原不比等が薨去すると、翌養老5年(721年)正月に長屋王は従二位・右大臣に叙任されて政界の主導者となる。なお、不比等の子である藤原四兄弟(武智麻呂,房前,宇合,麻呂)はまだ若く、議政官は当時参議の官職にあった房前のみであったため、長屋王は知太政官事・舎人親王とともに皇親勢力で藤原氏を圧倒した。長屋王は政権を握ると、和銅年間から顕著になってきていた公民の貧窮化や徭役忌避への対策を通じて、社会の安定化と律令制維持を図るという、不比等の政治路線を踏襲する施策を打ち出す。
  長屋王政権における重要な民政策として開田策がある。養老6年(722年)閏4月、秋の収穫後に10日を限度として人民を賦役させ、官粮や官の調度を活用して、諸司の裁量のもとで良田100万町歩の開墾を進めることとし、故意に開墾を進めない場合は官職を解任し(百万町歩開墾計画)、また、養老7年(723年)4月、人口の増加に伴う口分田の不足に対応するために、三世一身法を制定した。
  養老5年(721年)11月に元明上皇が死の床で、右大臣・長屋王と参議・藤原房前を召し入れて後事を託し、さらに房前を内臣に任じて元正天皇の補佐を命じる。こうして、外廷(太政官)を長屋王が主導し、内廷を藤原房前が補佐していく政治体制となる。同年12月に元明上皇は崩御するが、これにより政治が不安定化していたらしく、翌養老6年(722年)正月には多治比三宅麻呂が謀反誣告を、穂積老が天皇を名指して非難を行い、それぞれ流罪に処せられる事件が発生する。
  神亀元年(724年)2月に聖武天皇の即位と同時に長屋王は正二位・左大臣に進む。間もなく聖武天皇は生母である藤原宮子(藤原不比等の娘)を尊んで「大夫人」と称する旨の勅を発したことで長屋王らは異議を唱え(辛巳事件)、この事件をきっかけとして長屋王と藤原四兄弟との政治的な対立が露になってゆく。
  また、長屋王と吉備内親王の間の子女(膳夫王・桑田王・葛木王・鉤取王)は先の霊亀元年(715年)に皇孫として扱う詔勅が出されるなど、皇位継承権を持つことが意識されていたらしく、聖武天皇やその後継に万一の事態が発生した場合に、長屋王家の子女が皇嗣に浮上する可能性があった。このため、聖武天皇の外戚である藤原四兄弟にとって、長屋王家が目障りな存在だったと考えられる。さらに当時の朝廷には、母親が非皇族かつ病弱であった聖武天皇を天皇に相応しくないと見なす考えがあり、聖武天皇は神亀4年(727年)11月に藤原光明子所生の皇子である基王を生れて間もなく皇太子に指名し、基王が成人した後に譲位し、自らが太上天皇となって政治を行おうと目論む。なお、立太子後まもなく、大納言・多治比池守以下の諸官人が旧不比等邸に居住していた基王を訪問しているが、長屋王はこれに参加していない。結局、神亀5年(728年)9月に基王に満1歳になる前に先立たれてしまい、聖武天皇には非藤原氏系で同年に生まれたばかりの安積親王しか男子がいない状況となった。こうして、聖武系の皇位継承に不安が生じた状況の中で、藤原四兄弟が長屋王家を抹殺した長屋王の変が発生する。
  神亀6年(729年)2月に漆部君足と中臣宮処東人が「長屋王は密かに左道を学びて国家を傾けんと欲す」と密告し、それをうけて藤原宇合らの率いる六衛府の軍勢が長屋王の邸宅を包囲する。舎人親王などによる糾問の結果、長屋王および吉備内親王と所生の諸王らは首をくくって自殺した。『獄令』決大辟条には、皇親及び貴族には死罪の代替として自尽が認められる(ただし、悪逆以上の大罪にはこれを認めない)という規定がある。従って、長屋王の自殺が自らの決断したものなのか、死罪の代替として宇合らに強要されたものなのかは明らかでない。
  長屋王の自殺後、藤原四兄弟は妹で聖武天皇の夫人であった光明子を皇后に立て、藤原四子政権を樹立する。しかし、天平9年(737年)に天然痘により4人とも揃って病死してしまったことから、長屋王を自殺に追い込んだ祟りではないかと噂されたという。なお、『続日本紀』によると、翌天平10年(738年)長屋王を「誣告」し恩賞を得ていた中臣宮処東人が、かつて長屋王に仕えていた大伴子虫により斬殺されてしまう。『続日本紀』に「誣告」と記載されていることから、同書が成立した平安時代初期の朝廷内では、長屋王が無実の罪を着せられたことが公然の事実となっていたと想定されている。

膳夫王 安宿王

 天武天皇の曾孫にあたる三世王であったが、元明朝の霊亀元年(715年)2月に長屋王と吉備内親王との間に生まれた子女は皇孫として扱う詔勅が出され、弟の桑田王,葛木王らとともに二世王待遇となる。この対応に関して、当時は文武天皇の皇子・首皇子(のち聖武天皇)が皇太子に立っていたが、元明天皇が藤原氏を母に持つ首皇子の即位に消極的になり、これに対抗して同じ孫ながら皇族を両親に持つ膳夫王らを皇嗣に推そうとしたとの見解もある。少なくとも、膳夫王らも一定程度の皇位継承権を持つことは意識されていたらしく、首皇子に万一の事態が発生した場合に皇嗣に浮上する可能性があったと考えられる。結局、同年9月に中継ぎの天皇として元正天皇(元明天皇の娘)が即位することとなり、首皇子は皇太子のまま据え置かれた。
 神亀元年(724年)聖武天皇が即位すると、膳夫王は二世王としての蔭位により、无位から従四位下に直叙される。神亀4年(727年)聖武天皇と光明皇后の間に基王が生まれて生後1ヶ月ほどで皇太子に立てられるが、翌神亀5年(728年)9月に基王は夭折してしまう。こうして聖武系の皇位継承不安が現実のものとなった中で、神亀6年(729年)2月に密告によって長屋王が謀反の疑いをかけられる。長屋王は自邸を六衛府の兵士に包囲された上で、同じ皇親の舎人,新田部両親王らから罪を追及されて自殺させられる。同時に膳夫王も吉備内親王や弟たちとともに縊死した(長屋王の変)。     
 『万葉集』に神亀5年(728年)の聖武天皇の難波宮行幸の際に詠んだ和歌作品が残されている。また、作者は不明ながら膳部王(膳夫王)の死を悼んだ和歌も採録されている。

 聖武朝の神亀6年(729年)の長屋王の変により、父の長屋王は妻の吉備内親王とその所生の王らとともに自殺したが、安宿王は母が藤原不比等の娘(藤原長娥子)であったことから同母弟の黄文王,山背王とともに罪を免れた。
 天平9年(737年)長屋王の変の黒幕であった藤原四兄弟が相次いで疫病により没すると、同年9月に三世王の蔭位を受けて従五位下に初叙されるが、同年10月にも続けて昇叙され一挙に従四位下に叙せられる。この時同時に黄文王も従五位下に直叙されている。翌天平10年(738年)玄蕃頭、天平18年(746年)治部卿を歴任する一方で、天平12年(740年)従四位上に昇叙される。天平勝宝元年(749年)孝謙天皇の即位後まもなく中務大輔に任ぜられる。天平勝宝3年(751年)正四位下に叙せられるが、その後は播磨守,讃岐守といった地方官や内匠頭などを務めるが、位階に比べて要職への登用はなされなかった。この間、聖武上皇や太皇太后・藤原宮子の崩御に際して御装束司を務めたり、天平勝宝6年(754年)には唐から渡来した鑑真を迎えるための勅使に任じられるなどしている。
天平宝字元年(757年)に橘奈良麻呂の乱が発生した際に謀反への関与を疑われる。尋問に対して安宿王は「黄文王の仲介で事情がわからないまま謀議に参加させられた」旨の証言をするも嫌疑は晴れず、妻子とともに佐渡に流罪となる。天平宝字4年(760年)摂津国東生・西成両郡にあった安宿王所有の家地が東大寺に売却されており、安宿王家の没落を示している。     
 光仁朝の宝亀4年(773年)高階真人姓を与えられて臣籍降下しているが、高階真人姓の賜姓例としては一番早い。

黄文王 豊野出雲

 天平元年(729年)に発生した長屋王の変では父・長屋王とともに吉備内親王所生の異母兄弟が死罪となったが、藤原長娥子所生の黄文王らは藤原不比等の外孫であったことから死を免れる。

 

 天平9年(737年)長屋王の変の黒幕であった藤原四兄弟が相次いで疫病により没すると、兄の安宿王とともに俄に叙位を受け、同年10月に黄文王は従五位下に叙爵される。その後も聖武朝中盤は順調に昇進するが、任官記録も天平13年(741年)の散位頭しかなく要職への登用はなされなかったと見られる。この状態の中で、天平17年(745年)頃より橘奈良麻呂が謀反の計画を進め始めるが、同調者を集める際にしばしば黄文王を天皇に立てると発言しており、また、橘奈良麻呂の乱における重い刑罰内容より、この頃より黄文王は謀反計画に参画していた、あるいは奈良麻呂と並ぶ計画の中心人物であったとする説もある。天平宝字元年(757年)に発生した橘奈良麻呂の乱に際し、黄文王は橘奈良麻呂により新帝候補の一人に擬せられ、奈良麻呂の意を受けて安宿王を欺して謀議に参加させるなど、謀反に積極的に加担する。しかし、密告により謀反の企ては露見して、7月4日に奈良麻呂や道祖王らと共に捕らえられ、黄文王は久奈多夫礼(=愚かな者)あるいは多夫礼(=誑かす者)と改名させられた後、杖で何度も打たれる拷問を受けて獄死した。 

 天平感宝元年(749年)無位から従五位下に直叙される。天平宝字元年(757年)豊野真人姓を与えられ臣籍降下する。
 淳仁朝に入り、天平宝字3年(759年)従五位上・少納言に叙任されるが、天平宝字5年(761年)安芸守に任ぜられ地方官に転じる。
 天平神護元年(765年)称徳天皇の紀伊国行幸に際して装束司次官を勤める。天平神護2年(766年)正五位下・北陸道巡察使に叙任し、のち右中弁も兼ねる。神護景雲2年(768年)3月には北陸道巡察使として、佐渡国分寺の造営料の稲1万束が越後国から支出されており輸送に負荷がかかっているため、佐渡国の田租から充当するよう言上し許可されている。神護景雲4年(770年)称徳天皇の崩御後まもなく、従四位下・大宰大弐に叙任される。宝亀8年(777年)4月26日卒去。

豊野篠原 豊野尾張

 天平勝宝5年(753年)三世王の蔭位により无位から従五位下に直叙される。天平宝字元年(757年)兄弟の出雲王,尾張王,奄智王,猪名部王とともに豊野真人姓を与えられて臣籍降下する。
 淳仁朝では、阿波国司・大膳亮を歴任する。
 天平宝字8年(764年)に発生した藤原仲麻呂の乱での動静は伝わらないが、翌天平神護元年(765年)外衛中将、神護景雲2年(768年)弾正弼と称徳朝では武官を務めた。神護景雲4年(770年)称徳天皇が崩御した際に、父の鈴鹿王の旧宅を陵墓にすることになり、鈴鹿王の子息が叙位を受けたが、この中に篠原は含まれておらず、これまでに卒去したか。

 天平宝字元年(757年】5月に三世王の蔭位により无位から従五位下に直叙される。同年閏8月に兄弟の出雲王,篠原王,奄智王,猪名部王とともに豊野真人姓を与えられて臣籍降下する。
 淳仁朝では、内蔵頭・大監物・糺政弼を歴任する。
 天平宝字8年(764年)に発生した藤原仲麻呂の乱では孝謙上皇側に加勢したらしく、乱の最中に四階昇進して正五位下に叙せられている。称徳朝の神護景雲元年(767年)能登守として地方官に転じた。神護景雲4年(770年)称徳天皇が崩御した際に、父の鈴鹿王の旧宅を陵墓にすることになり、鈴鹿王の子息が叙位を受けたが、この中に篠原は含まれておらず、これまでに卒去したか。

豊野奄智 六人部王

 天平宝字元年(757年)他の兄弟と共に豊野真人姓を与えられて臣籍降下する。
 天平宝字8年(764年)藤原仲麻呂の乱後に行われた叙位により、従五位下に直叙される。天平神護2年12月(767年1月)従五位上、翌年2月に図書頭に叙任される。神護景雲4年(770年)称徳天皇が崩御した際に、父の鈴鹿王の旧宅を陵墓にすることになり、鈴鹿王の子息が叙位を受け、奄智は正五位下に叙せられる。
 宝亀2年(771年)大判事次いで兵部大輔に任ぜられる。宝亀3年(772年)出雲守として地方官に転じるが、宝亀7年(776年)兵部大輔に再任する。
 宝亀9年(778年)右中弁に任ぜられると、光仁朝末から桓武朝初頭にかけて続けて昇叙される。光仁天皇崩御の際は装束司を務める。延暦2年(783年)中務大輔に任ぜられる。
延暦3年(784年)6月5日卒去。

 和銅3年(710年)鈴鹿王とともに無位から従四位下に直叙される。従四位下の蔭位を受けていることから二世王と想定される。霊亀2年(716年)志貴皇子の薨去に際して、県犬養筑紫とともに喪事を監護する。
 養老5年(721年)長屋王の右大臣任官と同時に従四位上に叙せられると、養老7年(723年)正四位下、神亀元年(724年)正四位上と長屋王政権下で順調に昇進を果たす。神亀3年(726年)聖武天皇の播磨国印南野への行幸に際して装束司を務めた。神亀6年(729年)正月11日卒去。なお、その約1ヶ月後に長屋王の変が発生している。
 長田王,門部王らとともに風流侍従と称された。