<皇孫系氏族>崇神天皇後裔

K102:豊城入彦命  上毛野竹葉瀬 KE04:上毛野竹葉瀬

リンク KE05
上毛野竹葉瀬 上毛野小熊
 『日本書紀』仁徳天皇53年5月条によると、新羅に派遣され、新羅が朝貢しないことを問責したという。その途上では、白鹿を獲たので天皇に献上したのち新羅へ向かったと記される。また、のちに新羅と戦った上毛野田道の兄という。

 笠原使主と同族の小杵が武蔵国造の地位を争った際、小熊は小杵を援助したが小杵は誅殺され、大和朝廷の支持を得た使主が武蔵国造の地位についた。その後、小熊がどうなったのかは不明であるが、緑野屯倉設置の記事と乱の懲罰との関係が指摘されている。
 系図では島守の子に位置づけられているが、甥とされる形名は舒明朝の人物であり、実際には島守の弟と見られる。

上毛野形名 上毛野稚子
 舒明天皇9年(637年)に蝦夷が叛き入朝を拒否したことから、形名は将軍に任ぜられ蝦夷討伐に向かう。形名は一旦蝦夷に敗れ、兵は逃亡し、砦も包囲されてしまう。形名も逃げ出そうとするが、形名の妻は、武勇で知られる先祖の名を汚してはならぬと夫を鼓舞し、夫に無理やり酒を飲ませた上で自ら夫の剣を佩き、弓を張り、女達に弓弦を鳴らさせた。形名は再び奮い立ち進撃した。蝦夷はまだ多くの兵がいると思い少し軍を引いた。その間に、形名は戻ってきた味方の兵をまとめ上げ、蝦夷を破ることに成功したという。

 天智天皇2年(663年)白村江での唐・新羅連合軍との決戦の2ヶ月前、上毛野君稚子,巨勢神前臣訳語,阿倍引田臣比羅夫らの軍団が新羅へ侵攻した。
 天武天皇13年(684年)11月、八色の姓の制定により、上毛野君氏は一族の上毛野三千の労なども含め、長年朝廷に尽くしてきたことにより「朝臣」の姓を賜与されている。

上毛野三千 上毛野難波

 天武天皇10年(681年)3月に天皇は大極殿から詔して、『帝紀』と上古諸事の記定作業を命じている。この撰定者の中で、三千の名前は川嶋皇子,忍壁皇子らに次ぐ七番目に記載されており、皇族以外の人臣としては一番目に当たる。この時の位階は大錦下であった。しかし、この事業は完成せず、同年8月、三千はこの世を去った。
 天武天皇13年(684年)11月の八色の姓で、上毛野君氏は一族の稚子の奮戦や三千の労など、長年朝廷に尽くしてきたことにより「朝臣」の姓を授与されている

 聖武朝初頭の神亀元年(724年)3月に海道の蝦夷が反乱を起こし、陸奥大掾・佐伯児屋麻呂が殺害される。朝廷は式部卿・藤原宇合を持節大将軍に、宮内大輔の高橋安麻呂を副将軍に任じ、判官8人・主典8人を編成して、海道の蝦夷を征討させた。この遠征軍は11月に近江国に派遣された内舎人により慰労され、同月帰還。翌神亀2年(725年)閏正月に聖武天皇は詔を出し、蝦夷征討に従事した1,696人に勲位を授け、難波は後部王起,紀牟良自,坂本宇頭麻佐,丸子大国らを含む9人とともに勳六等・賜田2町を与えられた。
 天平9年(737年)正月に陸奥按察使,大野東人の言上を容れて、男勝村を経由する陸奥国から出羽柵への直行路を貫通させるべく、兵部卿・藤原麻呂が持節大使に任じられ、副使・佐伯豊人、常陸守・坂本宇頭麻佐らに詔して、陸奥国に進発させた。その後、直通路開鑿の過程で、2月25日に大野東人が多賀柵より出発し、さらに3月1日に東人は紀牟良自と騎兵196人、鎮兵499人、陸奥国の兵5000人、帰服した夷狄249人を率いて色麻柵より出発し、その日のうちに出羽国大室駅に到着した。この時、出羽守であった難波は部内の兵500人と帰服した蝦狄140人を率いて、駅にて待機していた。3日後に、難波は東人の軍と合流して賊地に入り、道を開墾しつつ進むが、賊地は雪深く秣が手に入れにくかったため引き返すことになり、雪解けを待って行軍し直すことになった。3月11日に東人は多賀柵に帰還した。
 4月4日に遠征軍は賊地の比羅保許山に駐屯した。これよりも先に難波の書状が届き、雄勝村の俘囚の長ら3人が降服するためにやってきたとあった。東人は夷狄の言を信じられないと言ったが、難波は今回は官軍の威を示してこの地より帰り、その後で難波が帰順の有利なころを諭し、寛大な恩恵によって彼らを懐かせましょうと言った。東人はこの難波の言を聞き入れ、また兵糧のための耕作が大雪のために不可能になったことを鑑み、また新道が完成し、地形も視察したので、自分が出向かなくとも容易に平定できると、麻呂に進言した。
 天平11年(739年)外従五位下、天平16年(744年)には内位の従五位下に叙せられる。その後、孝謙朝にて中衛員外少将を務め、天平勝宝2年(750年)一族とともに田辺史から上毛野君に改姓した。天平勝宝6年(754年)従五位上に至る。

上毛野頴人 上毛野真枚

 文章生に補せられて簡単に歴史を学んだのち、延暦20年12月02年に右少史に任じられる。延暦23年(804年)7月に遣唐使に録事として加わって渡唐、唐において通訳の語る言葉が通じない際には、筆談によって唐人と意思疎通したという。翌延暦24年(805年)6月に帰朝した。大同4年(809年)には渡唐の功労により外従五位下に昇叙された。
 大同4年12月(810年1月または2月)に平城上皇が旧都である平城京へ移ると、外記局は二分されてその官人がそれぞれ平安京,平城京に出仕することになった際、穎人は大外記として平城京に出仕した。弘仁元年(810年)に入ると公姓から朝臣姓に改姓する。同年9月に発生した薬子の変では、平城上皇が挙兵のために東国に向かおうとした際に、陪従たちは慌てふためきどうすべきかわからず混乱したが、穎人は平城京を脱出して平安京に向かい、嵯峨天皇に平城上皇の動静を上奏する。この功労により内位の従五位上に叙せられた。その後、弘仁2年(811年)に度者1人を、翌弘仁3年(812年)2月には山城国乙訓郡の土地1町を賜与されている。またこの間、弘仁6年に上表された『新撰姓氏録』の編纂事業にも参加した。
 弘仁8年(817年)に皇太子・大伴親王(のち淳和天皇)の東宮学士に転じ、のち民部大輔も歴任した。嵯峨朝後半にかけて急速に昇進し従四位上にまで至った。晩年は酒に耽る日々を過ごしたという。
 弘仁12年(821年)8月18日卒去。享年56。

 天平宝字8年(764年)藤原仲麻呂の乱終結後の10月に、乱鎮圧の功労によるものか従八位上から12階昇進して従五位下に叙爵。称徳朝では神護景雲2年(768年)に検校兵庫将軍の官職が新設されるとその軍監に任ぜられる。
 宝亀元年(770年)光仁天皇即位後まもなく上野介として地方官に遷るが、宝亀5年(774年)少納言として京官に復すと、以降宝亀11年(780年)長門守として地方官に転じるまで、光仁朝後半はこれを務めた。
 桓武朝の延暦6年(787年)鎮守副将軍となり蝦夷征討に当たる。延暦8年(789年)6月の征東大将軍・紀古佐美による陸奥国胆沢への侵攻に際し、征東副使・入間広成と鎮守府副将軍・安倍猨嶋墨縄と共に、北上川の渡河を伴う大規模な軍事作戦を実行したが、蝦夷の族長・アテルイらの軍勢の挟み撃ちに逢って大敗する(巣伏の戦い)。同年9月には大納言・藤原継縄らから敗戦に関する取り調べを受け、その結果、愚かで頑固かつ臆病で拙劣であり、兵士を進退させる際に平静を失って軍機を逸したことから官位剥奪に該当するところ、日上湊で溺れていた兵士を救助した功労により解官に留まった。