<神皇系氏族>天神系

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難波経遠 清水宗知

 吉備津彦神社の神職を勤めていたと伝わる。備前国西南部を拠点とする平家の有力家人で、平清盛に召し出され、瀬尾兼康と並ぶ平清盛の腹心として平家に仕えた侍大将。
 保元元年(1156年)に勃発した保元の乱、平冶元年(1159年)の平治の乱で活躍。平治2年(1160年)京都に潜伏していた鎌倉悪源太こと源義平を300騎の軍勢で包囲する。その後、弟の経房の郎等が捕縛した。
 『平家物語』「殿下乗合」に、藤原基房へ報復を加えた人物として登場している。
 安元3年(1177年)に鹿ヶ谷事件を起こして備中国に流罪となった藤原成親の護衛を勤めて、その道中である吉備の中山で平清盛の指示通りに成親の謀殺している。

 庶子であったのか、清水氏の家督は弟の宗治が継いでいる。別の文献では武者修行のため諸国を遍歴し家督を継がなかったとする。しかし宗知もその勇猛さでは弟に負けておらず、永禄11年(1568年)の立花鑑載の反乱でも鑑載の支援の将として九州に渡り、大友氏と戦っている。
 天正10年(1582年)の備中高松城の戦いでは弟の宗治と共に備中高松城に入り防備を固めたが、羽柴秀吉によって水攻めを受ける。最終的には兵士の助命を条件として開城。6月4日に弟の宗治や難波宗忠、小早川氏からの援将・末近信賀と共に切腹した。

清水行宗 清水元親

 天正6年(1578年)の播磨国上月城の戦いにおいて、小早川隆景に従って武功を挙げた。同年6月2日、隆景は井上春忠を使者として派遣し、行宗に感状を与えた。
 天正10年(1582年)の備中高松城の戦いにおいては、父の月清入道,叔父の清水宗治,難波宗忠らと共に備中高松城に籠城したが、羽柴秀吉の水攻めにより、城兵の助命を条件として開城。6月4日に父・月清入道,清水宗治,難波宗忠,小早川隆景からの援将・末近信賀が切腹した。生き残った行宗に対し、小早川隆景は6月12日に書状を送り、清水宗治,月清入道,行宗らの比類無き覚悟を称賛し、毛利輝元へも申し上げる旨を述べている。以後、行宗は小早川隆景に仕え、清水宗治の妻子らの養育も命じられた。
 天正20年(1592年)から始まる文禄の役では、従弟の景治や嫡男の元親と共に小早川隆景に従って朝鮮へ渡り、武功によって隆景から感状を与えられた。

 天正20年(1592年)から始まる文禄の役では、宗治の子である清水景治や父・行宗と共に小早川隆景に従って朝鮮へ渡り戦った。
 慶長元年(1596年)4月13日に父・行宗が死去するとその跡を継ぎ、慶長2年(1597年)から始まる慶長の役にも出陣。蔚山城の後巻を命じられた際に、村落に敵兵が2,30騎ほど待機しているところを発見したため、馬で駆け込み、軽傷を負いつつも馬乗りと取組によって敵兵を討ち取った。この元親の戦功については日野景幸と木原就重が証人となっている。木原就重とは元親が若輩の頃から親しく、山に籠る敵兵を発見した木原就重が抜け駆けで夜襲を仕掛けて70余の首級を挙げた戦いでは、元親の主従も加わって敵兵の首4つを挙げた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後に毛利氏が防長2か国へ転封となると、長州藩士となった元親は物頭役を務めた。
 元和4年(1618年)8月、毛利輝元から吉見広長の追討を命じられた元親は追討軍に加わり、8月25日に吉見広長を討ち取った。しかし、この時の戦いで元親は負傷した。正保4年(1647年)2月4日に死去。享年70。

清水宗治 清水景治

 天文6年(1537年)、備中国賀陽郡清水村(現在の岡山県総社市井手)に生まれる。
 備中国の一豪族の家臣の身分で備中清水城の城主を務め、のちに備中高松城の城主となる。この経緯については諸説あるが、一般的には天正の備中兵乱の際、三村氏譜代・石川氏の娘婿・重臣の立場にでありながら毛利氏に加担し、高松城主の地位を得たとされる。この備中兵乱は文字通り備中一円を舞台とした三村氏対毛利氏の一大戦であり、三村氏家臣の立場でありながら毛利氏についた者は他にもいた。
 毛利氏の家臣となって以後は小早川隆景の配下として毛利氏の中国路の平定に従軍し、忠誠心厚く精励し、隆景をはじめとする毛利氏の首脳陣から深く信頼された。
 天正10年(1582年)4月、統一政策を進める織田信長の家臣・羽柴秀吉が中国攻めを行うと、宗治は高松城に籠城して抗戦する。秀吉は降伏すれば備中・備後2カ国を与えるという条件を出したが、宗治は応じず、信長からの誓詞をそのまま主君・毛利輝元のもとに届けて忠義を示した。
 そのため、黒田孝高が策した水攻めにあって城は落城寸前に追い込まれたが、輝元自らが吉川元春,小早川隆景とともに救援に赴いたため、戦線は膠着状態となった。この水攻めの最中の6月2日に京都で本能寺の変が起こって信長が死去し、その報を知った秀吉は信長の死を伏せて、宗治の命を条件に城兵を助命する講和を呼びかけた。
 結局、宗治は信長の死を知らぬまま、その2日後の6月4日に兄の清水宗知(月清入道),弟の難波宗忠(伝兵衛),援将の末近信賀らとともに水上の舟において切腹した。享年46。辞世は「浮世をば 今こそ渡れ もののふの 名を高松の 苔に残して」
 墓所は山口県光市の清鏡寺にある。

 天正10年(1582年)、毛利氏に与した父・宗治が備中高松城の戦いにて切腹すると小早川隆景に仕えた。隆景は宗治の忠死を惜しんで、景治に自身の「景」の一字と備中河辺に屋敷を与えて厚遇した。また毛利輝元も太刀ひと振りを与えて父の名誉を賞した。さらに父と戦い、その忠死を賞賛した豊臣秀吉から大名として取り立て、直臣になるように勧誘されたが、これを拒否して小早川家臣でいることを選んだ。文禄・慶長の役でも小早川軍の一員として朝鮮に渡って活動した。
 慶長2年(1597年)の隆景死後は養子の小早川秀秋に仕えたとも、毛利氏に復帰したともいわれているが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際には大津城の戦いに参加しており、どちらにしても1600年代初めには毛利氏へ復帰していたようである。
 萩に移った後に、父以来の功績によって一門家老に次ぐ寄組士の席に列する。知行地として野原村,浅江村,島田村,立野村(いずれも現在の光市)において計2500石余りを領した。景治は野原村に下屋敷を構え、浅江村の吉祥寺を高松山清鏡寺と改名し父の菩提寺とした。また、元和9年(1623年)から益田元祥の副役として毛利秀元と共に財政再建に協力して能吏として毛利氏を支えた。寛永9年(1632年)には益田元祥の後釜となり、長州藩の財政を支え続けた。翌年には家督を譲って隠居した。
 慶安2年(1649年)に萩で病死した。享年は79。墓所は萩の毛利氏の菩提寺である洞春寺にあったとされる。子孫に幕末期に活躍し、男爵となった清水親春や清水親知がいる。

清水親春 清水親知

 弘化元年(1844年)父親周の家督を継いだ清水信濃元周の婿養子として家督を相続する。安政2年(1855年)分家の清水図書信篤の長男・親知を養子に迎える。文久3年(1863年)江戸当役(家老)となる。領内長徳寺に郷校慕義場を創立。元治元年(1865年)藩内正義派であった嫡子親知が、禁門の変の責めを負い切腹となり、連座して隠居を命じられる。慶応元年(1865年)藩内の実権を正義派が掌握すると許され、再家督して第二奇兵隊総督となり、第二次長州征討で幕府軍と戦う。
 明治8年(1875年)2月16日死去。享年58。明治33年(1900年)、婿養子の清水資治が親春の明治維新への功績により男爵となる。

 安政2年(1855年)本家の清水美作親春の養子に迎えられる。文久元年(1861年)大橋訥庵に師事し、文久3年(1863年)3月学習院用掛を勤め、同年8月藩制改革後により22歳にして国元加判役(家老格)に抜擢される。
 元治元年(1864年)4月には津和野,鳥取,岡山ら諸藩を巡廻し、8月18日の政変により処罰された藩主父子の雪冤を働きかけ、6月に領内で藩兵が不満を募らせると周布政之助とともに鎮撫のために奔走した。しかし、7月に禁門の変が失敗に終わると更迭され謹慎する。高杉晋作が挙兵すると、報復処刑として12月25日俗論派の藩命により切腹。東光寺の元治甲子殉難烈士墓所に福原元僴,益田親施,国司親相,周布政之助,甲子殉難十一烈士と共に眠っている。御霊は遠祖清水宗治公が祀られている正義霊社に、宗治公とともに祀られている。