<神皇系氏族>天孫系

MD01:前田利隆  土師身臣 ― 菅原古人 ― 菅原道真 ― 菅原永頼 ― 前田利隆 ― 前田利政 MD05:前田利政

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前田利政 前田直之

 天正6年(1578年)、織田氏の家臣・前田利家の次男として尾張国荒子城にて生まれる。利家が豊臣氏に従い加賀百万石の大名になると、利政もこれに伴い文禄2年(1593年)に能登国七尾城の城主となる。同年、豊臣姓を下賜された。さらに、文禄4年(1595年)、羽柴氏を与えられた。慶長4年(1599年)に父より能登に所領を分与されて大名となった。また、同年に大坂城の詰番衆となる。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、兄・利長と共に東軍に属し関ヶ原に向かう途中、北陸の西軍方の大聖寺城の山口宗永を陥れた。しかし、途上で突如、利長たちは金沢へ引き返した(一説には敦賀城主大谷吉継側の謀略によるといわれる)。金沢城へ引き返したあと利長が再出陣するが、利政は動かなかった。その原因は妻子が三成の人質となっていたためともいわれている。また利政は家康に対する反発心から石田三成方に気脈を通じていたとする指摘もある。
 関ヶ原の戦い後、西軍が敗れたために利政は能登の所領を没収され、その所領は兄に与えられた。その後は京都の嵯峨に隠棲し、宗悦と号した。本阿弥光悦とも親交があったとされる。慶長19年(1614年)からの大坂の陣では、両陣営から誘いを受けたが中立を決め込んだという。戦後、西軍の誘いに乗らなかった利政の行動に家康は気に入り、利政を10万石の大名取り立てる打診をしたが、「自分は大野治長の指揮下に入りたくなかっただけで、関東方(徳川氏)への忠節を尽くす行動ではない」と辞退している。ただし、利政の大名取り立てに実現しなかった背景には母の芳春院の働きかけにも関らず、家康が言を左右にしたという事情や関ヶ原の戦いの時の利政の行動を許せなかった兄・利長が拒否し続けた事情があったとする指摘もある。
 寛永10年(1633年)、京都の町人・角倉与市邸(長女の婚家先)で死去。享年55。墓所は京都府京都市北区の大徳寺。なお、利政の子・直之は叔父の加賀藩主・前田利常に仕え、前田土佐守家を立てた。

 父・利政は関ヶ原の戦い後に改易されていたため、祖母・芳春院(おまつの方)に引き取られ金沢で養育された。12歳の時、芳春院の願いもあって加賀藩第3代藩主の利常に召し出され、2000石で家臣となる。また、芳春院の死後、化粧料として拝領していた7500石を継ぎ、その後さらに加増されて1万石を領した。
 延宝2年(1674年)、死去。藩祖・前田利家と芳春院の直系であったため、子孫は加賀藩中でも別格の家柄として明治まで存続した。

前田直躬 前田直時

 加賀騒動の一方の主人公とされる。藩主・前田吉徳に対し、大槻伝蔵による藩政改革によって既得権を失った加賀八家ら重臣層の中心人物として、専権を振るう伝蔵の排斥を唱え続けたが聞き入れられず、次期藩主である嫡男・前田宗辰の取り込みを図り、1743年(寛保3年)から翌延享元年まで4度にわたって弾劾文を宗辰に提出し続けた。このため吉徳の怒りを買って延享元年7月罷免され、以後、吉徳在世中は何も手が出せなかった。1745年(延享2年)6月、吉徳が亡くなると逆襲に転じ、1746年には伝蔵を吉徳毒殺の嫌疑をかけて断罪し、蟄居に追い込む。同12月にはこれを流罪とし、これにより藩政改革は完全に破壊されることになった。
 寛延元年(1748年)には藩主・前田重煕毒殺未遂事件とこれに関連して浮上した家督問題を理由に伝蔵を切腹させ、大槻一派に対し徹底的な粛清を行い、これを壊滅させている。一説によると、この暗殺未遂事件の黒幕ないし共犯者であるとも言われる。
 こうした反面、多数の著作を残すなど教養高く、河合見風らの文人・学者との交流もある文人でもあった。著作には格調高いものばかりでなく、蒸し羊羹の製法をまとめた書などというものもあり、調理法が詳細に紹介されている。

 藩主・前田斉広の信頼篤く長さ数mにも及ぶ長文の手紙を送られたり、参勤交代の苦労について愚痴をこぼされるなど信頼され、隠居城である竹沢御殿の造営を任せられた。斉広はよほど直時を手許においておきたかったようで、隠居後、直時を専属の年寄に任じている。御殿造営について議論する姿が前田直時等画像に描かれている。このほか奥方と並んで描かれた、当時としては大変珍しい肖像も残る。

 

前田直信 前田直行

 嫡男であったが、藩主前田斉泰の子・静之介が養子として入ってきたため、母の実家に養子に出される。1856年、元服して前田直会と名乗っていた静之介が亡くなったため、呼び戻され家督を相続する。藩主・斉泰が将軍・徳川家茂に供奉して上洛する際には供を務めたり、京都守衛の藩兵を率いて上洛した。率兵上洛時には正確な情勢認識のもと文書を出しており、家臣に対しても町人とのトラブルを避けるよう注意を喚起している。
 大政奉還後は加賀藩大参事、明治維新後は尾山神社の祀官となり祖霊に仕えた。

 明治11年(1878年)、10代・前田直信から家督を相続した。時代が明治に変わっても前田土佐守家の立ち位置は変わらず、前田本家(旧加賀藩主家)の家令として、また学者として活動した。明治33年(1900年)5月9日、父・直信の戊辰戦争の戦功によって男爵に叙爵される。先祖直方同様能書家で、漢書家として活躍し、その揮毫するところになる碑文は藩主家の遺跡をはじめ、石川県下のいたるところに存在する。大正年間には初代・利政の岳父である蒲生氏郷の銅像の除幕式のため、本家の当主である前田利為侯爵の代理として滋賀県に赴くなどもしている。遺物として着用した男爵大礼服と写真が現存する。昭和18年(1943年)死去。男爵の爵位は孫の正昭(政雄の子)が継いだ。