深溝松平家

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松平忠定 松平好景

 初代深溝松平氏である。大永4年(1524年)、兄松平元心は松平長親の命により額田郡深溝城主であった大場景紀を滅ぼし深溝城を奪う。その戦功を弟である忠定に譲り、深溝松平家を発祥させる。深溝城を奪う際に忠定が大場景紀の臣稲吉惣助と謀り、大場景紀を毒殺したという説もある。島原本光寺の説によると、岩津松平親長の娘と婚姻してその所領を譲受し発祥させたというが、真偽のほどはわからない。
 忠定は非常に長寿であり、66歳の生涯だったという。忠定の首塚(前本光寺)が愛知県額田郡幸田町深溝にあるが、戦死はしておらず、実際には首は埋まっていないと考えられる。忠定の子は好景の他に定政もいるが、こちらは保母松平の祖として派生した。愛知県岡崎市保母町にある保母城が深溝松平に深い関わりがあるが、研究調査は郷土史程度の解明しかない。

 元康の三河統一事業に敵対していたのが吉良氏だった。吉良義昭は、自らの居城西尾城を家人に任せ、東条の城に入った。この城の正面になったのが、深溝松平氏二代目松平好景の居城、深溝城だった。松平好景は中島城へ入り、東条の城を牽制する形をとった。永禄4年(1561年)2月に家康自ら東条城を攻めたが、吉良義昭はよく戦い、東条の城は落ちなかった。
 そして永禄4年(1561年)4月15日、吉良義昭は一計を案じ、富永忠元に数百騎を授け、酒井忠尚の守る城、上野城を攻めさせた。家康から指示を受けた好景は、康忠と嫡男伊忠を出動させ、深溝城へ戻った。その隙を突いて、吉良義昭は中島城を攻めた。好景はすぐに留守の一族・家臣僅か50余騎を率いて中島へ向かった。散々に敵を蹴散らした後、敗走する吉良軍を追撃した。しかし、吉良方の忠元は軍を返し、吉良軍を追撃する好景をさらに追撃し、好景の退路を断った。吉良領で、好景等は伏兵に行く手を遮られ、吉良勢に囲まれた。勇戦して、敵中を切り抜け中島へ戻ろうとしたが、好景はじめ一族の者21人、家臣等34人全員倒れ、生還するものは無かったという。この場所は後に鎧ヶ淵古戦場とも呼ばれるようになった。好景が討たれた場所は、善明堤の近く(下永良)で胴塚がある。

松平伊忠

 三河出身の徳川氏譜代の家臣で、善明堤の戦いでは上野城遠征中に難を逃れ、深溝松平家の3代目を継いだ。
 永禄6年(1563年)、武田信玄の軍勢が長沢城に攻めてきたが、小競り合いということもあって伊忠はこれを撃退している。その後も三河一向一揆鎮圧、掛川城攻略戦、姉川の戦い、三方ヶ原の戦いなど主要な合戦へはいずれも参戦、家康初期の功臣として武功には目覚しいものがあった。
 天正3年(1575年)5月の長篠の戦いにも参戦。同月20日の夜、織田信長の命を受けた酒井忠次が率いる別働隊の一翼を担い、夜陰に乗じて鳶ヶ巣山の攻略に向かった。翌21日早朝、敵将・武田信実(信玄の弟)を討ち取るという功績を挙げる。たが、引き続き行われた残敵追撃戦で前線に出過ぎたために、退却する武田軍の小山田昌行から猛反撃を受けてしまい、自身も戦死してしまった。享年39。伊忠が討たれたと思われる愛知県新城市有海に墓碑が在る。