深溝松平家

MT10:松平家忠  松平親氏 ― 松平忠景 ― 松平忠定 ― 松平家忠 ― 松平忠房 MT11:松平忠房

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松平忠房 松平好房

 三河吉田藩の第2代藩主。のち三河刈谷藩主,丹波福知山藩主を経て、肥前島原藩の初代藩主となる。
 寛文9年(1669年)6月8日、2万3000石を加増されて6万5900石の上で肥前島原藩に加増移封された。島原藩では藩政確立のために積極的な藩政改革を行ない、諸行政機関の設置をはじめ、寛文11年(1671年)に宗門改めを行なって寺社政策に尽力し、延宝7年(1679年)には検地を行なって検見制を税率として定める一方で、減税政策なども行なって農民経営の安定化に努めた。また文学を奨励し、忠房自身も多くの書物を収集して、現在ではそれらの書物が松平文庫として所蔵されており、自らも「尚舎源忠房」という蔵書印を用いている。寛文12年(1672年)7月には天草郡1300石を預かり地として与えられたが、これは忠房に長崎奉行の監督並びに長崎警備・西国大名の監視を命じるものでもあった。このように江戸幕府から重用された忠房は、天和3年(1683年)12月に従四位下に昇叙されている。
しかし忠房の長男・好房は早世し、次男・忠倫は暗愚なため廃嫡と後継者に恵まれず、養子に松平忠雄を迎えて元禄11年(1698年)4月18日に家督を譲って隠居した。元禄13年(1700年)10月1日に死去。享年82。

 明暦2年(1656年)徳川家綱に拝謁する。寛文2年(1662年)には叙任するが、家督を継ぐことなく寛文9年(1669年)に21歳で早世した。代わって、弟・忠倫が嫡子となった。
 孝子と讃えられている。「小さい時から父母の居る方に、足を伸ばしたことはない」「よそに行く時も帰って来た時も必ず父母の前に出て、その事を告げた」「父母から頂いた物は大切にして、いつまでも持っていた」「また人が父母の話をすると、いつも正しく居直って聞いた」などその孝子像が戦前に修身の教科書にも取り上げられた。深溝松平家の菩提寺の本光寺には「孝子廟」が、本光寺(長崎県島原市)には徳川家達の揮毫による頌徳碑がある。

松平忠雄 松平忠刻

 貞享3年(1686年)7月に忠房の養子に迎えられ、元禄4年(1691年)9月に世子に指名された。元禄11年(1698年)4月18日、忠房が隠居したため、家督を継いで第2代藩主となる。
 元禄15年(1702年)から凶作が相次ぎ、さらに元禄期の貨幣経済の浸透により農業が衰退して藩財政が悪化した。このため、長崎商人の融資を受けている。宝永3年(1706年)2月には「島原大概様子」といわれる総検地を行なって、以後の島原検地の基礎を築き上げた。また、武芸を奨励したりしている。
 しかし実子が早世したことから、晩年の忠雄は次第に精彩を失うようになり、享保4年(1719年)には渋川勝章が山口勘右衛門に殺されるという事件が起こった。享保5年(1720年)には堀井四郎右衛門事件が起こり(堀井の妾が忠房の次男・忠倫の子を2人も生んでおり、それらを藩主の後継者にするべきと訴えた事件)、享保11年(1726年)には黒川政勝を登用して、以後は実権を黒川に譲渡して藩政の専横を招くなど、島原藩は大いに混乱した。さらに享保15年(1730年)には50人の百姓が逃散し、享保18年(1733年)に虫害、享保19年(1734年)10月には養子に迎えていた松平忠救の早世、享保20年(1735年)1月には藩内で疫病が流行するなど、不幸の連続が続いた。
 このため、新たに忠救の実弟・松平忠俔を養子に迎え、12月2日に隠居して家督を譲った。享保21年(1736年)2月7日、死去。享年64。
 2008年8月に発生した集中豪雨で倒壊しかけた忠雄の墓地であったが、2009年5月に行なわれた墓地の修復に伴う学術調査で、慶長小判等43枚、ヨーロッパ製とみられるグラス等の副葬品が出土した。幸田町教育委員会によると「過去に調査された大名の副葬品と比べ、質・量ともに類を見ない、極めて重要な発見」としている。

 享保元年(1716年)7月19日、島原藩分家の大身旗本・松平勘敬の次男として生まれる。元文3年(1738年)に第3代藩主・松平忠俔が嗣子無くして死去したため、その養子として家督を相続して第4代藩主となり、12月18日に従五位下・主殿頭に叙位・任官する。
 第2代藩主の松平忠雄時代から続く家臣団の不祥事の収拾に尽力し、綱紀粛正を徹底した。また、家臣による不祥事を徹底的に取り締まるため、これまで以上に藩政の記録を精密にした。寛保2年(1742年),延享3年(1746年),寛延元年(1748年)には倹約令を出し、10万本の蝋を植樹するなどして緊縮財政政策による財政再建を目指した。学問も奨励している。これらの藩政における実力を評価されてか、延享4年(1747年)には奏者番に任じられて幕政に参与するまでになったが、これがかえって出費をさらに招き、商人からの借金停止にまで至ったのだから皮肉である。
 寛延2年(1749年)5月10日、参勤交代のために江戸に赴く途上の周防下松藩内で発病し、そのまま死去した。享年34。跡を長男・忠祗が継いだ。

松平忠恕 松平忠馮

 下野宇都宮藩第2代藩主、のち肥前島原藩初代藩主。島原藩深溝松平家7代。
 宝暦12年(1762年)兄で家督を継いでいた松平忠祇の隠居に伴い後を継ぐ。深溝松平家は、代々島原藩主として九州の隠れ目付役的存在であったが、兄・忠祗が父・忠刻の急死を受け寛延2年(1749年)、12歳の若さで家督を継いだことから、その年、下野宇都宮藩の戸田忠盈と交代する形で宇都宮に移封されていた。忠恕が家督を継承後、安永4年(1775年)に再度戸田氏と交代転封し、先祖伝来の島原藩に戻された。
 寛政4年(1792年)4月1日、普賢岳眉山が激震と共に大崩落を起こし島原城下の大半が埋没し、死者1万5千人とも言われる島原大変が発生。病弱であった忠恕は被災地巡視を行うなどしたが、心労が重なったこともあり、4月27日に逝去。「悲運の藩主」と呼ばれている。

 兄たちが早世、もしくは他家に養子入りしたために世子となり、父が雲仙岳眉山の大爆発による心労で急死したため、家督を継いで第7代藩主となった。
 忠馮は雲仙岳の爆発による領民の救済のため、江戸幕府から1万2000両を借用し、さらに衣類取締令・奢侈禁止令などを出して出費を抑制し、苦しくなっていた藩財政の再建も目指した。文化期に入ると外国船の来航が問題になり始めたため、海防の強化を行なっている。しかし相次ぐ天災や海防問題などから財政はさらに悪化したため、忠馮は橋爪宗平と板倉勝彪を登用して藩政改革を行なった。文化7年(1810年)6月には三府会議制を創設し、これにより大坂商人との取引などを行なった。文化8年(1811年)には国産方役所を設置して専売制を始め、文化9年(1812年)には公事方役所を設置して裁判の迅速化を図った。
 文化13年(1816年)、板倉勝彪が「御内定書上表文」を提出し、財政再建のために家臣団のリストラが必要であると訴えたが、忠馮は存命中は受け入れなかった(死後の文政8年(1825年)からリストラが始まる)。農民政策に関しても、文化11年(1814年)に農民永保法を制定して百姓関係の土地整理を行なった。学問関係では、寛政6年(1793年)9月に藩校・稽古館を創設している。
 このように改革が実りつつあった中での文政2年(1819年)1月28日に死去。享年49。

松平忠侯 松平忠精

 庶兄がいたが、忠侯は正室所生で嫡男だったために世子となり、文政2年(1819年)に父が死去したため、家督を継いで第8代藩主となり、4月2日に主殿頭に遷任した。
 藩政では藩財政の再建を優先し、文政6年(1823年)には厳しい人別調査を行ない、その結果として文政8年(1825年)には菜種,小麦の税収増徴と生産品の運上銀制、生産方の設置と専売制の強化を行なっている。また、倹約令や奢侈禁止令を出した。しかし天災が相次ぎ、さらに長崎警備や軍事力強化に対する出費が相次いであまり効果は無かった。一方で廃校寸前だった藩校・稽古館の復興に努め、学生増加を奨励し、さらに医学校である済衆館を創設するなどして学問を奨励した。
 忠侯はもともと病弱だったため、天保11年(1840年)4月9日、42歳の厄払いの宴会の最中に病に倒れ、そのまま死去した。享年42。

 弘化4年(1847年)に兄で第9代藩主である忠誠が死去したため、その養子として家督を継いで第10代藩主となった。
 藩政では外国船に対する脅威に対抗するため、長崎警備と軍事力の強化に務めた。しかし軍事力増強に加え、水害や旱魃などの天災が相次いで藩財政の悪化を招き、借金や年貢増徴政策、倹約令を出すなどして財政再建を行なおうとした。ところが年貢増徴政策には百姓の不満を招き、弘化4年(1847年)12月に平松かぶりという百姓一揆を引き起こすこととなり、以後は貧農救済に務めざるを得なくなった。嘉永2年(1849年)にはシーボルトの弟子・賀来佐一郎を招聘して種痘を実施している。
 安政6年(1859年)6月28日に死去。享年28。跡を養子の忠淳が継いだ。

松平忠愛 松平忠和

 万延元年(1860年)に6代藩主・忠淳が嗣子無くして死去したため、忠愛が5代藩主・忠精の娘・狡子と婚約することで養子となり家督を継いだ。
 家督相続直後、アメリカ公使館となった善福寺の警備に当たった。また、幕末期の動乱の中で、長崎方面の海防対策に悩まされたという。文久2年(1862年)、参勤交代で江戸に赴く途上の長州領内において麻疹にかかって倒れ、一時的に回復したものの、江戸に着くと高熱を発して7月21日に死去した。享年18。嗣子が無く、養子・忠和(徳川斉昭の16男)が跡を継いだ。

 肥前島原藩の第8代(最後の)藩主。常陸水戸藩主徳川斉昭の子で、江戸幕府の第15代将軍徳川慶喜の実弟。文久2年(1862年)に第12代藩主・松平忠愛が嗣子無くして急死したため、その養子となって家督を継ぎ、第13代藩主となった。この時、忠愛が急死であったので喪を秘して、急遽密かに水戸家から入って末期養子となった。
 文久3年(1863年)には海防強化の必要性から軍制改革を行なうが、佐賀藩や薩摩藩のような洋式軍制では無く、時代遅れの軍制であった。忠和は慶喜の弟だったことから、元治元年(1864年)には第1次長州征伐に幕府方として参加し、慶応2年(1866年)にも第2次長州征伐にも参加した。
 ところが、忠和の佐幕的行動は尊王派である下級武士の不満を招き、一部の過激な藩士が脱藩して天誅組の乱や天狗党の乱に参加したりした。慶応元年(1865年)8月13日には伊東虎之助ら過激な藩士が藩の中老・松坂正綱の私邸を襲って松坂を殺し、「激烈組」という尊王攘夷運動を起こすほどの内紛が起こって島原藩は混乱したが、あまりにエスカレートした行動は周囲の支持を得られなくなり、やがて沈静化された。
 慶応4年(1868年)1月からの戊辰戦争では新政府に恭順し、秋田藩や盛岡藩、雫石などに出兵している。明治2年(1869年)6月の版籍奉還で島原藩知事に任命され、明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県で藩知事を免官されて、東京へ移った。明治14年(1881年)の明治法律学校(明治大学の前身)の開校に際しては、有楽町に所在した旧邸宅を校舎として提供するなど、同校の有力な後援者となった。明治17年(1884年)に子爵に列した。大正6年(1917年)6月8日に死去。享年67。