| MT18:松平正綱 | 松平親氏 ― 松平親則 ― 松平正綱 ― 松平信綱 | MT19:松平信綱 |

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| 松平信綱 | 松平信祝 |
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慶長元年(1596年)10月30日、徳川家康の家臣・大河内久綱の長男として生まれる。生母の深井氏は白井長尾氏の末裔である。慶長6年(1601年)に父・久綱の弟・松平正綱の養子となり、慶長8年(1603年)9月に徳川秀忠、11月に徳川家康と初めて拝謁し、秀忠の嫡男・徳川家光誕生後の慶長9年(1604年)7月25日には家光付の小姓に任じられた。 |
宝永6年6月21日(1709年7月27日)に父の隠居により家督を継ぐ。古河から吉田への国替えの時、古河の頼政神社より分霊して、吉田に豊城神社を建立した。最終的には遠江浜松に移封されている。 |
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松平信復 |
松平信礼 |
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享保4年(1719年)4月4日、浜松藩初代藩主・松平信祝の長男として谷中下屋敷で生まれる。側室の子であったが、父の正室菊姫(酒井忠挙養女)に子が無かったため、生後間もなく嫡子となる。享保15年(1730年)正月朔日に信復と名乗る。享保18年12月18日(1734年)、従五位下・左衛門佐に叙任する。 |
寛保元年(1741年)11月1日に信礼と名乗る。父信復は正室を持たなかったため、長子である信礼が嫡男とされ、寛延4年(1751年)1月15日に将軍家重に御目見した。以後、父の吉田在城中は名代として公務を勤めた。宝暦元年(1751年)12月18日、従五位下甲斐守に叙任される。宝暦12年(1762年)6月27日、駿河田中藩主・本多正珍の養女・芳姫を娶る。 |
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松平信明 |
松平信順 |
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幕府公認の記録である『寛政重修諸家譜』は、宝暦10年(1760年)生まれとしているが、これは信明が側室の出生であるところから、嫡子として幕府に届け出るにあたって年齢を水増ししたためである。 |
寛政5年(1793年)、松平信明の次男として江戸西丸下屋敷で生まれる。寛政9年(1797年)10月25日に嫡子となり、信順と名乗る。享和3年(1803年)9月22日、将軍家斉・世子家慶に御目見する。文化2年(1805年)12月16日、従五位下駿河守に叙任される。 |
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松平信宝 |
松平信璋 |
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文政7年(1824年)、松平信順の長男として江戸谷中下屋敷で生まれる。父の正室に子がなかったため、文政9年(1826年)11月7日に嫡子となる。文政11年(1828年)11月23日、信宝と名乗る。天保8年(1837年)3月15日、初めて将軍家斉・世子家慶に拝謁する。同年12月16日、従五位下隼人正に叙任される。天保12年(1841年)7月、病身の信順の名代として吉田城へ入る。帰国中に鳳来山東照宮に参詣するなどし、天保13年(1842年)7月に江戸へ参勤する。 |
文政10年8月9日、旗本松平信敏の嫡子として江戸で生まれる。天保15年(1844年)11月20日、本家の松平信宝の婿養子となり、同月22日に呉服橋内上屋敷へ移り、信璋と改名する。 |
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大河内信古 |
大河内正敏 |
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文政12年(1829年)4月23日、越前鯖江藩主・間部詮勝の次男として江戸で生まれる。嘉永2年(1849〔9月24日に吉田藩主・松平信璋の没後婿養子に迎えられ、同26日に信古と名乗る。同年11月15日に家督を相続し、12月1日に家督の御礼として初めて将軍家慶・世子家定に拝謁する。その後奏者番、寺社奉行を歴任する。 |
理化学研究所(理研)の3代目所長、貴族院議員。旧上総大多喜藩主で子爵・大河内正質の長男として東京浜松町に生まれ、のちに旧三河吉田藩の子爵・大河内氏の養子となり、最後の藩主・大河内信古の娘を妻に迎える。学習院初等科時代は、大正天皇の御学友であった。東京帝国大学工学部造兵学科に入学。 |
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大河内信威 |
大河内桃子 |
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日本の美術史家,評論家,実業家、社団法人日本陶磁協会第5代理事長。元共産党員。別名を小川信一。号は風船子。一時、磯野姓を名のる。 |
河内桃子の芸名で女優として活躍。俳優座所属。昭和20年代にデビューした女優としては久我美子と並ぶ名家出身で、祖父は理研グループ総帥で子爵であった大河内正敏、父は正敏の次男で画家であった大河内信敬。夫は今治松平家末裔でテレビプロデューサーの久松定隆。 |
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松平信望 |
松平堅綱 |
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元禄9年(1696年)8月13日、はじめて将軍徳川綱吉に拝謁する。元禄10年(1697年)12月5日に父の隠居により常陸国新治郡5000石の家督を相続し、小普請旗本に列した。元禄11年(1698年)3月、遠江国山名郡,城東郡,豊田郡,周智郡に所領を移された。元禄13年(1700年)1月11日、小姓となった。11月21日、綱吉の易経の講義に招かれて聞かされる。元禄15年(1702年)12月3日、従五位下・駿河守に叙任した。 |
寛永18年(1641年)に松平信綱の6男として生まれる。寛文元年(1661年)3月8日に初めて将軍家綱に御目見し、4月9日に中奥小姓となる。寛文2年(1662年)4月18日に父の遺領である武蔵埼玉郡の内で新墾田1000石を分与された。寛文5年(1665年)6月26日に死去した。 |
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松平信成 |
松平信敏 |
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延享2年(1745年)12月2日に松平信応の末期養子となり、閏12月2日に遺領を相続する。同月12日に初めて将軍家重に御目見する。延享3年(1746年)2月12日に小納戸となり、12月18日に布衣の着用を許される。宝暦10年(1760年)5月13日に大御所・家重附となり、家重死後の宝暦11年(1761年)8月4日に寄合に列する。9月6日、再び小納戸となる。宝暦12年(1762年)11月1日、将軍世子・家基附となる。安永8年(1779年)に家基が亡くなったため、4月18日に再び寄合に列する。 |
江戸時代後期の旗本。石高は1000石。文政5年(1822年)3月に父が死去したため家督を相続する。書院番を勤め、文政8年(1825年)12月7日に小納戸、文政10年(1827年)6月21日に小姓、天保4年(1833年)5月28日に徒頭、天保8年(1837年)2月9日に西丸目付となる。大御所時代が終焉してからは、天保12年(1841年)7月8日に佐渡奉行、10月17日に京都町奉行、天保14年(1843年)5月30日に先手鉄砲頭となる。弘化元年(1844年)10月に本家の三河吉田藩主・松平信宝が死去し、長男の信璋が養子に入る。弘化2年(1845年)12月12日、小普請奉行となる。嘉永2年(1849年)9月10日に死去。 |