| MT23:松平乗寿 | 松平親氏 ― 松平乗元 ― 松平乗寿 ― 松平乗政 | MT24:松平乗政 | ● |


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| 松平乗政 | 松平乗紀 |
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寛永14年(1637年)、松平乗寿の次男として生まれる。嗣子に兄である松平乗久がいたため、寛永21年(1644年)4月22日、第3代将軍・徳川家光に拝謁し家光に近侍した。家光に息子の徳川綱吉が生まれると、綱吉に近侍する。 |
貞享元年(1684年)、父の死去により家督を継いで小諸藩主となる。『土芥寇讎記』ではこの頃の乗紀について「家老が大悪人である」「人に誑かされている」と記されている。一方、領内の統治はよくできていると評されている。 |
| 松平乗賢 | 松平乗美 |
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宝永4年(1707年)12月24日、従五位下・能登守に叙任。享保2年(1717年)2月20日、家督を相続する。 |
生年は寛政4年(1792年)3月15日とも。長兄の松平乗友が早世したために世子となり、文政9年(1826年)の父の死去により家督を継いで第5代藩主となった。 |
| 松平乗命 | 林 衡(述斎) |
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安政2年(1855年)、父の死去により家督を継いで第7代藩主となる。万延元年(1860年)12月に従五位下・能登守に叙・任官する。元治元年(1864年)に大坂加番に任じられ、慶応2年(1866年)の第2次長州征伐にも参加している。 慶応3年(1867年)7月に奏者番に任じられ、12月に陸軍奉行に任じられた。しかし幕府の要職にありながら、慶応4年(1868年)2月にあっさりと新政府に恭順している。 |
岩村藩松平家では兄2人が早生し、3男の述斎は家督を継ぐべき位置にあったが、病弱だったため、福知山藩から養子(乗保)が迎えられた。長らく部屋住みの身であったが、少年時に徂徠系の儒者である大塩鼇渚や服部仲山に儒学を学び、その後、林家の門人で朱子学者・渋井太室に入門し、さらには折衷学系の儒者・細井平洲にも儒を学んだ。非凡な才が評判となり、寛政5年(1793年)、林錦峯の死去で途絶えた林家を継いで大学頭となり、幕府の文書行政の中枢として幕政に関与する。 |
| 林 韑(復斎) | 林 晃(鶯渓) |
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寛政12年12月(1801年2月)に林述斎の6男として生まれる。文化4年(1807年)、親族の第二林家・林琴山の養子となり、3年後に家督を継ぐ。文政7年(1824年)、紅葉山文庫の書物奉行として勤務。昌平黌の学問所御用も兼務、総教(塾頭)となった秀才でもあった。 |
父の林復斎は、鶯渓が生れた当時は分家である第二林家の林琴山の家督を継いでいた。父や佐藤一斎,安積艮斎に儒学を学ぶ。幼い頃に痀瘻病によって背中が曲がる障碍に見舞われ、復斎がこれを嘆いたとき、佐藤一斎は「禍福は糾える縄の如し」の故事を引用して慰めた。後に鶯渓が立身した時、復斎は一斎に深く感謝したという。 |