大給松平

MT23:松平乗寿  松平親氏 ― 松平乗元 ― 松平乗寿 ― 松平乗政 MT24:松平乗政


リンク
松平乗政 松平乗紀

 寛永14年(1637年)、松平乗寿の次男として生まれる。嗣子に兄である松平乗久がいたため、寛永21年(1644年)4月22日、第3代将軍・徳川家光に拝謁し家光に近侍した。家光に息子の徳川綱吉が生まれると、綱吉に近侍する。
 家光没後は第4代将軍・徳川家綱に仕え、慶安5年(1652年)6月4日に御小姓に任じられ、承応元年(1652年)11月7日に1000俵取りの知行を与えられる。承応3年(1654年)に父が死去すると、その遺領から5000石を分与されて旗本となる。寛文2年(1662年)には小姓組番頭に任じられ、同時に奥勤めも命じられた。延宝7年(1679年)には若年寄に任じられ、同時に常陸河内郡,真壁郡などに5000石を加増されて1万石の大名として諸侯に列し、常陸小張藩主となった。
 延宝9年(1681年)7月22日、下総結城郡で5000石を加増されて1万5000石となる。天和2年(1682年)3月22日に奏者番に任じられ、同時に5000石の加増を受けて信濃小諸藩へ加増移封された。貞享元年(1684年)10月16日に小諸で死去。享年48。後を長男の乗紀が継いだ。

 貞享元年(1684年)、父の死去により家督を継いで小諸藩主となる。『土芥寇讎記』ではこの頃の乗紀について「家老が大悪人である」「人に誑かされている」と記されている。一方、領内の統治はよくできていると評されている。
 元禄15年(1702年)9月7日、国替で越後の高柳藩へ移動した丹羽氏音の後を受けて岩村藩に移封された。丹羽氏の菩提寺であった妙仙寺の建物を譲り受け、菩提寺の乗政寺を仏像や位牌と共に小諸から岩村へ移した。12月に奏者番に任じられた。
 元禄16年(1703年)6月22日、姓を石川から松平に復し、兵庫頭に任官される。藩政では知新館を建設し文武を奨励し、美濃国内では西の大垣藩と並んで文化の中心地として発展した。享保元年(1716年)12月25日、江戸で死去した。享年43。跡を長男・乗賢が継いだ。

松平乗賢 松平乗美

 宝永4年(1707年)12月24日、従五位下・能登守に叙任。享保2年(1717年)2月20日、家督を相続する。
 享保4年(1719年)1月11日、奏者番となる。享保8年(1723年)3月6日、若年寄に昇進。享保9年(1724年)11月15日、西丸(長福丸=徳川家重附)若年寄に異動。 享保20年(1735年)5月23日、西丸(徳川家重附)老中に昇進し、1万石加増(計3万石)。12月15日、従四位下に昇叙し、能登守如元。
 元文元年(1736年)12月15日、侍従に転任し能登守兼帯如元。延享2年(1745年)9月1日 、徳川家重,徳川宗家家督相続に伴い本丸に移動。そのため、本丸老中に異動。
 延享3年(1746年)5月8日、卒去 享年54。跡を養嗣子・乗薀(松平乗邑の3男)が継いだ。 

 生年は寛政4年(1792年)3月15日とも。長兄の松平乗友が早世したために世子となり、文政9年(1826年)の父の死去により家督を継いで第5代藩主となった。
 この頃の岩村藩では藩財政が悪化していたため、乗美は父の時代からの家老である丹羽瀬清左衛門を用いて知行借上,倹約,新田開発,荒地の開発,桐・杉・栗などの苗の育成と国産所の設置などの財政改革を中心とした藩政改革に着手した。この改革は効果が大きく、藩財政は再建されたが、天保4年(1833年)からの天保の大飢饉による被害や天保5年(1834年)の江戸藩邸の類焼、さらに改革で生産した木綿や絹織物を生産過多で逆に売りさばけなくなったり、改革を担っていた問屋や庄屋がそのために藩から出奔してしまうなどの事情もあって、改革は停滞してしまった。しかも、この改革は領民に対する負担も大きかったことから、遂に岩村藩内の52か村の代表らは天保8年(1837年)5月、改革の中心人物であった丹羽瀬清左衛門を21か条にわたって弾劾する書状を岩村藩に突きつけ、乗美が自分たちの要求を受け入れなければ丹羽の屋敷を襲って殺すとまで脅迫する有様だったとされている。このため、家老の大野五左衛門の仲介により、乗美は52か村の要求を受け入れて丹羽を蟄居に追い込み、藩政改革も正式に中止したのであった。このため、岩村藩の藩財政はさらに悪化していくことになる。
 天保13年(1842年)11月16日、家督を次男の乗喬に譲って隠居する。弘化2年(1845年)8月20日に死去。享年55。 

松平乗命 林 衡(述斎)

 安政2年(1855年)、父の死去により家督を継いで第7代藩主となる。万延元年(1860年)12月に従五位下・能登守に叙・任官する。元治元年(1864年)に大坂加番に任じられ、慶応2年(1866年)の第2次長州征伐にも参加している。 慶応3年(1867年)7月に奏者番に任じられ、12月に陸軍奉行に任じられた。しかし幕府の要職にありながら、慶応4年(1868年)2月にあっさりと新政府に恭順している。
 明治2年(1869年)6月の版籍奉還で岩村藩知事に任じられ、明治4年(1871年)7月の廃藩置県で藩知事を免官された。明治17年(1884年)の華族令で子爵に列せられる。明治38年(1905年)11月15日、東京で死去。享年58。 

 岩村藩松平家では兄2人が早生し、3男の述斎は家督を継ぐべき位置にあったが、病弱だったため、福知山藩から養子(乗保)が迎えられた。長らく部屋住みの身であったが、少年時に徂徠系の儒者である大塩鼇渚や服部仲山に儒学を学び、その後、林家の門人で朱子学者・渋井太室に入門し、さらには折衷学系の儒者・細井平洲にも儒を学んだ。非凡な才が評判となり、寛政5年(1793年)、林錦峯の死去で途絶えた林家を継いで大学頭となり、幕府の文書行政の中枢として幕政に関与する。
 述斎が林家の遺跡を継ぐのとほぼ同時期に、定信は老中首座・将軍輔佐を免ぜられたが、 それまで定信が主導してきた昌平坂学問所(昌平黌)の改編・整備による学制の改革という路線は継承された。そして、その学制改革の路線を定信後に引き継ぎ、先頭に立って実現していったのが、定信がその才学と手腕を見込んで林家の養子にした述斎であり、柴野栗山,古賀精里,尾藤二洲(寛政の三博士)らとともに儒学の教学の刷新に力を尽くし、昌平黌の幕府直轄化を推進した。寛政9年(1793年)12月、幕府は林家の家塾として「官私并行」されていた昌平黌を幕府直轄の昌平坂学問所とした。
 述斎の学問は、朱子学を基礎としつつも清朝の考証学に関心を示し、『寛政重修諸家譜』『徳川実紀』(成島司直と共同)『朝野旧聞裒藁』『新編武蔵風土記稿』など幕府の編纂事業を主導した。ただし、資料の選別や体裁の指導に留まり、実際の執筆は分担者に一任していた。
 天保8年(1837年)に起こったモリソン号事件を翌年に知った幕府が幕閣の諮問にかけた際、評定所の大勢を占める打ち払いの主張に反対して、述斎は漂流民の受け入れを主張しており、非常に柔軟な姿勢がうかがえる。
 和漢の詩才にすぐれ、歌集『家園漫吟』などがある。中国で散逸した漢籍(佚存書)を集めた『佚存叢書』は中国国内でも評価が高い。 

林 韑(復斎) 林 晃(鶯渓)

 寛政12年12月(1801年2月)に林述斎の6男として生まれる。文化4年(1807年)、親族の第二林家・林琴山の養子となり、3年後に家督を継ぐ。文政7年(1824年)、紅葉山文庫の書物奉行として勤務。昌平黌の学問所御用も兼務、総教(塾頭)となった秀才でもあった。
 嘉永6年(1853年)、本家大学頭家を継いでいた甥の壮軒(健)が死去したため、急遽大学頭家を継ぐことになる。小姓組番頭次席となり、大学頭と改名。54歳にして林大学頭家11代当主となった。
 同年6月(1853年7月)、折しもアメリカ合衆国東インド艦隊司令長官マシュー・ペリー提督率いる黒船が浦賀に来航し、世情が騒然していた。復斎は幕府に日本側全権の応接掛(特命全権大使)に命ぜられて、永禄9年(1566年)から文政8年(1825年)頃までにいたる対外関係史料を国別・年代順に配列した史料集『通航一覧』(350巻)を編纂。また各藩大名の歴史をまとめた『藩鑑』も編集。両書を編纂した功績で同年12月に賞賜されている。
 翌安政元年正月(1854年2月)にペリー艦隊が再来。復斎は、以前からの有能ぶりや異国との交渉史への通暁が買われて、町奉行・井戸覚弘とともに応接掛として老中・阿部正弘から任命され、横浜村で交渉にあたった。実際の交渉は漢文の応酬で行われたため、復斎はその漢文力を買われ、主な交渉はすべて任されることとなる。復斎はすでに当時の諸外国の動静を理解しており、鎖国体制の現状維持は困難と考え、異国船への薪水食料の給与程度はやむを得ずと判断し、ペリー艦隊との交渉でも柔軟に対応した。ただし、通商要求に関しては時期尚早として断固拒絶した。長期にわたった交渉の中で江戸城に登城し、老中の阿部や海防参与の水戸藩主徳川斉昭などにも交渉経緯を伝えるなど、江戸と浦賀を往復した。復斎は米国艦隊との交渉記録を後に『墨夷応接録』(墨夷=アメリカ)にまとめている。
 3月3日(1854年3月31日)、横浜村において日米和親条約が締結。条文は日本文・漢文・英文の3種類で交換されたが、日本文での署名者は復斎を筆頭としている。ただし、日本側が英文版への署名を拒否したため、国際法上の条約締結の体裁が整わず、米国側は困惑した。そこで新たな開港地として予定されていた下田・函館をそれぞれ米艦隊が視察した後、下田で再び交渉を行うこととなった。
 覚弘と鵜殿鳩翁が下田取締掛として任命され、目付・岩瀬忠震,永井尚志なども下田へ派遣されたが、依然としてペリーとの交渉役となったのは復斎であった。この地における交渉で、漢文版を廃して条約正文を日本語・英語・オランダ語の各語版とすること、英文版へ日本側全権が署名すること、異国人遊歩地の範囲や批准書交換などその他の手順が決定され、下田追加条約が締結。復斎は大任を果たした。
 安政6年(1859年)死去。享年60。牛込の下屋敷に埋葬された。長男の鶯渓(晃)は復斎が大学頭家の家督を継いだ際に代わりに第二林家を継承していたため、次男の学斎(昇)を大学頭家の後継者とした。

 父の林復斎は、鶯渓が生れた当時は分家である第二林家の林琴山の家督を継いでいた。父や佐藤一斎,安積艮斎に儒学を学ぶ。幼い頃に痀瘻病によって背中が曲がる障碍に見舞われ、復斎がこれを嘆いたとき、佐藤一斎は「禍福は糾える縄の如し」の故事を引用して慰めた。後に鶯渓が立身した時、復斎は一斎に深く感謝したという。
 天保14年(1843年)、初めて将軍・徳川家慶に拝謁を許される。弘化4年(1847年)、幕府の儒者見習となる。ところが、嘉永6年(1853年)、復斎の甥で大学頭家の当主であった林壮軒が死去、急遽復斎が家督を継承することとなり、弟の学斎を伴い大学頭家に戻った。このため、鶯渓が第二林家の家督を継承して幕府儒者に任ぜられた。安政6年(1859年)、西丸留守居となり、学職を兼ねる。父の没後は弟を良く補佐した。
 明治元年(1868年)に職を免ぜられて、2年後に静岡に移住するが間もなく東京に戻り、門人の教育に専念した。幼い頃から学問を好み、書物を熟読しては要点をまとめた抄書を山のように作成し、成人してからは人に教えることに熱心で少しの時間も惜しみ1ヶ月休みなしで講義を行うこともあったが、公正で温厚な性格から門人からは慕われていたと言う。