大給松平

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松平乗政 松平乗紀

 寛永14年(1637年)、松平乗寿の次男として生まれる。嗣子に兄である松平乗久がいたため、寛永21年(1644年)4月22日、第3代将軍・徳川家光に拝謁し家光に近侍した。家光に息子の徳川綱吉が生まれると、綱吉に近侍する。
 家光没後は第4代将軍・徳川家綱に仕え、慶安5年(1652年)6月4日に御小姓に任じられ、承応元年(1652年)11月7日に1000俵取りの知行を与えられる。承応3年(1654年)に父が死去すると、その遺領から5000石を分与されて旗本となる。寛文2年(1662年)には小姓組番頭に任じられ、同時に奥勤めも命じられた。延宝7年(1679年)には若年寄に任じられ、同時に常陸河内郡,真壁郡などに5000石を加増されて1万石の大名として諸侯に列し、常陸小張藩主となった。
 延宝9年(1681年)7月22日、下総結城郡で5000石を加増されて1万5000石となる。天和2年(1682年)3月22日に奏者番に任じられ、同時に5000石の加増を受けて信濃小諸藩へ加増移封された。貞享元年(1684年)10月16日に小諸で死去。享年48。後を長男の乗紀が継いだ。

 貞享元年(1684年)、父の死去により家督を継いで小諸藩主となる。『土芥寇讎記』ではこの頃の乗紀について「家老が大悪人である」「人に誑かされている」と記されている。一方、領内の統治はよくできていると評されている。
 元禄15年(1702年)9月7日、国替で越後の高柳藩へ移動した丹羽氏音の後を受けて岩村藩に移封された。丹羽氏の菩提寺であった妙仙寺の建物を譲り受け、菩提寺の乗政寺を仏像や位牌と共に小諸から岩村へ移した。12月に奏者番に任じられた。
 元禄16年(1703年)6月22日、姓を石川から松平に復し、兵庫頭に任官される。藩政では知新館を建設し文武を奨励し、美濃国内では西の大垣藩と並んで文化の中心地として発展した。享保元年(1716年)12月25日、江戸で死去した。享年43。跡を長男・乗賢が継いだ。

松平乗賢 松平乗美

 宝永4年(1707年)12月24日、従五位下・能登守に叙任。享保2年(1717年)2月20日、家督を相続する。
 享保4年(1719年)1月11日、奏者番となる。享保8年(1723年)3月6日、若年寄に昇進。享保9年(1724年)11月15日、西丸(長福丸=徳川家重附)若年寄に異動。 享保20年(1735年)5月23日、西丸(徳川家重附)老中に昇進し、1万石加増(計3万石)。12月15日、従四位下に昇叙し、能登守如元。
 元文元年(1736年)12月15日、侍従に転任し能登守兼帯如元。延享2年(1745年)9月1日 、徳川家重,徳川宗家家督相続に伴い本丸に移動。そのため、本丸老中に異動。
 延享3年(1746年)5月8日、卒去 享年54。跡を養嗣子・乗薀(松平乗邑の3男)が継いだ。 

 生年は寛政4年(1792年)3月15日とも。長兄の松平乗友が早世したために世子となり、文政9年(1826年)の父の死去により家督を継いで第5代藩主となった。
 この頃の岩村藩では藩財政が悪化していたため、乗美は父の時代からの家老である丹羽瀬清左衛門を用いて知行借上,倹約,新田開発,荒地の開発,桐・杉・栗などの苗の育成と国産所の設置などの財政改革を中心とした藩政改革に着手した。この改革は効果が大きく、藩財政は再建されたが、天保4年(1833年)からの天保の大飢饉による被害や天保5年(1834年)の江戸藩邸の類焼、さらに改革で生産した木綿や絹織物を生産過多で逆に売りさばけなくなったり、改革を担っていた問屋や庄屋がそのために藩から出奔してしまうなどの事情もあって、改革は停滞してしまった。しかも、この改革は領民に対する負担も大きかったことから、遂に岩村藩内の52か村の代表らは天保8年(1837年)5月、改革の中心人物であった丹羽瀬清左衛門を21か条にわたって弾劾する書状を岩村藩に突きつけ、乗美が自分たちの要求を受け入れなければ丹羽の屋敷を襲って殺すとまで脅迫する有様だったとされている。このため、家老の大野五左衛門の仲介により、乗美は52か村の要求を受け入れて丹羽を蟄居に追い込み、藩政改革も正式に中止したのであった。このため、岩村藩の藩財政はさらに悪化していくことになる。
 天保13年(1842年)11月16日、家督を次男の乗喬に譲って隠居する。弘化2年(1845年)8月20日に死去。享年55。 

松平乗命

 安政2年(1855年)、父の死去により家督を継いで第7代藩主となる。万延元年(1860年)12月に従五位下・能登守に叙・任官する。元治元年(1864年)に大坂加番に任じられ、慶応2年(1866年)の第2次長州征伐にも参加している。 慶応3年(1867年)7月に奏者番に任じられ、12月に陸軍奉行に任じられた。しかし幕府の要職にありながら、慶応4年(1868年)2月にあっさりと新政府に恭順している。
 明治2年(1869年)6月の版籍奉還で岩村藩知事に任じられ、明治4年(1871年)7月の廃藩置県で藩知事を免官された。明治17年(1884年)の華族令で子爵に列せられる。明治38年(1905年)11月15日、東京で死去。享年58。