大給松平

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松平近貞 松平近形

 三河国田原藩2代藩主・三宅康雄の三男として誕生した。正徳2年(1712年)正月、先代藩主で母方のおじにあたる松平近禎の婿養子となり、享保10年(1725年)の近禎の死去により跡を継いだ。享保の大飢饉や享保17年(1732年)の虫害による大被害で藩財政は一気に悪化し、幕府から3000両の金を借用して何とかする有様であった。寛保3年(1743年)4月にも城下で大火が起こり、幕府から2000両借用するなどして藩財政は破綻した。このため、租税政策を重点において定免制度の制定や厳しい倹約令の制定、さらに商人から御用金をせしめて藩財政を再建しようとしたが、やがて失意のうちに延享2年(1745年)9月18日、家督を長男・近形に譲って隠居した。
 宝暦7年(1757年)5月13日、69歳で死去した。法号は雲晴院。墓所は東京都小石川の伝通院と大分県の浄安寺。

 はじめ家臣の津久井氏に養われて津久井桃之助と名乗った。享保13年(1728年)に実家に戻る。延享2年(1745年)9月18日、父の隠居により家督を継いだ。父の時代に破綻した藩財政を再建するため、倹約令を主とした法令を制定し、産業振興を奨励し、藩札の発行などを行なった。しかし幕府と道路問題から諍いを起こして逼塞を命じられたうえ、明和2年(1765年)には大洪水、明和6年(1769年)7月には大地震が起こって藩が大被害を受けるなど、藩政改革は失敗に終わった。
 このような失意の中で、明和7年(1770年)7月21日、家督を長男・近儔に譲って隠居した。安永2年(1773年)6月10日(6月7日とも言われている)に51歳で死去。

松平近儔 松平近訓

 明和7年(1770年)7月21日、父が病気を理由に隠居したため、家督を継いで第6代藩主となった。天明6年(1786年)から天明7年(1787年)、享和元年(1801年)の虫害による大凶作をはじめ、災害や大火が相次いで藩財政は逼迫した。その一方で文武を奨励し、府内藩の文武の発展に尽力している。
 実子の松平近訓が幼少のため、文化元年(1804年)12月6日に弟の松平近義を養子として家督を譲って隠居した。しかしその後も藩政の実権を握り、文化4年(1807年)に近義が死去すると次男・近訓を藩主として擁立し、やがて近訓とも藩政改革をめぐって対立したため、天保2年(1831年)に隠居させてその養子である松平近信を擁立し、自らは天保11年(1840年)2月16日に死去するまで藩政の実権を握り続けた。享年87。

 

 文化4年(1807年)に叔父で第7代藩主の松平近義が死去したため、その養子として家督を継ぎ、第8代藩主となる。藩政においては隠居していた父・近儔と共同して行うが、文化8年(1811年)の百姓一揆、文政元年(1818年)の銀札崩れなどで藩政は多難を極めた。このため、藩財政再建を目指して藩政改革を行おうとしたが、その方針をめぐって父と対立し、天保2年(1831年)2月24日に父の命令で養子の松平近信に家督を譲って隠居することとなった。
 天保11年(1840年)に父が死去すると、藩政の実権を掌握し、第9代藩主の近信,第10代藩主の松平近説のもとで嘉永5年(1852年)3月20日に死去するまで藩政を取り仕切った。享年54。
 なお、近信が死去して養子問題が起こったとき、近訓は藩の混乱を抑えるために帰国しようとしたが、藩財政がすでに破綻寸前だったために旅費を調達できなかった。そのため、江戸にある石原の屋敷を売却して旅費を工面するほどであったという。これは、当時の府内藩の藩財政の内情を示す逸話である。

松平近説

 14歳で急遽藩主となったため、当初は8代藩主の近訓(隠居して閑山と称す)が後見役となった。その7年後から政務を司るようになり、藩校遊焉館や医学館(稽全館)を設置するなど、とくに学問の奨励に尽力した。
 幕末の混乱期に、幕府奏者番,寺社奉行,若年寄を歴任した。
 第2次長州征伐では小倉に出兵したものの、大政奉還後には国元で勤王派の増沢近篤(8代藩主・松平近訓の長男)が藩主代理に立てられ、幕府の要職にあった近説は裏切られる形となった。やがて近説も慶応4年(1868年)2月6日に若年寄を辞職し、松平姓を大給に改め、朝廷へ恭順の意を表した。版籍奉還後は府内藩知事に任命されたが、廃藩置県直前に東京移転を命じられ、廃藩とともに知事職も解任された。