西福釜松平

MT01:松平親氏  松平親氏 ― 松平親光 MT31:松平親光

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松平親良 松平行隆

 『寛永諸家系図伝』およびこれを引き継いだ『寛政重修諸家譜』の「松平諸流略図」では、松平親光の子として松平親良,松平信乗を載せ、親光の子の代で系図が終わっている。
 『寛政譜』編纂時の西福釜松平家からの呈譜では、親光の子として信乗を挙げ、信乗の子として生まれたのが親良であるとする。松平信乗(三郎次郎,甚三郎)は松平広忠に仕えたが、広忠から懐妊した侍女を妻として賜わり、天文14年(1545年)に生まれた子供が松平親良(甚三郎,兵庫頭)であるとする。親良の誕生に際して、福釜の東端に加恩の地が与えられた。松平親良は、徳川家康に仕えて関東に移ったが、「所存あり」として知行地を受けず、婿である本田正家の知行地である下総国葛西に寓居しし、元和9年(1623年)に没すると、自らが開基となった四谷の法蔵寺に葬られた。
 また、『寛永系図』では、親良は信乗の子ではなく、信乗の兄とする。親光,親良らの軍功について幕府公式記録で確認できない。

 

 慶長5年(1600年)、徳川家康が小山から江戸に戻る際、母と共に拝謁する。慶長11年9月、小姓となる。慶長16年1月15日、三河碧海郡赤松村に知行を賜る。慶長19年、大坂冬の陣に参戦。元和元年、宿直の功により槍等を賜る。
 寛永元年、徳川秀忠上洛に供奉。後に旗本となる。寛永11年3月26日、松平勝五郎が幼少にして家督を継いだため、因幡鳥取にて国政に参加する。寛永13年3月25日、御目付役として松平忠直の配流地豊後萩原に向かう。寛永14年11月11日、島原の乱が起こると現地に急行し、状況を報告するよう命じられた。途中、島原の乱が大規模な一揆衆によるものと知り、その背後に野心を抱く外様大名、例えば島津家がいるのではないかと考え、まず肥後川尻にて偵察を開始。その後、牧野成純,林勝正らと共に軍監となる。同年12月15日、一揆勢が原城に籠もると寄手に参加。寛永15年正月元旦、原城攻めに参加。出丸から城内に乗り入ろうと堀の側に近付くが、一揆勢の鉄炮で膝を負傷。郎党も疵を負ったが、行隆を助け出し、その場を退いた。同年2月27日、疵が癒えないといって陣屋から離れることは論外として、肩輿にて二の曲輪に攻め込む。榊原職直が一番乗りを果たしており、松平行隆は職直と共に攻撃。一揆勢の攻撃を退け、撤退する敵を追って本丸を攻める。本丸の石垣が険しいため、輿を捨ててよじ登った。このように島原の乱で奮戦したが、幕府はあくまでも偵察を命じており、それに反したとして同年7月2日に改易された。慶安元年6月3日、罪を許される。
 慶安3年12月27日、再び徳川家に仕官。慶安4年6月18日、御先弓頭。三河額田郡300石。同年11月4日、1300石を知行。承応2年閏6月11日、64歳没。
 『寛政寛政重修諸家譜』第四十四巻の考察によると、実際は松平親長の子とも、松平信乗の子とも考えられるという。一度、改易されたことと、子孫親房の代に家系が断絶したため記録が失われたため混乱があった。

松平隆見 松平忠久

 承応2年(1653年)に家督を継承。父の遺領1300石のうち300石を弟の松平隆春に分け、1000石を継いだ。
 承応3年(1654年)に御小姓組番士となったのち、万治2年(1659年)に将軍の命により「所々の土居修理の奉行」を務める。寛文2年(1662年)に御使番となり、布衣を許される。寛文5年(1665年)、御先手弓頭となる。
 寛文6年(1666年)3月19日、長崎奉行に転じるとともに、500石を加増された。長崎に来航した中国船と日本人商人との交易は、日本の船宿を介した相対貿易法によって行われており、中国商人が指定した船宿(差宿)が、商人の宿泊や商品の保管、取引の斡旋などを担っていた。寛文6年(1666年)6月9日、隆見は指示を出し、来航した中国商人の宿泊・商品保/取引斡旋などの業務を各町に振り当てることとした。この措置は、奉行所による貿易統制を強化する目的と見られる。
 同年8月、朝鮮で幽閉されていたオランダ人ヘンドリック・ハメルらが五島列島に脱出した。ハメルらは五島藩に保護され長崎に護送された。隆見はハメルらを漂流を偽装したキリスト教宣教師と疑い厳しく詮議したうえで、オランダ商館に身柄を引き渡した。
 寛文9年(1669年)、長崎奉行所は萩原祐佐に命じて真鍮製の踏絵板を作らせたが、当時の長崎奉行が隆見と河野である。また寛文9年(1669年)には、崇福寺住職の任免(長崎奉行所の許可が必要であった)に関して即非と曇瑞を叱責している。寛文10年(1670年)には、オランダ東インド会社の薬剤師ゴットフリード・ヘックに要請し、長崎周辺の薬用植物調査を行わせている。
 寛文11年(1671年)に職を辞して寄合となるが、延宝7年(1679年)に普請奉行となった。

 永禄6年(1563年)、上野城の酒井忠尚が家康に反旗を翻した(三河一向一揆に与したとも、別個の動きともされる)のに対して、鴛鴨城は家康方の拠点となった。4代目の松平忠久は家康の命によって酒井正親(雅楽頭)に附属されて西尾城に移り、永禄8年(1565年)に3代目の親久が死去したために鴛鴨城は廃城となったという。鴛鴨松平家の子孫は酒井雅楽頭家の家老として続いた。