藤井松平

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松平忠晴 松平忠周

 慶長3年(1598年)、下総国布川にて生まれる。徳川秀忠から一字をもらって忠晴と名乗った。元和5年(1619年)に常陸国で土浦藩3万5000石の内から2000石を父・松平信吉から分知される。寛永10年(1633年)、家光将軍の頃、書院番士を皮切りに奏者番など務めあげた。その働き振りを評価され、安房国に2000石,下総国に1000石を与えられた。土浦の知行も保持していたため、総石5千石である。そして寛永19年(1642年)8月には駿河田中藩において2万5000石の大名となった。
 寛永21年(1644年)3月に遠州掛川に移封され、正保5年(1648年)閏正月には8000石加増の上で丹波亀山に移封された。同年8月には、近藩・丹波福知山藩主の稲葉紀通による乱心騒動にともない、城地受け取りの任を受けた。なお、この年に正室を江戸藩邸で失っている。長晴院と贈り名された正室だったが、長男・忠俊を含め子女2人を儲けた。
 長男・忠俊没後、兄・忠国の5男・松平忠栄を養子としていた。だが、この忠栄を生家へ還し、寛文7年(1667年)庶子の千太郎(長じて忠昭)を嗣子、順養子を3男・与十郎(のちの忠周)という幕府への願い出に対し、ようやく認可が下りた。忠晴は御礼の進物を将軍家,老中たちへ献上している。そして、同年の閏2月9日、次男・忠昭に家督を譲って隠居し、忠山と号した。
 寛文9年(1669年)3月23日に72歳で死去。墓所は京都府京都市左京区の光明寺。藩主・忠昭は忠晴死去の際、江戸出府の途上にあったため、丹波亀山から松宮新五左衛門が馬を飛ばし、伊勢で追い着いて上申。訃報を知った行列は急遽、引き返したという。

 万治4年(1661年)4月19日、松平忠晴の庶出の3男として誕生し、聡明さを父から愛されたと伝わる。異母兄の2代藩主・忠昭とは歳が離れていた上に、忠昭は相続時に嗣子がおらず、よって忠晴の命により、忠昭の相続時にその養嗣子と定められた。天和3年(1683年)に忠昭が死去した際、兄の晩年に産まれた遺児・石松(忠隆)の相続を推す家臣もいたが、亡父・忠晴の遺命通りに家督を継いだ。
 上田藩に入封した後、農民に明細帳提出,年貢の籾納から米納への切り替えを求め、複数の村の庄屋を監督する村役人や大庄屋を設置し、農村統制を厳しく行った。
 5代将軍・綱吉に近侍して側用人にまで出世するが、家宣が6代将軍となると、側用人を免ぜられて幕政から遠ざけられる。その後、吉宗が8代将軍になると再登用され、京都所司代を経て老中に起用された。享保7年(1722年)に行われた上方における幕府職制の改革にも現地の責任者として手腕を振るった。その結果、幕府中枢から一定の独立した権限を持っていた京都所司代は権限を縮小されて老中の監督下に置かれ、反対に以前から老中の監督下にあった大坂町奉行の職掌が拡大された。ただし、所司代が実際に老中の監督下に置かれるのは次代の牧野英成以降のことであり、その徹底を図ったのは他ならぬ老中に転じた忠周であった。
 享保13年(1728年)5月1日、江戸で死去した。享年68。跡を3男の忠愛が継いだ。吉宗もその死を悼み、若年寄・大久保常春に銀300枚を持たせ、弔慰に遣わした。人品,文武の両道共に優れ、和歌への造詣も深かった。

松平忠隆 松平忠容

 天和2年(1682年)、江戸藩邸にて生まれたものの、家臣間の争いで、叔父にして義兄に当たる忠周への対抗に祭り上げられる。
 翌年天和3年(1683年)5月、父・忠昭、死去。石松(忠隆の幼名)を擁するのは、浅見杢之介を中心とする1派。祖父・松平忠晴の遺命に想定されていない事態ではあるが、忠昭の直系であることを全面的に主張する。だが、その石松はわずか2歳。しかも、数え2歳の実質は、生後半年程度の乳飲み子であった。それに対し、忠周は23歳。幼少時からの聡明さは周知の事実で、成長後の人品に不足の無い上に、忠晴の遺命がある。家督相続などとても叶わず、石松は部屋住みの生活を送る。ただ、家臣間の諍いに限ったことで、忠周と石松の当人同士の関係は極めて良かった、と伝わる。
 擁立した浅見杢之介は後に処罰された。理由は、庶出の石松を嫡出であると出生を偽装していたことが、岩槻への転封後に発覚。もともと、先君・忠昭、先々君・忠晴へ取り入り、着々と地位を築いていた浅見は、対立重臣を排斥するなど目に余る振る舞いを見せていたため、忠周の藩主就任後は減石させられていた。そこにきて出生偽装など、御家を騒がせたる罪により浅見と偽装に加担した奥医師・太田松陸は入牢獄死。浅見の家族らには、永年の暇を取らせたという。
 忠周に劣るとはいえ、特に非もなく元禄16年(1703年)12月、和州生駒5000石の旗本で再従兄弟に当たる藤井松平家の支族・松平信周の養嗣子に迎えられた。ところが、健康面で優れず、生駒での家督相続者としての評価を次第に下げていった。 宝永5年(1708年)4月、不縁となり、生家の松平伊賀守家へ送り返された。寛保3年(1743年)3月27日、71歳で死去。健康面を不安視された割に長生きできた。
 自身は不遇であったが、長男・直隆は藤井松平家の嫡流・松平山城守家に家督相続者として貰われていった。そして多四郎忠隆の手元には、次男・忠敏が残った。家老格として藤井松平伊賀守家に尽力した忠敏は松平姓を憚ってか、藤井を姓としたという。

 享保13年(1728年)6月15日、上田藩主を継いだ兄の忠愛は、父の遺領から5000石を弟の忠容(当時7歳)に分知した。このとき分知されたのが更級郡にあった飛地・川中島領1万石のうちの5000石で、塩崎村,今井村,上氷鉋村,および中氷鉋村の一部である。知行地は「塩崎知行所」と呼ばれる。現地任用の代官・割番などが政務にあたった。
 元文2年(1737年)8月25日に徳川家治の小姓となり、8月28日に従五位下・民部少輔に叙任。宝暦6年(1756年)2月21日、昵懇の列に連なり、小姓組番頭格となった。5月21日より西丸側役となり、諸事執啓を務める。9月26日に執啓を、10月18日に御側をそれぞれ免じられ、10月29日に致仕した。跡は忠常が継いだ。
 安永10年(1781年)1月23日、60歳で死去。江戸・西久保(現在の東京都港区虎ノ門)の天徳寺に葬られ、以後代々の葬地となった。ただしその後改葬があったらしく、忠容の墓誌を刻んだ「松平祖先之墓」が谷中霊園に存在している。

松平忠明

 豊後岡藩主・中川久貞の4男として生まれる。天明3年(1783年)9月10日[、忠明(当時の名は中川大炊久長)を5000石の大身旗本・松平忠常の婿養子にする申請が認められる。松平忠常の家は、上田藩主家(藤井松平家)の分家で、信濃国更級郡塩崎村に陣屋を構えていた。天明4年(1784年)2月29日、正式に松平忠常の養子となり、名を忠明に改める。
 天明4年(1784年)12月22日、将軍徳川家治に御目見。養父の隠居に伴い、天明5年(1785年)8月11日に家督を継承した。寛政4年(1792年)6月7日、寄合肝煎となる。寛政6年(1794年)7月16日、小姓組番頭となり、同年12月16日に従五位下・信濃守に叙任。寛政9年(1797年)9月16日に西の丸書院番頭に遷る。寛政10年(1798年)9月20日には本丸の書院番頭となる。
 寛政年間は、蝦夷地をめぐる大きな事件が相次いだ。寛政元年(1789年)にアイヌの蜂起であるクナシリ・メナシの戦いが発生、寛政4年(1792年)にはロシア使節アダム・ラクスマンが根室に来航、寛政8年(1796年)にはイギリスの海軍士官ウィリアム・ロバート・ブロートンの指揮するプロヴィデンス号 (HMS Providence (1791)) が内浦湾を測量し、虻田などに上陸している。江戸幕府は寛政10年(1798年)、目付・渡辺胤,使番・大河内政寿,勘定吟味役・三橋成方に蝦夷地の警備,経営についての調査を命じ。渡辺らは蝦夷地に赴き、現地の状況を巡察して、11月半ばに江戸に戻って復命した。幕府は蝦夷地を直轄とすることとした。同年12月27日、松平忠明は「蝦夷地のことをうけたまはり」、渡辺らと議すように命じられる。忠明の力量が見込まれ、蝦夷地の責任者(蝦夷地取締御用掛)として抜擢されたものとみなされる。享和2年(1802年)2月23日に蝦夷地御用掛を免じられるまで幕府の蝦夷地政策
に携わり、蝦夷地経営の基盤が整えられた。
 享和2年(1802年)、駿府城代となる。駿府城代としての在任中には、安倍川の治水につとめて享和3年(1803年)の洪水の被害を抑え、文化元年(1804年)には火災で焼失していた駿府の浅間神社の再建を起工した。
 文化2年(1805年)春、駿府において死去。公式には41歳であるが、『中川氏御年譜』『故信濃守源公伝』によれば47歳。没日,死因についても諸説があるという。浅間神社北西の松樹院北側に葬られ、墓石には「故駿府城代信濃守松平君之墓」と刻まれている。現地静岡では「自分が死んだら浅間神社再建の木遣唄が聞こえる場所に埋葬して欲しいと遺言していた」と伝えられている。『故信濃守源公伝』では、駿府城の鎮護となるべく城を眺められる場所に埋葬することを遺言したとある。