紀州徳川家→西条松平家

TG21:徳川頼宣  徳川家康 ― 徳川頼宣 ― 松平頼純 MT81:松平頼純

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松平頼純 松平頼雄

 紀州藩主・徳川頼宣の3男として誕生。初代将軍・徳川家康は祖父。8代将軍吉宗の叔父、徳川家光や徳川光圀の従弟にあたる。
 正保2年(1645年)に3代将軍・家光に御目見する。承応3年(1654年)に従四位・少将,左京大夫に叙される。寛文10年(1670年)、伊予西条3万石を与えられ大名に列する。参勤交代をしない定府大名であった。
 正徳元年(1711年)、死去した。享年71(満70歳没)。家督は5男の頼致が継いだ。

 その人物像は、孝行心が深く方正で、非難の余地がない人だったことで史料は全て一致する。
 頼雄の最初の不幸は6歳の時、頼純の正室であり、頼雄の生母であった本多忠義の娘が死去したことである。その後、頼純は側室であった太田氏(観樹院)を寵愛し、その間に出来た頼致を可愛がるようになる。
 元禄12年(1699年)、兄・松平頼路の死によって頼雄は満31歳で嫡子となる。以後、従四位侍従となり翌元禄13年に山城守と名乗り、元禄15年には藩主名代として江戸城に登城している。しかし父・頼純は彼を疎み、元禄14年(1701年)から重臣の強い反対に関わらず彼を廃嫡しようと願っていた。
 宝永3年(1706年)、頼純は頼雄の「行跡無宜」という漠然とした理由をあげ老中に届けて、彼を義絶し、渋谷にあった西条藩下屋敷の一間に押し込んだ。すぐ後、「かねての御願いの通り」に愛妾の子・頼致を世嗣にした。更に、宝永6年(1709年)には頼純が重臣の渥美甚五郎勝之を手打ちにし、渥美の妻子、その他の渥美の親族,関係者を大勢処罰した。理由は渥美が頼雄の処罰の件を強諌したことにあった。押し込め処分が解けないまま、正徳元年(1711年)に頼純は死去し、頼致が西条藩主となった。
 宝永2年(1705年)に本家の紀州藩主となっていた従兄弟・徳川吉宗が、西条藩下屋敷での座敷牢のような生活を憐れみ、頼雄を別邸に移したが、江戸では何かと気が詰まるだろうと正徳3年(1713年)に紀州に移した。紀州和歌山では吉宗が何かと心配りを行い、書籍も望みのままに与え、また京都から婦人を迎えたが、頼雄はこれを断り、「父の勘気を蒙った不肖の息子」だとして専ら謹慎した。「父の不興を買うたる者は日の光を受けるは恐れ多し」と庭に出るにも笠を付けるほどであったという。
 このような謹慎生活を過ごすにあたり、吉宗は、和歌山は藩士も多く心落ち着き蟄居するには田舎が良いだろうと筆頭家老・安藤氏の田辺藩の下秋津の高台に30間四方の邸宅を建て、その年の12月に頼雄をそこに移し住まわせた。頼雄はここで官職を投げ捨て松平左門と名を改めた。
 ところが、享保元年(1716年)に本家紀州藩主の吉宗が将軍となって紀州を去り、支藩の西条藩主であった異母弟・頼致が徳川宗直の名前をもって紀州藩主となり、その弟であった頼渡が西条藩を継いだため、頼雄の嗣子としての道は完全に閉ざされた。
 享保3年(1718年)に頼雄は謎の死を遂げる。死因は現在でもはっきりとせず、将来の紀州藩のお家騒動を懸念した宗直が御坊市の九品寺におびき出して暗殺したとも、紀州藩主の代替わりを数年後に知った頼雄が、「弟殿の御代となっては養ひ受くべきは思いもよらず」と宗直が差し入れを送っていたことを知り反発し、病気を訴え、絶食し、ついに餓死したとも言われる(九品寺には山城守と言い伝えられている無銘の大名塚があることから暗殺説が有力である)。葬式は田辺の本正寺で三つの藩の目付の前で行われた。墓所は和歌山の感應寺、位牌堂は田辺の本正寺、供養塚は御坊の九品寺。
 安永5年(1776年)に宗直の子・徳川治貞が和歌山に入部したが、その年から毎年公然と頼雄の墓を訪問した。その後、頼雄の嫡子としての地位が回復され、文化3年(1806年)にその「冤魂」を慰めるための和歌山の邦安社が創建された。

松平頼致(徳川宗直) 松平頼淳(徳川治貞)

 伊予西条藩の第2代藩主、のち和歌山藩の第6代藩主。官位は従二位・権大納言。西条藩主時代は松平頼致を名乗る。江戸幕府8代将軍・徳川吉宗の父方の従兄に当たる。
 西条藩初代藩主・松平頼純の5男(次男,4男との記述も)として誕生した。母は側室の太田氏(観樹院)。
 宝永3年(1706年)8月28日に兄で正室の子であった松平頼雄が突然廃嫡され、代わって頼純の世子となった。宝永6年(1709年)7月5日、江戸の西条藩邸で廃嫡された頼雄の復権を強諌した家老の渥美勝之を、頼純自ら手討にして仕損じた時には、怯む家臣に代わって宗直が止めを刺した。正徳元年(1711年)11月、頼純の跡を継いで西条藩主となった。しかし、正徳6年(1716年)に従弟にあたる和歌山藩主・徳川吉宗が将軍に就任したため、紀伊徳川家の家督を継ぐこととなり、西条藩は弟の頼渡が継いだ。藩財政再建のため、藩札発行や銅銭鋳造などに尽力したが、あまり効果はなかった。
 宝暦7年(1757年)7月2日、江戸中屋敷にて死去した。享年76(満74歳)。跡を長男の宗将が継いだ。
 和歌山藩主としての治世は41年2か月であり、この間の江戸参府17回、紀州帰国17回、紀州在国の通算は14年4か月であった。

 伊予西条藩の第5代藩主、のち和歌山藩の第9代藩主。官位は従三位・参議兼右近衛権中将,権中納言。
 享保13年(1728年)2月16日、和歌山藩6代藩主・徳川宗直の次男として誕生した。寛保元年(1741年)に和歌山藩の支藩である西条藩4代藩主・松平頼邑の養子となり、名を松平頼淳と改める。宝暦3年(1753年)に藩主となる。
 安永4年(1775年)2月3日、和歌山藩8代藩主となっていた甥の徳川重倫が隠居すると、5歳の岩千代(後の10代藩主・治宝)に代わって重倫の養子という形で藩主を継ぎ、西条藩主を同じく甥の松平頼謙(重倫の実弟)に譲った。10代将軍・徳川家治より偏諱を授かって諱を治貞と改める。
 8代将軍・徳川吉宗の享保の改革にならって藩政改革を行ない、和歌山藩の財政再建に貢献している。主に倹約政策などを重視した。寛政元年(1789年)10月26日、死去した。享年62(満61歳没)。跡を治宝が継いだ。
 和歌山藩主としての治世は14年8か月であり、この間の江戸参府4回、紀州帰国4回、紀州在国の通算は5年3か月であった
 名君の誉れ高い熊本藩8代藩主・細川重賢と並び「紀州の麒麟、肥後の鳳凰」と賞された名君で、紀麟公と呼ばれた。和歌山藩の財政を再建するため、自ら綿服と粗食を望んだ。冬には火鉢の数を制限するまでして、死去するまでに10万両の蓄えを築いたという。このことから「倹約殿様」ともいわれる。

松平頼謙 松平頼啓

 安永4年(1775年)2月3日、和歌山藩主を継いでいた次兄の徳川重倫が隠居した。この時、重倫の子である岩千代(のちの治宝)はまだ幼少であり、代わりに叔父で先代藩主の松平頼淳(=徳川治貞)が和歌山藩主として転出することとなったため、それに伴い重倫の弟である金十郎改め頼謙が、頼淳の養嗣子という形で、同日西条松平家の家督および西条藩主を継いだ。
 安永7年(1778年)、郡奉行の竹内立左衛門に命じ、加茂川や中山川の治水工事などを行なわせ禎瑞新田を開発する。寛政7年(1795年)8月7日、長男・頼看に家督を譲って隠居し、文化3年(1806年)9月2日に52歳で死去した。

 天明4年(1784年)12月23日生まれ。寛政9年(1797年)、同母兄で先代藩主の松平頼看が若死にしたため、その養嗣子として後を継いだ。寛政11年(1799年)に叙任する。藩政においては近藤篤山の弟・三品容斎を登用して藩校・択善堂の創設など文治政策に尽くした。また、多喜浜新田の開発なども行なっている。伊能忠敬の測量にも積極的に協力したといわれる。
 天保3年(1832年)閏11月25日、家督を長男・頼学に譲って隠居し、嘉永元年(1848年)7月9日、65歳で死去した。墓所は東京都大田区の池上本門寺。