<神皇系氏族>天神系

NT37:吉田兼煕  中臣阿麻毘舎 ― 中臣国子 ― 大中臣清麻呂 ― 大中臣諸魚 ― 占部平麻呂 ― 吉田兼煕 ― 吉田兼右 NT38:吉田兼右

リンク
吉田兼右 吉田兼見

 永正13年(1516年)、少納言・清原宣賢の次男として誕生。神祇権大副兼侍従・吉田兼満の養子となった。
 養父・兼満が大永5年(1525年)に突然出奔したため、従弟にあたる兼右が10歳で後を継ぎ、父・宣賢が後見役となって唯一神道の道統を継承した。祖父・兼倶以来の神道説を宣揚して、積極的に全国の神社・神職に対して宗源宣旨や神道裁許状を発行すると共に、地方のオトナ衆・氏子との交流を図って吉田家の家門拡大に努めた。特に周防国大内氏,越前国朝倉氏,若狭武田氏に招かれ神道伝授を行った。
 元亀4年(1573年)正月10日、薨去。享年58。遺言により遺骸は吉田神社の近くに社壇を建てて唯神霊神と称して祀られた。

 元亀元年(1570年)、家督を継ぎ吉田神道の継承者となった。初名は兼和であったが、後陽成天皇の諱(和仁)を避けて天正14年(1586年)に兼見に改名した。
 足利義昭,織田信長,明智光秀,豊臣秀吉,細川幽斎などと交友関係は広く、信長の推挙により堂上家(家格は半家,卜部氏)の家格を獲得した。
 元亀4年(1573年)、足利義昭への威嚇のため、信長が上京焼き討ちをする前に庶民から悪い噂が市中に流れる事を恐れ、4月1日に織田信忠の陣見舞いに知恩院に行った時、信長に呼び出され朝廷や庶民の将軍・義昭の評判を尋ねられて、「天皇や公家や庶民にも評判が悪い」と答えて満足されている。
本能寺の変後に光秀へ2回勅使となり、その礼として光秀から銀50枚をもらい、他にも2回会った。
 『兼見卿記』によると山崎の戦い後の6月14日、織田信孝の使者を名乗る津田越前入道が兼見のもとを訪れ、「朝廷と五山その外に銀子を与えたのは怪しからんことだと信孝が怒り陣所でも取りざたされている」と抗議した。兼見は釈明したが津田は納得せず帰る。兼見は参内して誠仁親王にとりなしを依頼し、親王は柳原淳光を信孝のもとへ遣わした。兼見は秀吉の京都奉行・桑原貞也にもとりなしを申し入れるが京中で類件が頻発していると説明される。信孝の元へ向かった柳原敦光は不在のため信孝とは会えなかったが、後日に改めて面会すると信孝から「そのような使者を命じてはいない」と返答がある。また信孝から兼見にも「津田に(使者を)命じてないので不審で捕らえる」との手紙が来た。秀吉にもこの件で手紙を送るが「問題ない」と返書が来た。
 『兼見卿記』は兼見が記した日記で、特に京の政治情勢に関して詳しく記されており、他にも北野社の大茶会をはじめとする茶器・連歌などの文芸、天正大地震による若狭湾での大津波の記録など、織豊政権期の重要な資料の一つとされている。本能寺の変の起こった天正10年分だけ、以前の記述分が別本として存在しており、光秀との関わりのある件が書き直され銀子糾問の影響など様々に分析されている。

吉田梵舜 吉田兼敬

吉田家の次男は氏寺である神龍院(吉田神道の創設者である吉田兼倶が吉田山に創建した仏教寺院)に入ることが習わしであったため、梵舜も神流院の住職となる。従二位神祇大副となった兄の吉田兼見に比べ、身分はかなり低く、才智も平凡だったとされるが、その分、交際範囲も広く、行動の自由度も大きかったと見られる。
 慶長3年(1598年)に豊臣秀吉が逝去すると、梵舜は兄である吉田兼見と共に豊国廟の創立に尽力、その社僧となる。梵舜は豊国神社の別当として、秀吉の七回忌にあたる慶長9年(1604年)には臨時祭の開催に奔走。また慶長15年(1610年)には甥の萩原兼従と共に駿府や江戸へ赴き徳川家康に謁見、豊国神社の社領安堵を受けた。慶長18年(1613年)には大坂城鎮守豊国社の創建遷宮を行った。しかし、慶長20年(1615年)の大坂の陣で豊臣家が滅びると状況が一変、家康によって方広寺の鎮守とするために豊国神社の破却を命じられる。梵舜は金地院崇伝や板倉勝重ら幕閣に掛け合うなど豊国神社維持の為に東奔西走するが、破却の決定は覆らなかった。ただし梵舜の役宅である神宮寺の寺領は安堵されたため、社殿は崩れ次第とされながらも秀吉を弔うための祭祀は継続することが出来たという。
 豊国神社の維持には失敗したものの、梵舜の神道家としての権威は依然として衰えなかった。梵舜は神道に造詣が深く、豊臣秀吉のような権力者に信任され、更に後水尾天皇や公卿たちにも神道を進講するほどであった。慶長19年(1614年)には後陽成上皇に章節を付けた『中臣祓詞』を献上した。秀吉死後は徳川家康とも関係が深く、慶長10年(1605年)には家康に命じられて(銃の力に脅迫されて)徳川氏を新田源氏に繋げる系図捏造にも携わったといわれている。家康も駿府や大坂の陣の陣中で梵舜から講義を受けた一人である。元和2年(1616年)4月に徳川家康が逝去すると、梵舜はその葬儀を任され家康を久能山に埋葬した。一方で梵舜は日記によると、豊国神社の破却決定から家康の発病まで各所の神社に多くの祈願をしており、津田三郎は家康を呪詛する意図があったと推測している。
 梵舜の神道家としての立場が揺らぐのは、家康の一周忌において、家康の遺体を久能山から日光山に改葬する際のことである。当初梵舜は金地院崇伝や本多正純たちと共に吉田神道の形式に則って家康を明神(大明神)として祀ろうとするが、山王一実神道形式での祭儀を推す天海と対立。最終的に天海に論争で敗れ、家康は権現(東照大権現)として祀られることになる。以降は山王一実神道が権勢を増し、反対に吉田神道の影響力はその分、後退することになった。
 この頃から梵舜は、妙法院の僧侶たちから豊国神社へと至る参道を封鎖される、神宮寺の境内の草を無断で刈られるといった嫌がらせを受けていた。梵舜は妙法院の非道を幕府に訴えるが相手にされず、逆に神宮寺を妙法院に引き渡すよう勧告を受ける。梵舜は元和5年(1619年)9月に神宮寺を妙法院に引渡し、自身が住職を務める神龍院へと退去した。神龍院でも梵舜は密かに秀吉を鎮守大明神として祀り、豊国神社再興を祈願し続けたといわれる。
梵舜は寛永9年(1632年)に死去した。享年80。
 梵舜は天正11年(1583年)から最晩年の寛永9年(1632年)までの詳細な日記を残している。全三十三巻に及ぶ彼の日記『梵舜日記』(別名『舜旧記』)は豊国神社の栄枯盛衰、豊臣から徳川への権力変遷を伝える貴重な史料である。梵舜が豊臣秀吉の妻である高台院と関係が深かったことから、近年晩年の高台院の動向を伝える史料としても注目を集めている。

祖父・吉田兼英は生来病弱で、大伯父・萩原兼従は一子相伝の奥義を吉川惟足に伝授した。しかし、父・兼起も伝授を受けることなく明暦3年(1657年)に卒去したため、幼くして家を嗣ぎ周囲の補佐を得て神道の教養を深めた。寛文5年(1665年)に諸社禰宜神主法度が発布され吉田家の権威が確立され、寛文8年(1668年)と同12年(1672年)に吉川惟足より返し伝授を受け、父祖の遺業の安定と拡充を図り家の基を固めた。
 また、霊元天皇に『祓本』を相伝、次いで東山天皇に『祓本』を講じ、『御奉幣』『八雲神詠口訣』などの相伝にも奉仕した。
 元禄10年(1697年)、名を兼敬と改めた。享保14年(1729年)、正二位となる。
 享保16年(1732年)、薨去。
 著作には『神道大意』『塩釜社縁起』『椋五所大明神由来』などがある。その他、『日本書紀』神代巻、『中臣祓』『六根清浄大祓』などの注釈書も遺しており、歌人としても知られ歌集も伝えられる。

萩原兼従

1599年(慶長4年)、祖父吉田兼見の画策により兼見の養子となり、豊臣秀吉を祀る豊国神社の社務職に就任し萩原を名乗る。1615年(元和元年)大坂の陣で豊臣氏が滅亡すると、豊国神社は破却され、職を失った兼従は豊後国の領地に下ったが、伯父である細川忠興の計らいにより徳川幕府から特別に赦された。
 その後本家吉田家の後見役となり、吉川惟足に唯一神道を継承させた。兼従の死後、吉田神社の境内に「神海神社」が創建された。