<皇孫系氏族>垂仁天皇後裔

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小槻奉親 小槻貞行

 蔵人所出納などを経て、一条朝初頭の正暦元年(990年)までに右少史に任ぜられると、出家までの約20年の長きに亘って太政官の史を務めた。翌正暦2年(991年)右大史に昇格し、正暦5年(994年)外従五位下・左大史に叙任されて大夫史となった。長保元年(999年)には穀倉院別当を兼務、更に寛弘2年(1005年)算博士を兼ねた。奉親は藤原道長の政所家司も務めた。
 寛弘4年(1007年)左大史を帯びたまま淡路守に任ぜられて任地に赴くが、一条朝末の寛弘8年(1011年)淡路国からの帰京途中に突然発心して平安京に戻らずそのまま延暦寺横川に入って出家した。
 万寿元年(1024年)12月の後一条天皇の北野行幸の際に行事史を務めていた子・貞行が父親である奉親の死去を報告せずに職務を行ったことが問題となっていることから、同日あるいはその数日前に没したと考えられている。
 後世、官務(大夫史)を世襲して「官務」と称された小槻氏では、奉親を初代の官務として尊んでいる。実際に世襲が確立されて官務家が成立するのは、孫の小槻孝信の時代と推定されているが、その背景には奉親が長期にわたる左大史在任中に関わった官文書を自宅に保管・整理していたことによって太政官における先例の蓄積がその子孫に伝えられていたことによる部分が大きいとされている。

 寛仁元年(1017年)右大史に任ぜられる。同年の後一条天皇の賀茂行幸に際して、官文殿内の文書不足から上卿の権大納言・藤原実資が十分な回答を出すことができなかった。ここで朝廷の命を受けて、貞行は父でかつての左大史・小槻奉親が自邸に保管していた一条天皇時代の賀茂行幸の文書を提出した。当時、太政官の史の筆頭官である左大史は藤原道長の家司でもある丹波奉親が単独で占めていたが、摂政・藤原頼通は「能人」と評するなどその能力を買っていた貞行を左大史に推挙する。これに対して、丹波奉親を擁護する父・道長は強く反対するが、頼通は反対を押し切って寛仁3年(1018年)までに貞行を左大史に昇任させたことから、道長の勘当を受けたという。しかし後年、民部卿・源経信は内大臣・藤原師通に対して頼通の処置への支持を語っており、これが当時の貴族一般の認識であったと想定される。貞行が左大史に任ぜられて以降、左大史2人体制を取ることになり、後の小槻氏による左大史世襲(官務家の成立)への道を開くことになった。
 治安2年(1022年)従五位上に叙せられると、翌治安3年(1023年)上﨟の但波奉親が加賀守に転じたことから、貞行が左大史の上首となる。その後、貞行は長元6年(1033年)頃まで左大史を務める一方で、周防権介・主計権助を兼帯し、万寿2年(1025年)正五位下に至った。

小槻孝信 小槻祐俊

 後一条朝末に左少史を務め、後冷泉朝初頭の永承元年(1046年)大夫史(五位の左大史)に任ぜられる。左大史には後冷泉・後三条・白河の三朝約30年に亘って在任して、この間算博士・大炊頭・主税頭・主計頭などを兼ねる。承保3年(1076年)頃に左大史を子息の祐俊に譲るが、引き続き主計頭兼算博士を帯びたほか紀伊守なども務め、後に位階は従四位上に至った。応徳3年(1086年)9月15日卒去。享年70。
 太政官のみならず、主計寮の先例にも通じ、『諸国申請雑事』という書物を著したと伝えられている。大夫史に期待されていた宣旨発給手続実務および文書保管と先例勘申に加え、手続を遂行する上で弁官と主計寮の連携が必要とされる一国平均役が広く行われるようになると、孝信および小槻氏が持つ文書および先例の蓄積と地方の租税に関する知識の朝廷における存在感が高まるようになり、孝信以降大夫史は小槻氏の嫡流によって世襲されるようになった(官務の成立)。この書が成立した約100年後の治承3年(1179年)に右大臣・九条兼実の指示により小槻有頼が書写しており、この書の有用性が窺われる。また、主計頭としての立揚で主計寮文書を抄出して、公務に役立てようとしたともされる。

 右少史を経て、白河朝の承暦元年(1077年)父の小槻孝信から譲られて大夫史となる。その後、約25年に亘って大夫史を務める一方で、大炊頭・掃部頭・算博士・主税頭などを兼ね、永保元年(1081年)正五位下に叙せられている。祐俊の頃には官史としての小槻氏の存在感は相当高まっており、承徳2年(1098年)熊野詣のために京を不在にしていた祐俊に代わって、六位史の筆頭である左大史・伴広親が太政官奏の座頭を務めたが、文書の不備などを指摘されるなど酷評されている。
 康和5年(1103年)、祐俊は堀河天皇の許可を得て、嫡子の忠兼を差し置いて養子の盛仲に大夫史を譲る。この際に通常の手続きとは異なって祐俊は辞表を提出しておらず、これをもって小槻氏による大夫史の世襲の始まりともされる。長治元年(1104年)大夫史の労により従四位下に叙せられ、のち位階は従四位上に至った。またこの頃、近江国の雄琴荘および苗鹿村が小槻氏の氏寺である法光寺領として、小槻氏長者が支配することが決められている。
 永久2年(1114年)2月14日卒去。

小槻盛仲 小槻政重

 白河院政期初頭の寛治元年(1087年)ごろ右大史次いで左大史を務め、寛治2年(1088年)従五位下に叙爵する。
 その後、官史を離れるが、算博士を経て、康和5年(1103年)小槻祐俊から嫡子の忠兼を差し置いて養子であった盛仲に対して大夫史が譲られる。この際に通常の手続きとは異なって祐俊は辞表を提出しておらず、これをもって小槻氏による大夫史の世襲の始まりともされる。
 その後、約20年に亘って左大史を務める傍らで、算博士・修理右宮城判官・内匠頭などを兼ね、長治元年(1104年)従五位上、天永2年(1111年)正五位下と昇進した。また、摂政・藤原忠実や権大納言・藤原宗通の政所家司も務めた。
 保安3年(1122年)正月に実弟の小槻政重に大夫史を譲り、同年4月5日に卒去。

 白河院政期後期の保安3年(1122年)実兄である小槻盛仲の後を継いで大夫史となる。約20年に亘って大夫史を務める傍らで算博士を兼帯し、丹後介,丹波介,能登介,播磨介,摂津守などの兼国にも与った。また、位階は正五位下に至っている。
 康治3年(1144年)3月17日に卒去。享年51。内大臣・藤原頼長は、政重の死について主君を諫めて決別し自ら餓死した賢人伯夷の故事になぞらえており、政重が何らかの微妙な立場におかれていたことを匂わせている。さらに、その死は官中が衰退せんとしているためである、と評した。事前に、長男の小槻師経が大夫史を務めるにあたって能力に不安があったことから、次男の永業に師経を補佐させることにしていた。しかし、永業に大夫史の職務を補佐させることが、兄弟間の争いへと発展することを危惧したためか、政重はその死に際して、「家を継いで大夫史として出仕することと、大夫史の職務遂行に不可欠の官文書を進退することとが決して分かつことがないように」との起請を書きおいたとされる。ここから、長男・師経を家の後継者たる大夫史とする一方で、次男・永業が官文書の進退に関わる部分を担うことになったことが窺われる。

小槻永業

 小槻氏は代々大夫史に任ぜられていたが、長兄・小槻師経が大夫史を務めるにあたって能力に不安があったことから、永業が師経を補佐することになっていた。
 のち、左少史を経て、久安3年(1147年)正月に右大史、4月に左大史と昇任されるが、翌久安4年(1148年)従五位下に叙爵すると大夫史とはならずに官史を辞して弁官局を去る。
 保元2年(1157年)8月に右大史として約10年ぶりに弁官局に復帰する。同年10月に師経が没すると、永業は正五位下・左大史兼算博士に叙任されてその後を継ぐ。その後は、備前介,摂津守と次々と兼国に預かり、応保元年(1161年)には摂津守を辞す代わりに、弟の小槻隆職を左少史から佐渡守に遷任させている。応保2年(1162年)には大炊頭を兼帯する。大炊頭は中原氏の歴代局務がほぼ世襲していたことから、当時の永業が歴代の中原氏の中に割って入り込めるだけの政治力を持っていた様子が窺われる。
 長寛2年(1164年)12月に永業は急病に伏し、その死の床で大夫史,算博士,大炊頭,佐渡国を知行するための文書などを子息の広房に譲る。永業は広房への相続からまもない同月8日に卒去。
 結局、強行に進められたこの相続に対して、永業の弟・隆職が異議を挟む。結局、二条天皇の指示によって、翌長寛3年(1165年)正月に隆職が左大史に、広房が算博士に任ぜられた。この時点で、隆職は30歳、広房は17歳であったが、大夫史の地位を得るためには、それまでの経験を重視するのが当時の一般的な認識であったことから、13歳も年下の広房に不利であった。ここで小槻氏は大夫史を受け継ぐ隆職流(のち壬生流)と算博士を受け継ぐ広房流(のち大宮流)に分裂した。