<神皇系氏族>天神系

OT16:設楽資乗
 大伴武日 ― 大伴 咋 ― 伴 清助 ― 富永資隆 ― 設楽資乗 ― 毛枚景広
OT17:毛枚景広


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山岡景之
山岡景隆
 六角氏綱に仕え、瀬田城を居城にして江南の旗頭と呼ばれるほどの実力を保持していたといわれ、六角氏の下で多くの軍功を挙げてその地位を確立した。
 永禄11年(1568年)、織田信長が足利義昭を奉じて上洛を開始すると、信長から降伏勧誘を行われるが、これを拒否し近江南部の国人の旗頭として抵抗したが、後に信長に降伏しその家臣となる。織田家では佐久間信盛隊に配属された。
 景隆の信長に対する忠誠心は厚く、また信長も先祖が甲賀出身である景隆の家柄などを顧慮して、甲賀衆の指揮権を与えていたという。元亀4年(1573年)からの信長と足利義昭との戦いでは信長側に付き、槇島城攻めなどで戦功を挙げた。天正5年(1577年)の雑賀攻め、天正9年(1581年)の伊賀攻めにも従軍した。
 天正10年(1582年)、本能寺の変で信長が死去すると、明智光秀から味方になるように勧誘されたが、景隆はこれを拒絶して瀬田橋を落として明智軍の進軍路を妨害するなど抵抗し、山岡一族は山中へ逃走。羽柴秀吉方に逐一光秀軍の行動を報告し、このために明智軍は安土城に進軍するまでに手痛い被害を受け、また時間的余裕を失ったとまでいわれている。その後は織田氏擁護の立場から柴田勝家に与して、台頭していた羽柴秀吉と敵対する。しかし天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いで勝家が討たれると秀吉に降伏。助命はされたが弟・景佐と共に所領を没収され、以後は甲賀に隠遁した。天正13年(1585年)正月14日に死去。享年61。
山岡景宗
山岡景佐
 当初は父と共に信長に仕え、天正4年(1576年)には松永久秀と共に石山本願寺攻めに参加している。信長の死後、父・景隆は羽柴秀吉と敵対して改易され、まもなく死去したが、景宗は秀吉から許されて1450石の所領を与えられ、馬廻の1人に列せられた。朝鮮出兵では秀吉に従い、肥前国名護屋城に在陣した。
 秀吉の死後は秀頼に仕え、大坂の陣でも豊臣方として戦ったが、戦後は罪を許されて徳川家康,秀忠らに仕えて本領を安堵されている。ただし『断家譜』では慶長4年(1599年)1月に61歳で死去としている。

 当初は六角氏に仕えたが、永禄11年(1568年)頃に織田信長が上洛を果たすと降伏。弟・景猶と共に信長配下の明智光秀に属し、元亀3年(1572年)降伏した松永久秀に代わり多聞山城の城番や、天正4年(1576年)4月の本願寺攻めに参加した。
 光秀の丹波国平定には参加しておらず、この頃は信長や佐久間信盛の下で茶会に参加した記録が多く見られることから、兄・景隆と同じく佐久間信盛の与力に属したか、信長の直臣となったと考えられる。以後、天正7年(1579年)の有岡城攻め、天正9年(1581年)の伊賀国攻めなどに従軍。天正10年(1582年)、信長最後の上洛の際には蒲生賢秀と共に、安土城二の丸の番衆を務めた。
 天正10年(1582年)6月、本能寺の変で信長が死去すると、光秀からの勧誘を受けるが、兄・景隆と共に光秀に対し抵抗姿勢を示す。また徳川家康の伊賀越えを助けたともいわれる。以後、羽柴秀吉に属して伊勢国へ出陣したが、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦い後、柴田勝家に内応したとの嫌疑をかけられ、兄と共に改易された。その後、徳川氏の家臣となった。天正17年(1589年)1月に駿府にて死去。享年59。
山岡景猶
山岡景友
 六角氏,足利義輝に仕えたが、当初は近江国志賀郡の園城寺に属す僧籍の身分であり、永禄10年(1567年)4月から8月まで尾張国に滞在し、里村紹巴と交流した記録があり、六角氏の影響下にありながらも、織田氏領内への交流が認められていたようである。織田信長が上洛して勢力を拡大するとその家臣である明智光秀に属した。
 元亀元年(1570年)に近江国内において2050石を与えられ、元亀2年(1571年)の比叡山焼き討ちでは、信長は三井寺山内の景猶の屋敷より指揮した。元亀3年(1572年)には、光秀の指揮下で湖上から堅田衆と共に、琵琶湖周辺で起こった一揆に対して攻撃をしている。
 元亀4年(1573年)7月3日、足利義昭が信長に対して挙兵すると、景猶は義昭の誘いを拒絶して、填島城攻めで戦功を挙げた。天正元年8月には朝倉氏攻めにも参加。天正10年(1582年)6月、本能寺の変で信長が死去して羽柴秀吉が台頭すると、兄と共に秀吉に属したものの、柴田勝家に内通したとの嫌疑をかけられ、賤ヶ岳の戦いの後、兄と共に改易された。後に加藤清正に仕えて天正16年(1588年)の清正の肥後国入国の際に起こった天草一揆の鎮圧で武功を挙げた。秀吉死後は徳川家康に接近し、家康の次男・結城秀康に仕えた。慶長4年(1599年)に死去。
 室町幕府の奉公衆と親しく政所代の蜷川親長とも親交があり、15代将軍・足利義昭により幕臣に取り立てらた。
 元亀2年(1571年)、三淵藤英と共に大和国の筒井順慶の救援に出陣し、松永久秀と戦った。その後、信長と義昭の戦いでは義昭に従ったが、織田方に付いた兄・景隆の説得を受けて降伏した。義昭追放後、信長に仕え兄らと共に佐久間信盛の与力となったと考えられており、信盛追放後に高野山へ信盛を訪ねている記録が残る。
 本能寺の変で信長が横死すると、兄・景隆と共に行動し、明智光秀の降誘を拒絶。瀨田の橋を落とし浦々の川船を隠して、その軍の近江進撃を妨害した。その後、兄らと勝家に与し、賤ヶ岳の戦いの後、羽柴秀吉により景隆が改易されたため、景友も失領した。
 天正12年(1584年)の小牧長久手の戦いでは織田信雄方に属して、佐久間信栄に従って秀吉方の伊勢国峰城を攻めた。しかし程なく天下人に台頭した秀吉の家臣となって、所領を安堵され、後に御伽衆にも加えられた。秀吉の死後は黒田長政らを通じて徳川家康に接近し、度々、その使者として活動。慶長4年(1599年)3月、家康の使いとして病床にあった前田利家を訪問するために大坂に行き、藤堂高虎宅に居候して家康方諸将との連絡役を務めた。
 慶長5年(1600年)、7月の家康の会津遠征に同行。畿内にいた弟・景光には石田三成が挙兵した場合には伏見城の籠城に加わるように指示した。開戦すると先だって伊勢に下向し、福島高晴の軍に加わって長島城の守備に参加した。関ヶ原の戦いの本戦で東軍が勝利したと知ると伊勢長島より関ヶ原に向かうが、途中で長束正家の軍勢に遭遇。追撃する東軍諸将(池田長吉,亀井茲矩)の軍勢に加わってこれと戦い、正家が逃げ込んだ近江水口城の攻略でも功績があった。さらに伊勢桑名城攻略を進言し、九鬼守隆,池田長幸,寺沢正成とこれを攻めた。桑名城では氏家行広・行継兄弟,寺西直次らが籠城したが、東軍が迫ると投降した。神戸城の滝川雄利、亀山城の岡本宗憲は、逃亡・投降したので両城を接収した。また、水口城の落城の際に正家の弟・玄春を捕虜にしたが、玄春は西軍の伏見城攻囲の際に甲賀の士の妻子を磔にしていたので、大津で拝謁した家康の許可を得てこれを斬った。家康は、近江国内で9,000石と伏見城落城で討ち死にした甲賀の士の子孫10騎100卒からなる甲賀組を道阿弥(景友)に与えた。
 同年10月、小野木公郷の籠もる福知山城攻囲に派遣され、降伏開城して城下の浄土寺に蟄居していた公郷を自害させた。この功績により、家康より肩衝の茶入(道阿弥肩衝)を賜り、伏見城の新宮門と邸宅を与えられた。また高野山に籠った京極高次の下山説得にも尽力した。
 慶長8年(1603年)、伏見邸宅に家康が訪れた時、良光の短刀を授けられた。同年10月3日、加増され、常陸古渡1万石の大名となったが、12月20日に死去。享年64(62とも)。婿養子の景本がまだ幼かったので跡を継げず無嗣除封となり、藩は改易となった。跡は甥・景以が養子となって継いだ。
山岡景以
 天正16年(1588年)、豊臣秀次の家臣となり知行3,000石を与えられた。
 文禄4年(1595年)、秀次に扈従して高野山に入り、秀次自害の後は豊臣秀吉の直臣となって仕えた。慶長3年(1598年)の秀吉の死に際しては遺物盛家の刀を賜った。慶長5年(1600年)、徳川家康に拝謁して以後これに仕え、駿府に伺候した。
 慶長8年(1603年)、常陸古渡藩主で、叔父の山岡景友が死去すると、養子の景本は景以の長男だったが、まだ幼く職を継ぐことができなかったので無嗣除封、藩は改易となった。景以は養嗣子となって景友の家を継ぎ、甲賀組を預けられて景友の1万石の内の3,000石を相続した。
 慶長19年(1614年)の大坂冬の陣の家康出陣に供奉し、11月15日、伏見城より出発した際には前駆を務めた。同月27日、永井直勝,水野勝成らに従って野田・福島の斥候となった。同20年(1615年)5月の夏の陣では、松平忠輝の麾下に属して大和路を進み、6日、後藤基次,薄田兼相ら大坂方と交戦し、景以も首級を上げた。7日は忠輝隊の一員であるため、先鋒として戦った。
 秀忠,家光にも仕え、寛永11年(1634年)の家光の上洛にも従い、参内に供奉した。寛永13年(1636年)には甲賀の水口城番を務め、寛永19年(1642年)6月4日、近江水口で死去した。享年69。