SG02:蘇我稲目 | 蘇我石川 ― 蘇我稲目 ― 蘇我倉麻呂 | SG03:蘇我倉麻呂 | ● |
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倉山田石川麻呂 | 蘇我興志 |
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名称は「蘇我倉山田麻呂」「蘇我石川麻呂」などとも。蘇我倉麻呂の子。『藤氏家伝』によると、「剛毅果敢にして、威望亦た高し」と評される傑物であったとされている。 |
大化5年(649年)3月、大和国の山田寺の造営にあたっていた興志は、蘇我日向の讒言により、弟の法師,赤猪らとともに父の石川麻呂が大和国の国境まで逃げて来たのを聞き、今来(高市郡)の大槻で出迎え、先に立って寺に入った。興志は寺づくりの人夫を武装させて、一戦を試みようとした。彼は父に、「私が先に進んで、やって来る軍を迎え防ぎましょう」と言ったが、石川麻呂は許さなかった。それでも納得の行かなかった興志はその夜、小墾田宮を焼こうと思い立って、士卒を集めた。だが翌日、石川麻呂に「お前は命が惜しいか」と尋ねられ、「惜しくはありません」と答えた。そして、「人臣の身で君に逆らい、父への孝心を失ってならない、山田寺は自分自身のためではなく、天皇のために作ったものである、今、日向の讒言で無謀にも殺されようとしている、せめてもの救いは黄泉国でも忠義を忘れないことである、寺へやって来たのは終りの時を安らかにするためである」という父の遺言を聞き、母親や兄弟・妹ら8人とともに、父が山田寺の仏殿で死んだ後を追って、殉死したという。 |
蘇我法師 | 蘇我赤猪 |
大化5年(649年)3月、異母弟の蘇我日向の讒言を受け、孝徳天皇は査問の使者を遣わしたが、石川麻呂は、「直接天皇の御前で陳述したい」と答えた。再度使者を送ったが、同じ返事だった。そこで、天皇は軍隊を派遣して、石川麻呂大臣の家を取り囲もうとした。この時、石川麻呂は、一緒にいた法師と赤猪の2人の子を連れて、茅渟道より大和国の国境まで逃げた、と記されている。翌日、石川麻呂は長男の興志及び山田寺の衆僧に向かって、「山田寺へやって来たのは終りの時を安らかにするためである」といった趣旨の遺言を伝え、自害して亡くなった。石川麻呂の妻及び3人の息子と、一人の娘ら8人が殉死した。 | 大化5年(649年)3月、蘇我日向の讒言により、孝徳天皇は査問の使者を蘇我倉山田石川麻呂は受け入れず、「ご返事は直接天皇の御前で申し上げたい」と答えた。再度使者を送ったが、同じ返事だった。そこで、天皇は軍隊を派遣して、石川麻呂大臣の家を取り囲もうとした。この時、石川麻呂は、法師・赤猪の2人の息子を連れ、茅渟道より大和の国境まで逃げた、と記されている。さらに、翌日、石川麻呂は長男の興志及び山田寺の衆僧に遺言して山田寺の仏殿で自殺し、石川麻呂の妻及び3人の息子と、一人の娘ら8人が殉死した、と『書紀』には記されている。 |
蘇我姪媛 | 蘇我日向 |
天智天皇の妃となり、御名部皇女と阿閇皇女(後の元明天皇)を産む。姉には、同じく天智天皇の妃となった遠智娘がいる。同じ天智天皇の妃となった、蘇我赤兄の娘の常陸娘、天武天皇に嫁いだ大蕤娘姉妹とは従姉妹にあたる。 |
皇極天皇3年(644年)、日向の異母兄であった右大臣・蘇我倉山田石川麻呂の娘と中大兄皇子(後の天智天皇)が婚約した夜に、その娘と密通した。ただしこの件で日向がなにかしらの咎を受けた記録は無い。 |
蘇我連子 | 石川石足 |
『日本書紀』天智天皇紀3年5月条において死亡記事が見られるのが、同時代史料に見える連子の最初で最後の記述である。このときの冠位は大紫で、「蘇我連大臣薨」と書かれていることから斉明天皇や天智天皇の下で大臣を務めていたことがわかる。『扶桑略記』によると、この時右大臣であったとされる。おそらく、斉明4年(658年)あるいは5年(659年)頃に、巨勢徳多か大伴長徳のどちらかの後任となったと考えられ、父祖の占め続けた地位に、蘇我氏として約10年ぶりに上ったことになる。しかし、大臣としての具体的な事績は明らかでない。 |
朱鳥元年(686年)に石川朝臣姓を与えられる。元明朝の和銅元年(708年)正五位上・河内守に叙任される。のち、和銅7年(714年)従四位下、養老3年(719年)従四位上に昇進する。 |
石川年足 | 石川名足 |
少判事を経てしばしば地方官を務めた。勲十二等の勲等を持っていることから、この間に東北地方の地方官を務めていた可能性もある。昇進は遅く、天平7年(735年)に48歳にしてようやく従五位下に叙爵された。まもなく出雲守に任ぜられると、任に就いて数年にして人民は満足し安らかであったことから、天平11年(739年)聖武天皇に善政を讃えられ、絁30疋・布60端・正税3万束を与えられた。 |
天平宝字5年(761年)従五位下・下野守に叙任される。その後、淳仁朝から称徳朝にかけて、伊勢守,備前守,大和守と地方官を歴任する。特に称徳朝後半は陸奥鎮守将軍・陸奥守と蝦夷征討の任にも当たっている。またこの間、天平宝字8年(764年)従五位上、天平神護2年(766年)正五位下、神護景雲元年(767年)には伊治城築城の功労により正五位上と、称徳朝にて順調に昇進している。 |
石川真守 | 石川道益 |
称徳朝の天平神護2年(766年)従五位下・近江介に叙任。のち、右京亮・中務少輔を歴任する。 |
桓武朝の延暦16年(797年)従五位下に叙爵し、但馬介に任ぜられる。延暦20年(801年)遣唐副使に任ぜられる。延暦22年(803年)3月に遣唐使節に対する餞別の宴が行われ、道益は御衣一襲と金150両を与えられる。4月に大使・葛野麻呂と共に節刀を授けられて難波津より出航するが、まもなく暴風雨を受けて遣唐使船が破損して航海が不可能となる。翌延暦23年(804年)7月に最澄らと共に第二船に乗船して唐に渡り、無事に明州に到着する。しかし、病に伏し、延暦24年(805年)長安へ出発できないまま明州で没した。享年43。同年7月に葛野麻呂以下遣唐使節一行が帰国して功労の叙位が行われた際、道益は従四位下を贈られた。 |
石川豊成 | 石川垣守 |
式部大丞等を経て、孝謙朝の天平勝宝6年(754年)従五位下・右少弁に叙任され、同年東山道巡察使に任ぜられる。のち、天平宝字2年(758年)畿内七道に対して問民苦使が派遣された際に、豊成は畿内使となる。同年8月に淳仁天皇の即位に伴って藤原仲麻呂政権下で弁官を務めながら順調に昇進し、同年12月には参議に任ぜられ公卿に列した。また、この間の天平勝宝6年(754年)太皇太后・藤原宮子崩御、天平勝宝8歳(756年)聖武上皇崩御では御装束司を、天平宝字4年(760年)光明皇太后崩御にあたっては前後次第司を務めている。 |
天平勝宝7年(756年)東大寺に対して絵軸20枚を求めたとの記録があり、外嶋院の写経所に出仕していたものと想定される。天平宝字8年(764年)9月に発生した藤原仲麻呂の乱では孝謙上皇側に付いて、乱の最中に正六位上から二階昇進して従五位上に叙せられ、翌年正月には乱の功労により勲六等の叙勲を受けた。のち木工頭を経て、神護景雲4年(770年)7月に正五位下に叙せられ、同8月の称徳天皇の大葬に際して装束司を務めた。 |
石川河主 | 石川清主 |
初め縁あって出家して僧籍にあったが還俗して朝廷に再出仕し、延暦13年(794年)に従五位下に叙爵。以後、木工頭,造宮亮,播磨介等を歴任し、延暦23年(804年)に菅野真道と共に僧綱事務の監督を命じられる。またこの間に従五位上に叙せられている。延暦25年(806年)3月の桓武天皇崩御に際して御装束司を務め、翌月の平城天皇の即位に伴い正五位下に昇叙された。 |
延暦14年(795年)信濃国介在任中に、信濃国小県郡人の久米舎人望足から命中しなかったものの矢を射かけられる。朝廷から捜査のために派遣された衛門佐・大伴是成の尋問を受けて、久米舎人望足は罪状を認め讃岐国への流罪に処された。 |
石川豊人 | 蘇我果安 |
春宮大進兼中務大丞を経て、聖武朝末の天平20年(748年)従五位下に叙爵し、翌天平勝宝元年(749年)孝謙天皇の即位後まもなく少納言に任ぜられる。その後、孝謙朝では主税頭,越中守、淳仁朝では造宮少輔・大輔、称徳朝では刑部少輔を歴任する。この間に発生した多くの政変には巻き込まれずに済んだ一方で、春宮大進として仕えた阿倍内親王(孝謙天皇・称徳天皇)の治世が相当期間あったにもかかわらず豊人の昇進は滞り、天平宝字8年(764年)の従五位上への昇叙に留まっている。 |
天智天皇10年(671年)1月5日に、巨勢人,紀大人と共に御史大夫になった。同日に大友皇子(後の弘文天皇)が太政大臣、蘇我赤兄が左大臣、中臣金が右大臣に任命されており、御史大夫はこれに次ぐ重職であった。 |