<神皇系氏族>天孫系

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酒井忠徳 酒井忠器

 宝暦5年(1755年)10月2日生まれ。既に兄・忠順がいたが、母が正室の為姫(黒田継高の娘)であったため、嫡男となる。明和4年(1767年)、父の死去により跡を継ぐ。しかし藩財政窮乏により、江戸から本国に帰国するとき、その経費すら調達できず涙した、というエピソードが残っている。このため、藩財政再建を目指して豪商・本間光丘を登用して財政改革である「安永御地盤組立」を行った。この改革は節約などを主としたものであり、9万両の借金全てを返還し、逆に1480両の蓄えを築くに至った。
 天明3年(1783年)の天明の大飢饉では餓死者を出さなかった。しかし寛政期頃から藩財政が悪化し始め、10万両の借金を築くに至った。このため、再度の藩政改革を行って農村復興や文武の奨励に尽力し、文化2年(1805年)には藩校・致道館を創設した。文化2年(1805年)9月25日、長男の忠器に家督を譲って隠居し、文化9年(1812年)9月18日に58歳で死去した。
 政治家としてだけではなく、和歌や刀剣鑑定などにも優れていたといわれている。

 文化2年(1805年)9月25日、父の隠居により跡を継ぐ。はじめは家老の竹内八郎右衛門が藩政改革を行う立場にあったため、藩政を主導していたが、文化6年(1809年)に竹内が失脚すると自ら藩政を主導するようになる。忠器は藩財政再建のため、本間光道を登用して養蚕業の振興などを中心とした殖産興業の奨励に務めた。
 天保3年4月22日(1832年5月22日)、忠器は日光廟修復費用3万両を幕府に献納し、その功績により江戸城溜間詰格とされた。天保の大飢饉では、救済に尽力している。天保11年(1840年)11月1日、武蔵川越藩主・松平斉典が庄内藩に転封するとの幕命が下り、越後長岡藩に移封されかけたが、領民の阻止運動などもあって移封の話は取り消された(三方領知替え)。
 天保13年(1842年)4月14日、長男・忠発に家督を譲って隠居し、嘉永7年(1854年)3月20日に65歳で死去した。

酒井忠中 酒井忠寛

 幼少の頃から、絵画を好み学問と武芸に秀でる、文武両道であったといわれている。
 弘化元年(1844年)頃、藩政改革派の庄内藩家老・酒井奥之助,酒井右京,中老松平舎人らは、分家の旗本・酒井忠信を後見役にして忠中を擁立し、藩主・酒井忠発を廃そうと企てるが、忠中が弘化2年(1845年)死去してしまったため、改革派のもくろみは挫折することとなった。鶴岡市内にある墓碑には、「貴賢院殿止斎公子墓」と銘がある。

 安政6年(1860年)12月16日、兄の長男・忠恕の急逝により、嫡子となって叙任する。
 文久元年(1861年)8月6日、兄の隠居により家督を継ぐ。同年12月(1862年)、従四位下に叙任する。文久2年(1862年)9月17日、当時流行していた麻疹が原因で死去した。享年24。正室も側室もなかったため子はなく、家督を甥(兄・忠発の五男)の忠篤が継いだ。

酒井忠篤 酒井忠宝

 文久2年(1862年)、10代藩主の酒井忠寛が死去したため、その養子として跡を継ぐ。幕末期の動乱の中では、譜代大名の中でも有力な名門出身のため、文久3年(1863年)4月15日に新徴組を預けられ、11月には江戸市中取締役に任じられた。元治元年(1864年)8月18日には田川・由利郡など2郡、およそ2万7000石を加増されて17万石の大名となった。
 慶応2年(1866年)、大凶作で減税を求める郡中騒動が起こるが、松平権十郎ら主流派(佐幕派)によって鎮圧された。この功績により藩内で勢力を持った主流派は、慶応3年(1867年)に藩政改革や政治方針で対立していた酒井右京ら公武合体派を逮捕投獄・粛清して、藩論を佐幕派で統一した(大山庄大夫一件、「丁卯の大獄」とも)。そして同年12月25日には薩摩藩江戸屋敷を焼き討ちした(江戸薩摩藩邸の焼討事件)。
 慶応4年(1868年)からの戊辰戦争では、幕府軍が敗れた後も奥羽越列藩同盟の一員として新政府軍と戦う。秋田藩,新庄藩そして新政府軍本体による攻撃をも破り、連戦連勝した。しかし、周辺の幕府派の藩が次々と降伏する事態を受け、ほぼ無敗のまま9月25日に降伏し、9月27日に開城して謹慎を命じられた。12月7日には新政府に反逆したとして、改易に処せられた。後に庄内藩は弟の忠宝が藩主となり、12万石に削減された上で存続を許された。
 明治2年(1869年)9月23日、忠篤は罪を許された。明治3年(1870年)に薩摩に移った。明治4年(1871年)7月に兵部省に出仕し、明治5年(1872年)2月に陸軍少佐に任じられた。同年3月辞任し、4月からは軍制研究のためにドイツに留学し、明治12年(1879年)6月に帰国。その間、明治10年4月、陸軍中尉に任官する。明治13年(1880年)2月、養子・忠宝の隠居により、再び家督を相続した。同年3月、政界から引退した。同年4月、陸軍歩兵中尉を辞任する。明治14年(1881年)に鶴岡へ帰っている。明治17年(1884年)7月に華族令によって伯爵となった。大正4年(1915年)6月6日に死去。享年63。

 戊辰戦争で兄・酒井忠篤が官軍に降伏し、永蟄居処分にされた後、再興を許されて忠宝が藩主に就任した。明治元年(1868年)12月15日に陸奥会津藩、明治2年(1869年)6月15日に陸奥磐城平藩に移封となるが、70万両〔明治政府への嘆願により30万両まで減額されたという文献が存在する〕を献納したため同年7月22日に庄内藩に戻る。
 同年に版籍奉還で知藩事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県で免官。明治13年(1880年)2月、隠居し、養父・忠篤(実兄)に家督を譲る。忠篤の当主復帰ということである。大正10年(1921年)、66歳で死去。忠篤の長男・酒井忠良を養子としている。