<神皇系氏族>天孫系

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酒井忠寛 酒井忠強

 寛文6年(1666年)10月27日、「下馬将軍」として権勢を誇った大老・酒井忠清の3男として生まれる。延宝6年(1678年)に叙任し、天和元年(1681年)、兄の忠挙より2万石を分与されて、支藩である伊勢崎藩を立藩した。見附門番や大坂加番,日光祭礼奉行などを歴任する一方で、藩の家老などの職制や波志江沼や書上原治水工事に尽力するなどして藩政の基礎を固めた。
 元禄16年(1703年)11月8日に死去。享年38。女児しかなかったため、養子の忠告が跡を継いだ。 

 嘉永4年(1851年)4月7日、父の隠居により跡を継いだ。幕末期においては譜代大名として外国船来航に備えての警護役や天狗党の乱鎮圧で貢献している。しかし慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、新政府にいち早く恭順して自ら謹慎することで、協力の姿勢を示した。このため、1000両の資金と500俵の兵糧を献上することで許されている。
 慶応4年(1868年)6月25日、弟(実子とも)の忠彰に家督を譲って隠居する。明治18年(1885年)6月14日に死去。享年51。 

酒井忠彰

 兄で第8代藩主の忠強の養子となり、慶応4年(1868年)6月25日に忠強が隠居したため跡を継いだ。
 明治2年(1869年)6月22日、版籍奉還により知藩事となり、明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県で免官となる。明治17年(1884年)7月に子爵となる。明治23年(1890年)7月10日には貴族院議員となる。明治25年(1892年)7月31日に死去した。
 一説に忠強との年齢差からみて、忠彰は忠強の実子ではないかとも言われている。