<神皇系氏族>天神系

SZ07:鈴木基行  穂積真津 ― 鈴木基行 ― 亀井重清 SZ07:亀井重清

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亀井重清 亀井秀綱

 『吾妻鏡』文治5年(1185年)5月7日条に頼朝の怒りを買った義経が、異心のない証として鎌倉へ起請文を送った使者として亀井六郎の名が見られる。この起請文は、義経がそれまで勝手な振る舞いをしてきて、今になって頼朝の怒りを聞いて初めてこのような使者を送って来たものとして許されず、かえって頼朝の怒りを深める原因になった。
 『源平盛衰記』では一ノ谷の戦いで義経の郎党亀井六郎重清として登場する。『義経記』では義経最期の衣川の戦いで「鈴木三郎重家の弟亀井六郎、生年23」と名乗り、奮戦したのち兄と共に自害した。弓の名人であったという。 
 『続風土記』の「藤白浦旧家、地士鈴木三郎」によると重清は佐々木秀義の6男で、義経の命で鈴木重家と義兄弟の契りを交わしたとされる。鈴木は紀伊国熊野三党の一つで、海南市藤白に鈴木屋敷と伝えられる所がある。

 祖父亀井永綱の代に尼子氏に出仕。祖父と父・亀井安綱は、月山富田城奪取戦に参加し、その功により家老に任ぜられる。 秀綱は、尼子経久に仕え、永正5年(1508年)に経久が大内義興の上洛に従った際にはこれに随行し、永正8年(1511年)の船岡山合戦に参加するなど、家老の一人として活動し、尼子家では父の代から筆頭家老格であったとされる。
 家督相続後、安芸国の毛利氏が幼少の当主・毛利幸松丸の死後、大内氏寄りである毛利元就が当主となり、尼子氏からの離反の動きを見せると、大永4年(1524年)、元就の弟である相合元綱らを教唆しクーデターによる元就打倒を画策したが、失敗に終わっている。これにより元就が寝返ったとされる。また所領問題で不満を持つ経久の子の塩冶興久の説得に失敗し、謀反の原因を作ったともされる。なお、弟の亀井利綱は興久に味方して享禄5年/天文元年(1532年)に討死している。 
 晩年は経久の曾孫尼子義久の代まで仕えて第二次月山富田城の戦いに参加し、そこで杉原盛重に親子共に討たれ死亡したとも、毛利氏に投降したともいうが詳細は不明である。
 最新の研究では、秀綱は寺社を統率する立場にあり、主君の代理として、出雲国内の宗教勢力(杵築大社・鰐淵寺)と密に書状をやり取りし、多くの寺院の創建や修繕に関わっている。現存する書状や棟札などを見ると、秀綱の活動が最後に確認できるのは享禄3年(1530年)の塩冶興久の乱に関連するものであり、それ以降の資料では亀井安綱(兄弟?)の名前が出ており、この前後に家督が安綱に継承されたことが確認できる。一次史料によって確認できる秀綱の実質的な活動範囲はここまでであり、従来通説とされてきた永禄年間頃の活動は、その後継者によって行われたと推測されている。