<皇孫系氏族>敏達天皇後裔

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楠木正遠 楠木俊親

 河内国出身の悪党。ただし「正遠」の名は一次史料には見られず、『尊卑分脈』所収『橘氏系図』等に拠るもので、他系図では「正康」「正玄」などともあり一致しないため、確実ではない。一次史料における河内楠入道を正成の父に比定する説もある。
 20世紀後半から21世紀初頭まで支持されていた学説は、楠木氏が北条得宗家に仕える御内人であったという説である。この説によれば、楠木氏は駿河国入江荘楠木(現在の静岡県静岡市清水区楠)を本貫とし、遅くとも建久元年(1190年)には源頼朝に奉公し御家人となっていたとされた。
 その後、弘安8年(1285年)11月17日に霜月騒動で有力御家人安達泰盛が北条氏に滅ぼされると、安達氏の所領の一つ河内国観心寺も北条得宗家の支配下となった。そして、得宗から地頭職として観心寺に送り込まれたのが楠木正成の先祖であるとされ、このときの楠木氏惣領が正成父か正成祖父かは不明だが、いずれにせよ年代的には正成父はこのとき駿河国から河内国に移ったと考えられていた。しかし、本説は信憑性の欠ける『太平経評判秘伝理尽記』に由来することが判明したため、楠木氏と北条氏の関係は再び不明と言わざるを得ない。
 永仁3年(1295年)1月の東大寺への訴状で、播磨国賀東郡大部荘の前々雑掌である河内楠入道という人物が荘民から非難されており、この人物が正成の父祖もしくは一族と見られ、まさしく悪党として活動していた。河内楠入道は、播磨国大部荘の荘園領主である東大寺に雇われた雑掌であった。永仁2年(1294年)に、讃岐公、宗円房らと共に大部荘で非法行為を行い、「御領衰弊」の状態に至らせたため、雑掌の職を解任された。
 軍記物『太平記』では橘諸兄の子孫で本姓橘氏の土豪とされ、また史実としても嫡子の正成が自筆文で公的に橘正成を名乗っているため、後代の説では橘氏の系図に繋げるものが多い。しかし、橘氏後裔とするのは、正成の代に兵衛尉に任官するために捏造したものと見られている。『尊卑分脈』では、正成父は「正遠」とされ、掃部助である橘盛仲の子で、息子に俊親,正成、正氏がいたとされている。『群書類従』も類似している。『系図纂要』は盛仲の子とし、嘉元2年(1304年)鎌倉で死去したとある。
 歴史的事実である可能性は低いものの、能の大家観阿弥の母方の祖父であるという説もある。

 『尊卑分脈』や『群書類従』など多くの系図で、楠木正成と楠木正季の兄とされる人物だが、系図上のみの存在であり事績に乏しい。仮に実在したとしても、弟の正成が元亨2年(1322年)に執権北条高時の命で、楠木党を率いて戦っているため、この年までには死去または隠居していたと考えられる。
 延元元年/建武3年5月25日(1336年7月4日)、湊川の戦いに参戦して広峰昌俊に討たれた楠木弥四郎(楠木正氏)という武将がいて、楠木正成の甥を名乗っているが、正成弟の正季の子だったという可能性もあるが、正成の長子である正行がまだ参戦可能な年齢になっていなかったことを考慮すれば、年代的には正成兄の俊親の子だった可能性もある。

楠木正成 楠木正行

 元弘の乱(1331~33年)で後醍醐天皇を奉じ、大塔宮護良親王と連携して、千早城の戦いで大規模な幕軍を千早城に引きつけて日本全土で反乱を誘発させることによって、鎌倉幕府打倒に貢献した。また、建武の新政下で、最高政務機関である記録所の寄人に任じられ、足利尊氏らとともに天皇を助けた。延元の乱での尊氏反抗後は、新田義貞,北畠顕家とともに南朝側の軍の一翼を担ったが、湊川の戦いで尊氏の軍に敗れて自害した。建武の元勲の1人。
 南北朝時代,戦国時代,江戸時代を通じて日本史上最大の軍事的天才との評価を一貫して受け、「三徳兼備,「多聞天王の化生」,「日本開闢以来の名将」と称された。
 『太平記』では奇想天外な策と智謀に長けた「不敵」(無敵)の戦術家としての活躍が印象的に描かれるが、それは正成の軍才のごく限定された一面に過ぎず、史実では刀を振るえば電撃戦を得意とし六波羅探題を震撼させた猛将であり、築城,籠城技術を発展させ軽歩兵・ゲリラ戦・情報戦・心理戦を戦に導入した革新的な軍事思想家であり、そして畿内にいながらにして日本列島の戦乱全体を俯瞰・左右した不世出の戦略家だった。

 

 

詳細は、Wikipedia「楠木正成」参照

 生年や幼少期の実態は不明だが、後村上天皇が即位した翌年の延元5年/暦応3年(1340年)から史上に現れ、南朝の河内守,河内守護として河内国を統治した。河内守となって7年間は戦いを一切行わなかったが、これには、主戦派として幕府と十全に戦うために力を蓄えていたのだという『太平記』史観に基づく旧説と、本来は父の正成・末弟の正儀と同様に和平派であり幕府との戦いを好まなかったのではないかという説がある。いずれにせよ、興国5年/康永3年(1344年)初頭、南朝の脳髄である公卿,歴史家・北畠親房が、遠征先の東国から吉野行宮に帰還し、興国7年/貞和2年(1346年)末までに和平派の首魁という説もある左大臣・近衛経忠を失脚させて(藤氏一揆)、准大臣として南朝運営の実権を握ると、正行は、好むと好まざるとに関わらず、幕府との戦いの矢面に立つことになった。
 正平2年/貞和3年8月10日(1347年9月15日)、兵を起こした正行は、寡兵でもって北朝・室町幕府の勇将細川顕氏や山名時氏らの大軍を立て続けに破り、北朝から「不可思議の事なり」と畏怖された。
 しかし、正平3年/貞和4年1月5日(1348年2月4日)、河内国讃良郡野崎から北四条で発生した四條畷の戦いにおいて、幕府の総力に近い兵を動員した高師直と戦い、一時は師直を本陣である野崎から後退させるなど優位に立つも、追った先の北四条で力尽き、弟の正時や従兄弟の和田新発を含めた26人の将校と共に戦死した。弟正時と刺し違えて自害したとされる。また、出陣直前に如意輪堂壁に梓弓の歌を記した話は有名。楠木兄弟の戦死と直後の吉野行宮陥落により、師直と直義との間の政治権力の均衡が崩れ、室町幕府最大の内部抗争である観応の擾乱(1350~52年)が発生することになった。
 史料に乏しく、軍事的能力を高く評価された武将という以外の歴史的人物像は不明瞭である。一方、軍記物語『太平記』(1370年頃完成)の「桜井の別れ」の物語や、川に溺れた敵兵の命を救ったという伝説などが広まったことで、後世には孝子・忠臣・博愛の鑑と見なされるようになった。救敵伝説は、日本赤十字社草創期に広報活動や教育の材料として用いられた。また、明治時代には明治天皇から追悼の勅語を受け、従二位を追贈されて、大阪府四條畷市の四條畷神社の主祭神となった。

楠木正時 和田氏理

 正平3年/貞和4年1月5日(1348年2月4日)、南朝の楠木正行と北朝の高師直の間で、四條畷の戦いが発生。正行と共に弟も戦死した。諱は不明だが、その通称は「次郎」である。
 一次史料から確実にわかるのは以上が全てであり、諱や享年すら不明である。時代が近い二次史料としては、諱は洞院公定『尊卑分脈』から「正時」と確認することができる。
 明治22年(1889年)、四條畷神社が建立され、その祭神の一柱となった。大正3年11月19日贈正四位。

 飛騨国大野郡帰雲城主。天正13年(1585年)佐々成政の要請に応じて越中に出兵した。豊臣秀吉の命を受けた金森長近が飛騨に侵入すると氏理の留守を守っていた川尻備中守が長近に与力したため、急ぎ帰国したが術なく長近に謝罪し帰城を許された。同年11月29日に大地震があり一瞬の内に城は埋没、洪水もあり内ヶ島氏は滅亡した。
和田正季 和田正氏

 元弘3年/正慶2年2月22日(1333年3月8日)から閏2月1日(3月17日)にかけて、上赤坂城の戦いで主将平野将監入道のもと副将として活躍する。
 1336年(建武7年/延元元年)に兄の正成は九州から京都を目指す足利尊氏の軍に対して新田義貞の指揮下で戦うことを命じられ、湊川の戦いで敗北する。そして、兄・正成と共に自害して果てた。敗走して手勢の少なくなった楠木勢73人は民家に駆け込み、六間の客殿に二列に並んで座り十念を唱えながら自害したという。死に際に正成が正季に九界のうちどこに行くことを願うか問うと、正季は「七生マデ只同ジ人間ニ生レテ、朝敵ヲ滅サバヤトコソ存候へ」と答えたという。これはのちの「七生報国」の語の由来になった。
 野口雨情の先祖という伝承もある。

 延元元年/建武3年5月25日(1336年7月4日)、伯父(叔父?)楠木正成のもと湊川の戦いに参戦。足利方の武将で広峯神社大別当の広峰昌俊(広峰長貞)と何合も撃ち合い、昌俊の兜の左右の吹返しを斬るなど善戦したが、ついに昌俊に討たれた。その首は足利軍陸側の大将足利直義のもとにもたらされ、翌26日に首実検で確認完了、同7月に昌俊は軍忠状をしたため高師泰の判を受けた。なお、昌俊の軍忠状では弥四郎という通称しかわからないが、同文書中の『広峰系図』では弥四郎の諱は正氏とされている。
 一次史料で実在が確実であるにも関わらず、『尊卑分脈』版『橘氏系図』、『群書類従』版『橘氏系図』、軍記物『太平記』、いずれにも該当する人物が出てこない謎の多い人物である。また、両『橘氏系図』では「正氏」は正成の弟の名前(つまり正季の別名)とされている。広峰昌俊と高師泰が虚偽の書状を作ったのでなければ、正氏は正成の兄弟で唯一実在が確定している楠木正季の息子ということになる。あるいは、年齢的には、『橘氏系図』で正成,正季の兄で名前以外に業績が全く不明の楠木俊親という人物の息子という可能性もある。

和田賢快

 湊川の戦いで伯父,父らが戦死した後、楠木一門の棟梁となった従兄弟の楠木正行に従い、共に勢力を回復していった。
 楠木一族の中でも武勇の誉れ高く、正行に従い常に参戦している。正平2年(1347年)に紀伊国の隅田一族や河内国の細川顕氏,山名時氏を打ち破った。
 正平3年(1348年)正月、四條畷の戦いで敗れ、正行らが自刃した後、高師直の陣に潜入していたところをかつて味方であった湯浅本宮太郎左衛門に討たれた。討死の際に敵将の首に噛み付き睨んで放さず、本宮太郎左衛門はそれが元で死んだとされており、土地の人々は賢秀の霊のことを歯噛様、転じて歯神様として祭っている。
 四條畷市の墓所石碑には、正面に『和田源秀戦死墓』と刻まれている。