<神皇系氏族>天神系

TC01:磯城彦黒速  磯城彦黒速 ― 十市新次郎 TC03:十市新次郎

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十市遠康 十市遠重

 天授4年/永和4年(1378年)7月28日、春日神人ら、遠康のことに関し黄衣を春日大社鳥居に懸ける。10月9日、遠康らの悪行により、神木金堂前に遷座、これにより神人ら鳥居に懸けた黄衣を取り納める。興福寺別当から十市遠康討伐の要請を受けた3代将軍・足利義満は、天授5年/永和5年(1379年)、斯波義将,土岐頼康らを大和に派遣するが、幕府軍は十市討伐を開始する気配を見せず、義満は十市氏討伐軍の諸将に、京都への帰還を命じる。このことにより神木入洛による訴えを初めて失敗に終わらせて興福寺に大打撃を与えた。
 元中元年/至徳元年(1384年)、結崎出身の曹洞宗の僧・了堂真覚を鹿児島から呼び戻し、十市城の北方の磯城郡田原本町味間集落にある光蓮寺(律宗)を改宗し、補巌寺を十市家の菩提寺として開山する。能の確立者で大和猿楽結崎座の世阿弥ゆかりの寺としても知られる。後に佐渡国の流罪を解かれ、世阿弥夫妻は当寺に共に帰依し、それぞれ至翁禅門,寿椿禅尼と呼ばれ寺に田地一段ずつを寄進している。能帳には至翁禅門の記述があり、嘉吉3年(1443年)8月8日に世阿弥が終焉したことが分かった。

 応永10年(1403年)、十市遠重は越智家高とともに北朝方の高田某と戦っている。応永13年、大和南朝方の蠢動に手を焼いた幕府は、畠山満家,赤松義則らを大和に発向させた。十市城を攻略した幕府は、十市氏の所領を没収すると興福寺に寄進してしまった。しかし、所領はのちに改めて幕府から十市氏に還付されている。
十市遠栄 十市遠清
 永享元年(1429年)7月、豊田中坊と井戸氏の抗争が引き金となって大和永享の乱が起こった。当時、大和は北和の筒井氏と南和の越智氏とが対立関係にあり、筒井氏は縁故関係にある井戸氏を応援し、越智氏は豊田中坊に味方した。大和国衆は筒井派と越智派に二分されて、各地で戦いが繰り返された。ときの十市の惣領遠栄はそれまでの越智方の立場を改めて、幕府方の筒井氏とともに井戸氏に味方した。そして同12年、何故か遠栄は楢原氏の館で自害している。当時、将軍足利義教による専制恐怖政治下にあり、守護大名をはじめ公家・僧侶らが粛清の波にさらされた。十市氏も義教による粛清の犠牲になったものと思われ、十市氏は一時断絶という形になった。

 嘉吉2年(1442年)、幕府管領・畠山持国の取り成しで、加賀寿丸が十市氏の家督を継いで遠清と名乗った。 遠清は播磨守を称し、興福寺に重用され寛正2年(1461)には羽津黒井・草川両庄の検断職に任じられ、着実に勢力を挽回していった。はじめ遠清は興福寺に忠勤を励んだが、やがて寛正3年、寺領を押領したり、巻向山の樹林を伐採するなどして幕府に訴えられ厳密な訊問を受けている。これは、式上郡における支配圏拡大のために起こしたものと思われ、ひとり十市氏に限らず、興福寺の衰退につけこんだ大和武士の実態でもあった。
 このころ、幕府管領をつとめた畠山持国の後継の座をめぐって、実子・義就と養子・弥三郎(その死後は弟の政長が継ぐ)との間で内訌が展開されていた。畠山氏の内訌は、大和にも影響を及ぼし、越智党は義就方に、筒井氏は弥三郎に味方して抗争が繰り返された。文正元年(1466)、遠清は筒井順永と越智家栄の対立を和解させることに尽力、大和は一時の小康をえた、しかし、両畠山氏の抗争は将軍家の後嗣問題と相まって泥沼化し、ついに応仁元年(1467)、両者は京都御霊神社で激突、応仁の乱が勃発した。
 応仁の乱に際して、遠清は筒井氏らとともにおおむね東軍に属して行動したが、両方加担衆とも呼ばれる日和見的な立場もとっていたようだ。
 応仁3年、長柄氏と福智堂氏の抗争が起こると、十市氏は長柄氏に味方したが、争いは筒井・古市氏ら国衆のほとんどが出陣するという事態になった。文明2年(1470)、東軍方が頽勢に陥ると、筒井・箸尾・楢原・十市氏らはそれぞれ居城で正涯するかと噂されたが、ほどなく復活、河内に出陣している。翌3年、楊本城を攻めた遠清は範満父子を殺害すると楊本庄を押領、のちに龍王山城を築くもとをつくった。さらに、弟に遠勝を八田氏に入れるなど着実に勢力を広げていった。
 文明7年、西軍方の大内政弘が相楽郡に出兵してくると、筒井・十市氏らは木津方面において応戦した。つづいて、春日社前において古市・越智氏らと戦い、これを討ち破っている。しかし、筒井氏が万歳氏に敗れ、また、十市氏も吐田氏と戦って敗れるなど、大和の東西合戦はそれぞれに勝敗があった。やがて、遠清の3男・兵庫遠為が西軍に通じたことから、遠清と嫡男の遠相は遠為を討とうとしたが、かえって畠山義就の支援を得た遠為方に敗れて、十市から逃れる結果となった。そして、知行地は越智氏に奪われ、十市氏は大きく勢力を後退させることになった。以後、十市氏は勢力回復を試みたが、筒井氏とともに東山内に逼塞する事態が続き、大和は越智党優勢の時代が続いた。

十市遠相 十市遠治

 文明9年(1477年)、応仁の乱は京を焼け野原として終息したが、大和は筒井党と越智党の抗争が繰り返された。13年、遠相は筒井順尊・箸尾為国らとともに所領の回復を図ったがならず、なおも雌伏が続いた。翌14年、細川政元・畠山政長らに応じて山城に出陣したが果たさず、15年には戒重氏と戦った。そのようななかで、箸尾氏が越智党に寝返ったため、遠相は東山内に奔った。以後、遠清・遠相は牢人となり、所領回復のために四苦八苦するが、旧領回復の道は遠かった。
 そして、長享元年(1487年)に遠相が死去、十市氏は大きな痛手を受けた。遠清は若輩の孫を援けて、筒井党の一員として戦った。やがて、畠山義就が死去したことで政長方が優勢となり筒井党も陽の目を見るかと思われた。ところが、明応2年(1493年)、河内出陣中の政長が細川政元のクーデタによって戦死、筒井党は劣勢に追い込まれ、十市遠清は孫とともに宇多郡に逃れた。かくして、2年後の明応4年、戦乱に翻弄された遠清が死去、その2年後には孫某も山城賀茂において過労死してしまった。
 文字通り、十市氏は八方塞がりとでもいうべき苦難の時代にあった。十市某の死後、その弟で遠相の二男新次郎が家督を継いで遠治を名乗り、森本右京亮の輔弼を得て勢力の回復を目指した。

 明応6年(1497年)、政長の子・尚順が河内に出陣、義就の子義豊が拠る高屋城を攻略すると、大和は筒井党が優勢となり十市氏も宿願の旧領復帰を果たした。以後、遠治は着実に勢力を回復し復活をとげる。
 打ち続く戦乱は十市氏ら国人衆はもとより、一般民衆にも多大な犠牲をもたらしていた。そんな中、国人衆の間に和議の機運が高まった。ついに永正2年(1505年)、春日社に起請文を捧げて和睦の誓いが固められた。その主要メンバーは、筒井,越智,箸尾,布施、そして十市新次郎遠治の5人であった。つかの間の平穏が訪れたのであった。
 ところが同年暮れ、畠山尚順を討たんとする細川政元は、家臣赤沢宗益を大将とする軍勢を大和を通って河内に出撃させようとした。対して大和国人衆は一揆体制をもって拒否したものの、翌年には宗益軍に敗れて遠治は多武峰に逃れ、さらに東山内に奔るという結果となった。永正4年、細川政元が養子の澄之に殺害され、丹後出陣中の宗益は事件のあおりをくって戦死した。細川氏の家督は澄之を倒した澄元が継承したが、以後、畿内は細川氏の内訌に揺れることになる。
 細川澄元の家臣赤沢長経が大和に出兵、大和国衆は団結してこれにあたったが敗戦、筒井,越智氏は没落、遠治は遠く河内に奔った。翌年、長経が畠山尚順と戦って敗死すると、大和国衆は自領に復帰、十市氏も所領を回復することができた。

十市遠忠 十市遠勝

 遠忠の時代にさらに飛躍を遂げることになる。国衆は一揆体制を結んだものの、再び筒井党と越智党の争いとなった。享禄元年(1528年)、木澤長政が大和に侵攻してくると、筒井順昭は木澤氏に通じたため、遠忠は多年の筒井党の立場を変じて、木澤・筒井連合軍と戦うようになった。そして、次第に支配地を拡大し、十市郡をはじめ式上・山辺郡から伊賀にまで勢力は及ぶまでになった。さらに、龍王山城を築き、そこを拠点として木澤・筒井氏らと対峙した。天文11年(1542年)、木澤長政が河内で戦死すると、それに乗じた遠忠はいよいよ威勢を振るうようになった。
 かくして、十市氏は最盛期を迎え、その所領はのちの石高に換算して六万石に相当したという。十市氏歴代中の英主・遠忠は武勇だけではなく、歌道,書道にも通じた文武両道の武将であった。しかし、天文14年(1545年)、49歳という年齢で病死してしまった。当時、大和の覇者に飛躍する存在であっただけに、天命に恵まれなかったというしかない、遠忠の死であった。

 遠忠のあとは遠勝が継いだが、いまだ若年であり、筒井氏の巻き返しによって窮地に追い込まれていくことになる。さらに永禄2年(1559年)になると、三好長慶の重臣・松永久秀が大和に侵攻、遠勝は松永氏の傘下に走って所領の安泰を計った。長慶の死後、久秀は三好三人衆と争うようになり、永禄10年(1567年)、大仏殿に籠る三人衆を久秀は焼き討ちにした。しかし、三人衆が勢力を回復、筒井氏や宇陀郡の秋山氏がこれに通じると、遠勝は三人衆方に走った。これがもとで、のちに十市氏は筒井派と松永派に分裂することになる。

 敗れた久秀は勢力を失ったが、翌11年、上洛してきた織田信長に服することでふたたび勢いを盛りかえすと大和の経略を押し進めた。さきに筒井派に与した秋山氏は久秀に通じ、遠勝の拠る龍王山城を攻撃してきた。劣勢に追い込まれた遠勝は龍王山城を捨て、十市平城に拠るようになった。松永氏の勢力はいよいよ拡大、筒井,十市,豊田氏らの拠点は次々と攻略され、遠勝はふたたび松永方に転じた。しかし、12年、俄かに病をえて急逝、男子がなかったため十市氏の嫡流は断絶となってしまった。

十市遠長 十市新二郎

 十市氏の一族だが、当主の遠勝との関係は不明。永禄12年(1569年)に遠勝が死去すると、十市氏を代表する立場となり、遠勝の代に引き続き松永久秀に従った。元亀2年(1571年)8月、松永氏と敵対する筒井氏方の箸尾氏,越智氏により十市郷を侵害され、12月には筒井順慶に十市城を包囲された。

 この頃、十市氏は十市後室(遠勝の妻)方と遠長方とに分かれて対立していたが、元亀3年(1572年)3月、両者は和睦した。

 元亀3年(1572年)に松永久秀が織田信長と敵対すると、遠長は松永方から離れたとみられる。翌天正元年(1573年)、久秀が信長に降り、天正2年(1574年)、筒井順慶も岐阜に赴き信長と関係を深めている。同年2月、遠長は九条城(奈良県天理市)を攻略。次いで内膳城(橿原市)を攻め、城主・藤田左近を討ち取っている。3月には多聞山城に入った柴田勝家とともに上洛し、信長に拝謁した。同年11月、森屋氏,筒井氏との三家同盟を成立させる。

 天正3年(1575年)3月、塙直政が大和守護に任じられたが、翌4月、十市郷は直政,松永久通,十市氏で三分割され、十市氏分は遠長と十市後室で半分ずつ知行することになる。同年7月、松永久通とおなへ(遠勝の娘)が婚儀を挙げ、11月、久通は十市城の遠長を攻めた。翌天正4年(1576年)3月、久通に再び攻められ十市城は開城し、遠長は河内国へと逃れた。遠長の消息はこれからしばらく見えないが、天正8年(1580年)11月に奈良にいることが『多聞院日記』から分かる。天正9年(1581年)には信長による伊賀攻めに加わり筒井順慶のもとで活躍、天正10月(1582年)には甲州征伐に従軍した。

 天正13年(1585年)閏8月に筒井定次が伊賀へと転封になるとこれには従わず、郡山城に入った羽柴秀長に仕えたとみられる。この後、天正14年(1586年)10月の十市郷侍衆払により十市郷を追われ、伊予に渡ったと考えられる。その後、伊予で病を患い、文禄2年(1593年)9月18日に死去した。

 

 

 布施氏出身で、はじめ布施二郎と名乗った。十市氏では、永禄12年(1569年)に十市遠勝が死去すると、十市後室(遠勝の妻)が家督を相続し、その下で十市遠長が一族を束ねる体制となっていた。遠勝の死後、家中は松永派と筒井派に分かれ、まとまっていなかったとされる。天正3年(1575年)7月、遠勝の娘のおなへが松永久通に嫁いだが、天正5年(1577年)、松永氏は織田信長に背いて滅亡し、おなへは十市後室のもとへと戻っていた。また、天正3年(1575年)5月、十市氏の知行は十市郷の三分の一に減じられており、そのうち半分を領した十市遠長が天正4年(1576年)に追放された結果、十市氏の給分は旧領の六分の一となっていた。天正6年(1578年)9月の指出検地では、十市後室分として1,350石が挙げられている。

 天正7年(1579年)2月、正嫡のいなかった十市氏に布施二郎が養子として迎えられ、十市新二郎と名を改めた二郎は、おなへと婚姻し、十市氏の家督を継いだ。

 布施氏は、布施左京進が筒井順慶の姉妹を妻としており、筒井氏の親類衆であった。十市氏に入った新二郎も家督相続のあいさつを初めに筒井順慶にしており、筒井氏の親類衆という立場にあったとみられる。

 天正8年(1580年)12月、おなへとの間に第一子となる女子が生まれ、天正10年(1582年)6月に嫡男が誕生している。天正13年(1585年)には次男・藤満が生まれ、文禄3年(1594年)、10歳になった藤満は蓮成院に入寺している。

 天正12年(1584年)8月に筒井順慶が死去し、養子の定次が跡を継いだ。同年10月に行われた順慶の葬儀で、新二郎は天蓋役を務めており、筒井氏の親類衆でも中心的な地位を占めていたとみられる。

 翌天正13年(1585年)閏8月、筒井定次は伊賀へと転封となり、新二郎はそれに従って伊賀へ移った。

 天正15年(1587年)2月、豊臣秀吉の島津攻めに従って主君・定次が出陣した際、新二郎は城番を務めた。

 慶長13年(1608年)、筒井定次は改易となり、新二郎は浪人となる。この後の新二郎については不明だが、一説では帰農し上田氏を称したとされる。