徳川家

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徳川家光 徳川家綱

 江戸城西の丸に生まれる。誕生に伴い、明智光秀家臣・斎藤利三の娘である福(後の春日局)が乳母となり、稲葉正勝,松平信綱らの小姓が付けられる。
 『武野燭談』に拠れば、秀忠らは忠長を寵愛しており、竹千代廃嫡の危機を感じた福は駿府の家康に実情を訴え、憂慮した祖父・家康が長幼の序を明確にし、家光の世継決定が確定したと言われる。これらは家光死後に成立した巷説であるが、同時代史料の検討から、家光の世継決定は元和年間であると考えられている。
 元和2年(1616年)の家康が死去で延期されていた元服は元和6年(1620年)に済ませ、竹千代から家光に改め、従三位権大納言に任官する。家光の名乗りは崇伝の選定。
 元和9年(1623年)6月には父・秀忠とともに上洛し、7月27日に伏見城で将軍宣下を受け、正二位内大臣となる。後水尾天皇や入内した妹和子とも対面している。江戸へ戻ると、秀忠は江戸城西の丸に隠居し、家光は本丸へ移る。家光の結婚相手としては黒田長政の娘との噂もあったが、元和9年(1623年)8月には摂家鷹司家から鷹司孝子が江戸へ下り、同年12月には正式に輿入れする。秀忠は大御所として軍事指揮権等の政治的実権は掌握し続け、幕政は本丸年寄と西の丸年寄の合議による二元政治のもとに置かれた。
 寛永9年(1632年)1月に秀忠が死去すると二元政治は解消され、将軍から公方として親政を始める。旗本を中心とする直轄軍の再編に着手し、同年5月には外様系大名を招集し、肥後熊本藩主・加藤忠広の改易を命じている。老中,若年寄,奉行,大目付の制を定め、現職将軍を最高権力者とする幕府機構を確立した。諸士法度の制定。武家諸法度の改訂では、大名に参勤交代を義務づける規定を加える。対外的には長崎貿易の利益独占目的から、貿易統制並びにキリシタン弾圧を強化し、寛永14年(1637年)の島原の乱を経て寛永18年(1641年)までに鎖国体制を完成させた。これらの家光の代までに取られた江戸幕府の一連の強権政策は「武断政治」と言われる。
 慶安3年(1650年)に病気となり、諸儀礼を家綱に代行させ、翌年4月に江戸城内で死去する。享年48。家光の死に際しては、堀田正盛や阿部重次らが殉死している。
遺骸は遺言により東叡寛永寺に移され、日光の輪王寺に葬られた。同年5月には正一位・太政大臣が追贈され、大猷院に定められた。翌承応元年(1653年)には大猷院廟が造営される。

 

詳細はWikipedia(徳川家光)参照  

 

 父の家光は、生まれた時から家綱を自らの後継ぎに決めていたという。その理由は、家光と弟の忠長との間で世継争いがあったためとも、ようやく生まれた待望の男児だったためともいわれている。
 慶安4年(1651年)4月20日、家光が薨去すると、家綱は8月18日(10月2日)、江戸城において将軍宣下を受けて第4代将軍に就任し、内大臣に任じられた。幼年で将軍職に就いたことにより、将軍世襲制が磐石なものであることを全国に示した。この前例を受け、家綱以後(徳川慶喜を除く)の将軍宣下は京都ではなく、江戸で行われることとなる。
 将軍家を継承した時は僅か11歳に過ぎなかったため、家光死去の直後に浪人の由井正雪や丸橋忠弥らによる討幕未遂事件(慶安の変)が起こるなどして政情不安に見舞われた。しかし叔父の保科正之や家光時代からの大老酒井忠勝、老中の松平信綱、阿部忠秋、酒井忠清ら寛永の遺老といわれる名臣の補佐により、この危難を乗り越えた。このため、以後は29年間にわたる安定政権をみた。また、後に父の乳母・春日局の孫・稲葉正則や側衆の久世広之と土屋数直も幕閣に加わった。
 家綱の時代には幕府機構の整備がさらに進められた。特に保科正之を主導者にして外様大名などに一定の配慮を行ない、末期養子の禁を緩和し、大名証人制度の廃止や殉死禁止令が出されるなど、これまでの武力に頼った武断政治から文治政治への政策切り替えが行われた。
 寛永の遺老と呼ばれた面々は、寛文年間に入ると相次いで死去したり、老齢で表舞台から隠退するなどした。このため、彼らに代わって寛文6年(1666年)には酒井忠清が大老に就任し、治世後半の寛文・延宝期には忠清の主導の下、老中合議制と家綱自身の上意により幕政が運営された。治世後半には家光期に起こった寛永の大飢饉の反省から飢饉対策として農政に重点が置かれ、宗門改の徹底と全国への宗門人別改帳の作成命令や諸国巡見使の派遣、諸国山川掟の制定、河村瑞賢に命じて東廻り航路,西廻り航路を開拓させるなど全国的な流通,経済政策が展開され、『本朝通鑑』編纂などの文化事業も行われた。また、家綱期には幕府職制の整備が完成され、幕朝関係も安定し、対外的には蝦夷地でのシャクシャイン蜂起などが起こっているが、家光期以来の鎖国政策が堅持された。この時期には伊達騒動や越後騒動など大名家のお家騒動も発生している。
 側室のお振、お満流は家綱の子を懐妊したが、死産または流産であった。加えて家綱自身は生まれつき体が弱く病弱で、30半ばに至っても男子がなかったため将軍継嗣問題が憂慮されていたが、延宝8年(1680年)5月初旬に病に倒れ、危篤状態に陥った家綱は、堀田正俊の勧めを受けて末弟の館林藩主・松平綱吉を養子に迎えて将軍後嗣とし、直後の5月8日に死去した。享年40。

 

徳川綱吉 徳川徳松

 江戸城に生まれる。慶安4年(1651年)4月、近江,美濃,信濃,駿河,上野から15万石を拝領し家臣団を付けられる。承応2年(1653年)に元服し、従三位中将に叙任。将軍家綱から偏諱を受け名を「綱吉」と改め、館林藩主時代は松平姓を名乗る。
 寛文元年(1661年)8月には、上野国館林藩主として城持ちとなったことで所領は25万石となる(館林徳川家)が創設12月には参議に叙任され、この頃「館林宰相」と通称される。
 延宝8年(1680年)5月、将軍家綱に継嗣がなかったことからその養嗣子として江戸城二の丸に迎えられ、同月家綱が40歳で死去したために将軍宣下を受け内大臣となる。
 綱吉は大老・堀田正俊を片腕に、諸藩の政治を監査するなどして積極的な政治に乗り出し、家綱時代に没落した将軍権威の向上に努めた。また幕府の会計監査のために勘定吟味役を設置して、有能な小身旗本の登用をねらった。荻原重秀もここから登用されている。また外様大名からも一部幕閣への登用がみられる。
 また戦国の殺伐とした気風を排除して徳を重んずる文治政治を推進。これは父家光が綱吉に儒学を叩き込んだことに影響している。綱吉は林信篤をしばしば召しては経書の討論を行い、学問の中心地として湯島大聖堂を建立するなどたいへん学問好きな将軍であった。儒学の影響で歴代将軍の中でももっとも尊皇心が厚かった将軍としても知られ、御料(皇室領)を1万石から3万石に増額して献上し、また大和国と河内国一帯の御陵を調査のうえに修復が必要なものに巨額な資金をかけて計66陵を修復させた。公家達の所領についても概ね綱吉時代に倍増している。
また、のちに赤穂藩主浅野長矩を大名としては異例の即日切腹に処したのも朝廷との儀式を台無しにされたことへの綱吉の激怒が大きな原因であったようだ。綱吉のこうした儒学を重んじる姿勢は、新井白石,室鳩巣,荻生徂徠,雨森芳洲,山鹿素行らの学者を輩出するきっかけにもなり、この時代、儒学が隆盛を極めた。綱吉の治世の前半は基本的には善政として天和の治と称えられている。
しかしながら貞享元年(1684年)、堀田正俊が若年寄稲葉正休に刺殺されると、綱吉は以後大老を置かず側用人の牧野成貞,柳沢吉保らを重用して老中などを遠ざけるようになった。また綱吉は儒学の孝に影響されて、母・桂昌院に従一位という前例のない高官を朝廷より賜るなど特別な処遇をした。
 この頃から生類憐れみの令をはじめとする後世に“悪政”といわれる政治を次々と行うようになった(生類憐れみの令を過酷な悪法とする説は、近年再考されつつある)。勘定奉行・荻原重秀の献策による貨幣の改鋳も時期をやや逸していたこともありかえって経済を混乱させている。
 嫡男の徳松が死去した後の将軍後継問題では、娘の鶴姫を嫁がせていた御三家の紀州徳川家の徳川綱教が候補に上がったが徳川光圀が反対したという説もある。宝永元年(1704年)、6代将軍は甥で甲斐国甲府藩の徳川家宣(綱豊)に決定する。綱吉は宝永6年(1709年)に成人麻しんにより死去、享年63。墓所は東京都台東区上野桜木一丁目の寛永寺。
 のちの将軍・徳川吉宗は天和の治を行った綱吉に対して敬愛の念を抱き、吉宗の享保の改革の中にもその影響がみられるといわれている。

 江戸幕府第5代将軍徳川綱吉の長男。母は小谷正元の娘伝(瑞春院)。延宝8年(1680年)5月、父が伯父の4代将軍徳川家綱の継嗣となったため、2歳で家督(館林徳川家)を継いだ。11月27日、神田の父の屋敷から江戸城西の丸に移り、神田邸の家臣団も付き従った。他に松平忠冬,堀田正英,内藤重頼,黒田直邦,岡田俊陳,稲垣重定,本庄宗資,堀田正休,川勝隆尚らが徳松に仕え、老中・板倉重種も徳松付の西の丸老中を兼ねた。
 しかし天和3年(1683年)、僅か5歳で夭折した。墓所は東京都港区の増上寺。
 「七五三」の祝いは、天和元年(1681年)11月15日に徳松の健康を願ったのが始まりだとされる。

徳川家宣 徳川家継

 父が正室を娶る直前の19歳の時に、身分の低い26歳の女中に生ませた子であったため、世間を憚って家臣の新見正信に預けられ、養子として新見左近を名乗った。生母は寛文4年(1664年)に死去している。
 9歳のとき、他の男子に恵まれなかった綱重の世嗣として呼び戻され、元服して伯父である4代将軍・徳川家綱の偏諱を受けて綱豊と名乗り、延宝6年(1678年)10月25日に父の綱重は死去し、17歳で家督を継承し祖母・順性院に育てられた。
 延宝8年(1680年)、家綱が重態となった際には、家綱に男子がなかったことから綱重の弟に当たる上野館林藩主・徳川綱吉とともに第5代将軍の有力候補であったが、堀田正俊が家光に血が近い綱吉を強力に将軍に推したため、綱豊の将軍就任はならなかった。
綱吉にも世嗣がいなかったが、綱吉娘婿の徳川綱教も後継候補だったため、綱教の死後、将軍世嗣として家宣と改名して江戸城西の丸に入ったのは、家宣が43歳の時だった。なお、綱豊の将軍後継に伴い甲府徳川家は絶家となり、家臣団も幕臣として編制されている。
 宝永6年(1709年)、綱吉が亡くなり、48歳で第6代将軍に就任すると、悪評の高かった生類憐れみの令や酒税を廃止するなど気概を示したため、庶民からの人気と期待は高かった。柳沢吉保を免職し、甲府徳川家旧臣である間部詮房,新井白石らを登用して文治政治を推進し、荻原重秀に命じて財政改革を試みたが、在職3年後の正徳2年10月14日(1712年11月12日)に死去。享年51(満50歳没)。墓所:東京都港区の三縁山広度院増上寺。後を子の徳川家継が継いだ。家宣と次代将軍・徳川家継の治世を、併せて正徳の治(正徳の政治)という。

 第6代将軍・徳川家宣の4男。母は側室で浅草唯念寺住職の娘・お喜代(月光院)。一時期、世良田鍋松と呼ばれていた。婚約者は霊元天皇の皇女・八十宮。史上最年少で任官し、また史上最年少で死去した征夷大将軍である。家宣の子は病弱で、みな早世し、鍋松だけが生き残った。
 正徳2年(1712年)、父・家宣は病に倒れると、新井白石と間部詮房を呼び寄せて、「次期将軍は尾張の徳川吉通にせよ。鍋松の処遇は吉通に任せよ」と「鍋松を将軍にして、吉通を鍋松の世子として政務を代行せよ」の2案を遺言したという。また一説に、「鍋松の成長が見込めなかった場合は、吉通の子・五郎太か徳川吉宗の嫡男・長福丸を養子として、吉通か吉宗に後見させよ」と遺言したともいう。白石は尾張からやって来る家臣と幕臣との間で争いを避け、鍋松の擁立を推進した。
 幕府の要請を受けた霊元上皇が「家継」の名字書出を記した宸翰を授け、同時に正二位権大納言に任じる消息宣下も授けた。家継は徳川将軍唯一の朝廷(院)から諱を与えられた将軍となった。正徳3年(1713年)3月25日に元服の儀式が行われ、4月2日、家継は将軍宣下を受けて第7代将軍に就任した。
 家継は詮房や白石とともに、家宣の遺志を継ぎ、正徳の改革を続行した。この間、幕政は幼少の家継に代わって生母・月光院や側用人の詮房、顧問格だった白石らが主導している。真偽はともかくとして、若く美しい未亡人だった月光院と独身の詮房の間には醜聞の風評が絶えず、正徳4年(1714年)には大奥を舞台とした江島生島事件が起こっている。
 家継自身は白石より帝王学の教育を受け、白石も利発で聞き訳が良いとその才覚を認めていた。しかし幕政においては白石と詮房は次第に幕閣老中たちの巻き返しに押され気味となり、政局運営はなかなか思うようにはいかなくなっていった。
 正徳5年(1715年)9月、名付け親でもある霊元法皇(正徳3年に落飾)は、2歳の皇女・八十宮を家継に降嫁させることを決めたが、正徳6年(1716年)3月、家継は病の床に臥し、4月30日に死去した。死因は風邪の悪化による急性肺炎説が有力。享年8(満6歳没)。

徳川綱重

 母・夏が綱重を身ごもった際、家光は厄年にあたっており、災厄を避けるために姉の天樹院を養母とした。家光が亡くなる直前の1651年(慶安4年)4月、甲府藩15万石に封じられ、江戸・桜田の屋敷に住んだ。所領は甲斐国・武蔵国・信濃国・駿河国・近江国に散在した。その後、参議に補任がなされ、その唐名から甲府宰相の異名で呼ばれる。
 1654年(承応3年)、別邸・甲府浜屋敷(後の浜離宮)が建築される。1661年(寛文元年)、10万石加増され、計25万石を領した。1662年(寛文2年)、長男・虎松(のちの家宣)が誕生した。1678年(延宝6年)、兄・家綱に先立って35歳で死去した。墓所は東京都港区増上寺。
 弟・綱吉が後に第5代将軍となったが、子がなかったため、綱重の長男・綱豊が綱吉の養子となり、家宣と改名して第6代将軍となった。