<神皇系氏族>天孫系

YG01:柳生永家  土師身臣 ― 菅原古人 ― 菅原道真 ― 柳生永家 ― 柳生家厳 YG02:柳生家厳

リンク YG03
柳生家厳 柳生宗厳

 天文5年(1536年)、畠山氏重臣の木沢長政が信貴山に城を構え、大和国攻略に乗り出す。家厳は長政に従い、筒井氏や二木氏らと戦った。しかし、木沢長政は管領細川晴元,三好長慶と対立し、天文11年(1542年)に河内太平寺の戦いで敗死すると、筒井順昭は木沢残党を次々と攻略し、柳生氏の居城である子柳生城も攻められた。家厳は筒井氏に降伏、臣従し家名の存続を図った。その後大和に三好長慶の重臣・松永久秀が進出すると松永久秀に寝返り、大和攻略戦で活躍する。
 その後、三好長慶が死去すると松永久秀と対立した三好一族や筒井順昭らが衝突し、合戦となる(東大寺大仏殿の戦い)。家厳は久秀方に付き、東大寺大仏殿もこのとき焼け落ちた。松永久秀が織田信長に従属し大和に攻めこんだときにも久秀に属して筒井順慶を攻めた。後に筒井氏も信長に降り、大和の戦乱は収まった。家厳はこの直後、家督を宗厳に譲り、隠遁した。
 ちなみに、子の柳生宗厳は家厳が31歳を数えたときの子と伝わっている。この時、家厳はすでに壮齢の年代であったが、この時期の動静は不明である。

 はじめ筒井順慶に仕え、後に松永久秀の家臣となって頭角を表すも松永氏が滅亡したこともあって武将としては不遇に終わる。一方で上泉信綱より伝授された新陰流の剣豪として名高く、徳川家康の師範に招かれ、息子宗矩を推挙したことで柳生家繁栄の切っ掛けを作った。宗厳本人は生涯自身の流派を新陰流と名乗ったが、柳生流(柳生新陰流)の流祖に位置づけられることもある。
 永禄6年(1563年)宗厳34歳の時、新陰流流祖として名高い兵法家・上泉信綱とその門弟の一行が上洛の途上で奈良に立ち寄ると、信綱を訪ねてその門弟となる。入門に際し信綱の弟子の鈴木意伯と立ち合うが信綱が編み出した新陰流に完敗した宗厳は、己の未熟さを悟って即座に弟子入りし、信綱を柳生庄に招いてその剣を学んだ。翌永禄7年(1564年)、信綱は「無刀取り」の公案を宗厳に託して柳生庄を離れ、京にのぼる。永禄8年4月に再び信綱が意伯と共に柳生庄を訪れると、宗厳は信綱に自ら工夫した無刀取りを披露して信綱より『一国一人印可』を授かり、さらに翌永禄9年(1565年)には三度柳生庄を訪れた信綱より『新影流目録』を与えられたという。
 文禄3年(1594年)5月、豊前国の黒田長政の取成しで徳川家康に招かれ、家康本人を相手に無刀取りの術技を示す。家康はその場で宗厳に入門の誓詞を提出し、二百石の俸禄を給した。この時宗厳は5男の柳生宗矩を推挙したと『柳生家史話』では伝えている。
 慶長8年(1603年)、熊本藩主・加藤清正の要請に応えて、長子・厳勝の子の柳生利厳を加藤家に仕官させる。宗厳は旅立つ利厳に『新陰流兵法目録事』を与えると共に、利厳の気性を案じ、利厳が死罪に相当する罪を犯しても3度までは許すように清正に願い出たという。しかし利厳は、出仕後1年足らずで同僚と争った末にこれを斬り、加藤家を致仕して廻国修行の旅に出た。翌年の慶長9年(1604年)、旅先の利厳に皆伝印可状を送り、利厳が柳生庄に帰還した際には、自筆の目録『没慈味手段口伝書』に大太刀一振りと上泉信綱から与えられた印可状・目録の一切を併せて授与した。
 慶長11年(1606年)2月、戦傷で身体に障害があったともされる長子・厳勝に『没慈味手段口伝書』と皆伝印可を授けた。続いて宗矩も江戸から呼び寄せ、皆伝印可を与えたともいう。その年の4月19日、柳生庄にて死去。享年78。奈良市の中宮寺に葬られるが、後に宗矩が柳生家の菩提寺として芳徳寺を開基したため、芳徳寺に改葬された。

柳生厳勝 柳生宗章
 元亀2年(1571年)に父宗厳は主君・松永久秀に従って筒井順慶が守る辰市城を攻めて大敗を喫するが、同時代に書かれた日記である『多聞院日記』ではこの戦いで負傷した者として「柳生息」(宗厳の子)が挙げられている。この人物の名前は明言されていないものの、これ以後は宗厳の嫡男として厳勝が活動した形跡がないため、この傷が元で以降は柳生庄に引き籠っていたと見る向きが強い。

 文禄3年(1594年)に弟・宗矩と共に徳川家康に召されたが仕官せず、武者修行の末に小早川秀秋に召抱えられる。関ヶ原の戦いでは秀秋に近侍して警護の任にあたった。その後小早川家が改易されると、中村一忠の執政家老・横田村詮に乞われて伯耆国米子藩に客将として仕えることになる。
 しかし、村詮の才覚を妬み出世を目論む一忠の側近の安井清一郎,天野宗杷らの陰謀により、慶長8年(1603年)11月14日、城内で催された慶事において、安井らに唆された一忠によって村詮は謀殺された。これに対し、横田一族を支持する家臣は憤りを感じ、飯山に立て篭もると、宗章も義憤と横田への恩義から加勢した。隣国の堀尾吉晴の助勢を得た一忠により鎮圧され、その際に宗章は吹雪の中で数本の刀を差して敵兵18名を切り倒すなど奮戦するが、最後は刀折れて壮絶な戦死を遂げた。

柳生利厳 柳生清厳

 元和元年(1615年)36歳の時、尾張藩御附家老・成瀬隼人正の推挙を受けて徳川家康の子・義直の兵法師範として500石で仕える。尾張柳生家の伝承によると推挙を受けた家康は、利厳を駿府に招聘して直々に対面した上で、義直の師範となるよう要請したといい、これを受けて利厳は「江戸の但馬(叔父・宗矩)とこと違い、諸役の御奉公は一切御免蒙り、替え馬一頭もひける身分ならでは、御仕官の儀は堅く御免蒙りとう存じます。」との条件を示し、家康はこれらを認めて義直の兵法師範としたという。
 尾張藩に仕えて5年後の元和6年(1620年)、義直に新陰流の剣術および新当流の槍,長刀の印可を授与する。この時利厳は自己一代の工夫考案書である『始終不捨書』の奥書に印可を添え、自身が祖父と師・棒庵から受け継いだ印可状,伝書,目録,大太刀の一切と共に義直に進上した。また後に流儀の後継者となる次男・厳包が印可を相受ける際には、義直から相伝を受ける形式を取らせたことで、流派の継承は代々尾張藩主と柳生家が協力の元で行うことが慣例となり、尾張藩「御流儀」としての新陰流の地位は不動のものとなった。
 慶安元年(1648年)、70歳で隠居して如雲斎と号し、隠居領300石を拝領する。家督は次男の利方が継承し、藩主の嗣子・光友の指南は3男の厳包が引き継いだ。隠居後は京都の妙心寺塔頭麟祥院に柳庵と呼ぶ一草庵を建てて暮らし、同寺の住職を務める霊峰和尚と親交を深めた。『霊峰和尚語録』によると柳庵での利厳は千草万木を愛し、いつも銅製の瓶に水を溜め、花を盛って側に置いていたという。隠居から2年たった慶安3年(1650年)、妙心寺で死去。享年72。遺体は晩年を過ごした塔頭麟祥院に葬られた。

 清厳が生まれた元和元年(1615年)、父・利厳は尾張藩主徳川義直に兵法師範として500石で仕えている。清厳は利厳から直々に新陰流を叩き込まれ、自身でも宝蔵院流槍術を習得していた。また読書,詩歌に勤しむなど文武両道の人物であった。
 元服して新左衛門と名乗ると、徳川義直の小姓となり300石を賜った。清厳は新陰流の後継者として父・主君に大いに期待されていた。
 しかし小姓就任直後、急病によって任を辞せざるを得なり、柳生の別宅で療養することになる。病床の清厳は衰弱し、家名を汚すことを恐れていたという。健康のため有馬温泉へ通うなどの活動もみられているが、伝言等から死を望んでいたと考えられる。
 寛永14年(1637年)島原の乱が起きると、幕府軍軍監で清厳の交友でもある石谷貞清に参陣を請うて、松倉勝家に属する。利厳ら家族には湯治を名目にして旅立ち、何も告げていなかったという。
 12月27日、家人の安藤仁兵衛儀玄,武藤太左衛門儀信,草履取の彌蔵,槍持某を連れて着陣、1月1日大将格の板倉重昌が総攻撃を行うと清厳も先方軍として従って突撃した。清厳は十文字槍を振るい、槍が傷むとこれを刀に替えるなど奮戦するが、板倉重昌が戦死すると軍が崩れ、清厳も鉄砲に当たり戦死した。安藤仁兵衛儀玄,武藤太左衛門儀信,草履取の彌蔵も清厳の後を追って討ち死にした。清厳は24歳の若さであった。

柳生利方 柳生厳包

 19歳から29歳の10年間、尾張藩嗣子・徳川光友の兵法指南役として新陰流を伝授する。また尾張藩の寄合,供番,目付役にも就任している。藩主からの信任が厚く、家声を汚さぬ働きと称賛されている。
 寛永19年(1642年)弟の厳包を光友に御目見出させる。以降、光友から極意について問答があった時は自身ではなく弟の厳包を推挙したという。
 慶安元年(1648年)、父・利厳が70歳で隠居すると、利方が家督を継承し、光友の指南は弟の厳包が引き継いだ。翌慶安2年(1649年)、利方が立ち合いの元、利厳から一切の相伝免許を受けた厳包に道統を継がせる。厳包の名声,腕前は利方を凌ぐほどであったというが、厳包との不和で一門を去る者もおり、利方には人望があったという。
 慶安4年(1651年)利方,厳包兄弟は、将軍徳川家光に武芸を披露するため、諸藩を代表する武芸の達人等と共に江戸に召集されている。利方,厳包は2日間にわたって武芸を披露し、4月5日に燕飛,三学,九箇,小太刀,無刀,小太刀を、翌6日には小太刀,無刀,相寸等の勢法を演じた。2人の武芸を見た家光は大いに機嫌を良くし、兄弟に時服と銀2枚を与えた。その様子はただちに2人の主君・光友に伝えられた。
 延宝2年(1674年)9月、鉄炮頭に就任。天和元年(1681年)、病により辞して馬廻となる。老後は如流斎と号する。晩年は「島」姓を名乗っている。貞享4年8月22日(1687年9月28日)68歳で亡くなる。
 その後、弟の厳包の養子に息子の厳延が入り、元禄7年(1694年)2月、印可を相伝して道統を継承している。以降、尾張藩剣術指南役は利方の子孫(厳延ー厳儔-厳春ー厳之-厳久ー厳政ー厳蕃)がつとめ、現在もその血筋が続く。

 母は島清興(左近)の末娘・珠である。幼少期は父の元を離れて姉の嫁ぎ先である御油の問屋・林五郎衛門のもとで育ち、母の実家の姓である島を名乗った。
 10歳の時に父の住む名古屋に戻り剣術の修行を始める。厳包は毎日の稽古が終わった後も郎党を集め、自分を打ち込んだ者には褒章を与えると宣言して打ち合いに励んだ。その才能は早くから表れ、弱冠13歳の時に父・利厳から習った口述をまとめた武芸書(通称『御秘書』)を残している。
 寛永19年(1642年)18歳の頃、次期藩主・光友の剣術指南役を務める兄・利方の推薦を受け、光友に御目見を果たす。厳包が江戸に到着すると、その日の内に光友は厳包に柳生流と一刀流の剣士30名と試合するように命じ、厳包はことごとくこれを打ち破ったという。厳包はそのまま江戸詰め御通番となり、はじめ40石、その後間もなく加増を受けて70石を拝領した。
 慶安元年(1648年)、24歳の時、父・利厳が隠居すると、家督を継いだ兄・利方に代わって厳包が光友の指南役となる。これ以降厳包は「制外物の御奉公人」として他の役目を解かれ、剣術に専念することを許されたという。翌慶安2年(1649年)、利方立ち合いの元、利厳から一切の相伝免許を受けて道統を継ぎ、さらに翌年に利厳が死去すると、父の隠居領3百石と居屋敷を譲られた。
 同年6月、藩主・義直が没してその跡を光友が継ぐとその恩寵はますます厚く、やがて2度の加増を受けて総石高6百石となった。厳包の門下からは藩中に名を知られる剣士も多く輩出し、その名声は兄・利方を凌ぐほどであったという。
 慶安4年(1651年)厳包と利方の兄弟は、将軍徳川家光に武芸を披露している。
 貞享2年(1685年)、61歳の時にようやく隠居を許されて剃髪し、連也斎または浦連也と号した。隠居後は造園に凝り、城下の邸宅に尾張随一といわれる庭園を造った。このほか花は牡丹を愛し、茶入れを好んで瀬戸に焼かせたという。
 厳包はある時期から女性を近づけず、妻子もいなかった。そのため 元禄7年(1694年)2月、70歳の時に兄利方の子・厳延に印可を相伝して道統を継承させた。同年10月11日に死去。遺言によって遺体は火葬され、遺骨は熱田沖の海上に撒かれた。墓碑はなく、妙心寺内麟祥院に位牌のみが残っている。