<皇孫系氏族>敏達天皇後裔

TB01:橘 諸兄  橘 諸兄 ― 橘 島田麻呂 TB02:橘 島田麻呂

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橘 島田麻呂 橘 常主
 橘氏長者。延暦16年(797年)春宮亮に任ぜられ、皇太子・安殿親王(のち平城天皇)に仕える。娘で桓武天皇の女御となった常子の薨伝によると、正五位下・兵部大輔に至ったとされる。詳細な経歴は伝わらないが、子女に恵まれ子孫から多数の公卿を輩出した。

 弘仁7年(816年)正月、蔵人に任命され、3月、式部大丞に転ずる。同8年正月、従五位下に叙せられ、2月、少納言となる。その後も順調に昇進し、弘仁13年3月、従四位下で修理大夫兼式部大輔のまま参議の列に加わる。橘氏では、奈良麻呂以来60数年ぶりの参議就任である。同15年4月、式部大輔兼弾正大弼となる。天長3年(826年)6月、40歳で卒した。時に従四位下参議弾正大弼兼下野守。「公卿補任」「尊卑分脈」は、「世に云う。件の常主は薪を積み其上に居して焼死す。勅使有りて問られる」という尋常な死に方ではなかったような風評を記録している。
 なお、常主の業績として、嵯峨天皇の命で藤原冬嗣らとともに「弘仁格式」の編纂に参加したことがあげられる。しかし、天長7年の撰上をみずして死去した。

橘 常子 橘 恒平

 生年は、薨伝に見える行年より逆算して延暦7年(788年)とされるが、『日本後紀』訳者の森田悌は、常子が延暦15年に無位から従五位下に叙されており、このとき9歳ということになってしまうので、この行年には誤りがあると注を入れている。
 桓武天皇の後宮に入り、大宅内親王を生む。延暦16年(797年)には従五位上に叙され、記録にはないが延暦年間に従四位下まで昇った。その後、天皇が崩御するとそれを悲しみ出家して尼になった。大同4年(809年)に娘の大宅内親王の邸宅が火災に遭った際には新銭(隆平永宝)百貫を賜っている。薨伝には平城天皇に重んじられ、従三位を授けられたとある[1]が、常子が従三位を授けられたのは平城天皇退位後の弘仁6年(815年)である[3]。弘仁8年(817年)8月1日死去。遺言によって、死体は席(むしろ・藁などで編んだ敷物)にくるまれて埋葬され、棺は用いなかった。

 朱雀朝の天慶7年(944年)帯刀長に任ぜられる。天慶9年(946年)村上天皇の践祚に伴って右近衛将監任ぜられると、天暦2年(948年)播磨権大掾を経て、天暦4年(950年)従五位下に叙爵する。
 天暦5年(951年)越前介に任ぜられ地方官に遷るが、天暦10年(956年)玄蕃頭として京官に復す。応和元年(961年)豊後守から天禄3年(972年)美濃守と村上・冷泉・円融の三朝にかけて地方官を歴任する。貞元2年(977年)には、正月に再び治国の功労により正五位下に叙せられると、同年3月に関白・藤原兼通の閑院第に円融天皇が行幸するとその家司として従四位下に、8月には造宮を賞されて従四位上と、一年に三度の昇叙を受けた。また、同年に近江(権)守に任ぜられると、天元4年(981年)重任されるなど、結局のべ30年近くに亘って五ヶ国の国司を歴任した。また、この間京官の木工頭,修理大夫も務めている。
 天元4年(981年)正四位下に叙せられ、永観元年(983年)11月11日に参議に任ぜられ公卿に列すが、13日に病気により出家し、15日に卒去した。享年62。
 歌人として、貞元2年(977年)8月の左大臣藤原頼忠家歌合に出詠している。

橘 増賀 橘 良基
 比叡山で慈恵大師(元三大師)良源に師事して天台教学を学び、963年(応和3年)如覚の勧めで多武峰に住し、「摩訶止観」「法華文句」を講じ、「法華玄義鈔」「無限念仏観」などを著した。また、毎年四半期ごとに法華三昧を修した。一方不動供(不動明王を供養する修法)などの修法や法華経読誦を行い奇瑞を現したという。高い名誉や利権を嫌い、奇行譚を多く残した。即身仏となったと伝わる。  仁寿3年(853年)左京少進に任ぜられ、次いで民部少丞に移った。天安年間(857年~859年)の初め、大宰大弐であった正躬王に少監就任を請われたが応じなかった。このため、文徳天皇の怒りに触れ、官を解任された。天安2年(858年)清和天皇が即位すると、貞観元年(859年)木工少允に復活し、次いで式部大丞に昇進。同6年正月、従五位下に叙せられ、伊予権介となり、治績があがった。同11年正月、従五位上常陸介、同16年頃、越前守へと累進。元慶3年(879年)頃、丹波守にうつる。政績によって同6年正月、従四位下へと一階を越えて昇叙。同8年5月、信濃守。律令制を維持しようとする治政に評価が高く、良吏の名を欲しいままにした。しかし直情径行的な硬骨漢のためか、仁和元年(858年)4月、詔使対捍の行為にで、刑部省で訊問されたが推断が終わらない仁和3年6月に卒去した。清廉・清貧を治政の信条としたため、家に寸儲なく、中納言在原行平の賻する絹布で殯葬することができた。
橘 澄清 橘 善行

 寛平2年(890年)文章生に補せられる。寛平6年(894年)渤海使・裴頲が伯耆国に到来すると伯耆権掾に任ぜられ、存問渤海客使・三統理平とともに使節の対応に当たっている。蔵人,兵部少丞を経て、宇多朝末の寛平9年(897年)従五位下・伊予介に叙任される。
 のち、讃岐権介,播磨介,伊予守,太宰大弐と醍醐朝前半は専ら地方官を歴任する一方で、順調に昇進している。
 延喜11年(911年)左中弁として京官に復帰すると、翌延喜12年(912年)右大弁に昇格し、延喜13年(913年)参議兼左大弁に任ぜられ公卿に列した。議政官として左右大弁を兼ね、延喜14年(914年)には従四位上に昇進している。延喜21年(921年)正月には正四位下、次いで従三位・中納言と続けて昇進した。この間、『延喜式』『延喜交替式』の編纂にも参画している。
 延長3年(925年)5月6日薨去。享年67。最終官位は中納言従三位。
 京都市伏見区にある道澄寺は、清澄が甥の藤原道明(良基の外孫)と共に創建したと伝えられている。

 名は方角ともいう。母は源氏の流れをくむ保津姫。承平6年、10歳の時元服し従五位に叙位さらに春宮大夫に任命された。書写山円教寺,弥勒寺を開基したことで有名。寛弘4年(1007年)80歳の生涯をとじるまで一心に修行に励み、大変多くの人々にその徳を慕われた。上人の弟子延昭の書いた「悉地伝」には上人の在世中の20にわたる徳行、奇特が載せられているが、その他にも高僧にありがちな超人的な伝承が多い。