<皇孫系氏族>敏達天皇後裔

K304:敏達天皇  橘 諸兄 TB01:橘 諸兄

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橘 諸兄 橘 奈良麻呂

 神亀元年(724年)聖武天皇の即位後間もなく従四位下に叙せられる。天平3年(731年)諸官人の推挙により藤原宇合,麻呂兄弟や多治比県守らとともに参議に任ぜられ公卿に列す。天平8年(736年)弟の佐為王と共に母・橘三千代の氏姓である橘宿禰姓を継ぐことを願い許可され、以後は橘諸兄と名乗る。
 天平9年(737年)4月から8月にかけて、天然痘の流行によって太政官の首班にあった右大臣・藤原武智麻呂ら政権を握っていた藤原四兄弟をはじめ、中納言・多治比県守ら議政官が次々に死去してしまい、9月には出仕できる主たる公卿は、参議の鈴鹿王と橘諸兄のみとなった。そこで急遽、朝廷では鈴鹿王を知太政官事に、諸兄を次期大臣の資格を有する大納言に任命して応急的な体制を整えた。翌天平10年(738年)には諸兄は正三位・右大臣に任ぜられ、一上として一躍太政官の中心的存在となる。これ以降、国政は橘諸兄が担当、遣唐使での渡唐経験がある下道真備(のち吉備真備),玄昉をブレインとして抜擢して、聖武天皇を補佐することになった。天平11年(739年)正月に諸兄は従二位に昇叙されるが、母の県犬養三千代の同族である県犬養石次を近々の参議登用含みで従四位下に昇叙させる。さらに同年4月にはこの石次に加えて、自派の官人である大野東人,巨勢奈弖麻呂,大伴牛養を参議に任じて、実態として橘諸兄政権を成立させた。
 天平12年(740年)9月、藤原広嗣が九州で兵を動かして反乱を起こすと(藤原広嗣の乱)、10月末に聖武天皇は伊勢国に行幸する。さらに乱平定後も天皇は平城京に戻らず、12月になると橘諸兄が自らの本拠地(山城国綴喜郡井手)にほど近い恭仁郷に整備した恭仁宮に入り、遷都が行われた。
 天平15年(743年)従一位・左大臣に叙任され、天平感宝元年(749年)4月にはついに正一位に陞階。生前に正一位に叙された人物は日本史上でも6人と数少ない。
 しかし、同年8月に孝謙天皇が即位すると、大納言兼紫微令・藤原仲麻呂の発言力が増すようになる。これに先立って天平17年(745年)頃より諸兄の子息・奈良麻呂が長屋王の遺児である黄文王を擁立して謀反の企図を始めるが、この謀反の動きに対する諸兄の動向は明らかでない。諸兄はこのことを知り翌天平勝宝8歳(756年)2月に辞職を申し出て致仕した。天平勝宝9歳(757年)1月6日薨去。享年74。最終官位は前左大臣正一位。諸兄の没後間もない同年7月に、子息の奈良麻呂は橘奈良麻呂の乱を起こし獄死している。
 諸兄政権は、国力の回復のためにまず郡司定員の削減や郷里制の廃止など地方行政の簡素化を行うと同時に、東国農民の負担軽減を目的として防人を廃止し、また諸国の兵士・健児を停止し公民の負担を軽減した。これらの兵士は当時軍事的緊張下にあった新羅に備えたものであったが、軍備を維持する余裕がなくなって新羅に対する強硬策は転換せざるを得なくなった。更に天平15年には農民人口の減少で荒廃した土地の再開発を促べく墾田永年私財法を発布した。併せて国司郡司による善政も督励された。また天平12年の東国行幸から17年の平城京遷都(元の平城京に戻った)まで、聖武天皇が次々に新都を建設して遷都を繰り返した彷徨五年の期間中、聖武が紫香楽宮へ行幸した際、天皇の留守を守って政治を全うすることもしばしば行った。

 天平12年(740年)5月に聖武天皇が諸兄の相楽にある別邸に行幸した際、奈良麻呂は无位から従五位下に直叙され、同年11月には早くも従五位上に昇進し、天平13年(741年)大学頭に任ぜられる。その後、聖武朝後半に順調に昇進を果たす。聖武朝においては、聖武天皇の皇女で藤原氏の血を引く阿倍内親王が皇太子に立てられていたが、奈良麻呂は聖武天皇の唯一の皇子で自らの縁戚にあたる安積親王の擁立を目指していた。しかし、天平16年(743年)安積親王が急逝してしまい聖武天皇の皇子がいなくなる状況下で、翌天平17年(744年)9月に聖武天皇が行幸中の難波宮で病気に倒れると、阿倍内親王を皇嗣と認めない奈良麻呂は事変の発生を予想し、多治比国人,多治比犢養,小野東人,佐伯全成らを勧誘して黄文王を皇嗣に擁立する動きを見せている。
 天平勝宝元年(749年)7月に聖武天皇が譲位して阿倍内親王が即位(孝謙天皇)すると、奈良麻呂は大伴兄麻呂,藤原清河と共に参議に任ぜられ公卿に列す。天平勝宝9歳5月に仲麻呂が推す大炊王(淳仁天皇)が立太子される。
 同年6月に奈良麻呂は右大弁に任ぜられる。奈良麻呂は仲麻呂の専横に強い不満を持ち、大伴古麻呂,小野東人らと語らい仲麻呂の排除を画策した。奈良麻呂は会合を重ね密かに同志を募ったが、そこから密謀が漏れてしまう。山背王が仲麻呂に対して「奈良麻呂らが兵器を準備している」と密告した。
 7月2日に上道斐太都が小野東人から奈良麻呂らの謀反への参加を呼びかけられたと密告があり、東人らが捕らえられ訊問された。東人は訊杖による拷問を受けて全てを白状した。計画は、奈良麻呂らが兵を起こして仲麻呂を殺して皇太子を退け、次いで駅鈴と玉璽を奪い、右大臣・藤原豊成を奉じて天下に号令し、天皇を廃して塩焼王,道祖王,安宿王,黄文王の中から天皇を推戴するというものであった。
 東人の供述に基づき翌3日になると奈良麻呂,道祖王,黄文王,大伴古麻呂,多治比犢養,賀茂角足等、名前を挙げられた人々は一斉に逮捕された。奈良麻呂が謀反を考え始めたのは天平17年(745年)に聖武天皇が難波に行幸したときのことで、その時に初めて謀反に誘われたと答えた。訊問後、佐伯全成は自害した。
 孝謙天皇は逮捕された人々を本来は死罪に処すところ、死一等を減じて流罪に処すると詔した。しかし、政治の粛正を図りたい仲麻呂は断固として手を緩めなかった。翌日、謀反に関わった道祖王,黄文王,古麻呂,犢養らに対し、永手,百済王敬福,船王らの監督のもと、全身を訊杖で何度も打つ拷問が行われた。これらは長時間にわたる拷問の末、次々と獄死した。首謀者の奈良麻呂については『続日本紀』に記録が残っていないが、同様に獄死したと思われる。後に奈良麻呂の孫の嘉智子が嵯峨天皇の皇后(檀林皇后)となったために記録から消されたと考えられている(橘奈良麻呂の乱)。
 皮肉なことに、奈良麻呂の死後に生まれた息子・清友の娘・嘉智子が嵯峨天皇の妃となって後の仁明天皇を生んだことから、承和14年(847年)に政敵・仲麻呂が後に謀反を起こして失うこととなった正一位太政大臣の官位を贈られている。

橘 安麻呂 橘 入居

 延暦6年(787年)従五位下・雅楽助に叙任される。その後、桓武朝において中務少輔,甲斐守,少納言,内蔵頭と内外の諸官を歴任する。延暦24年(805年)正月に従四位下・左中弁に叙任されるも、同年9月には早くも常陸守として東国の地方官に転じるが、母の病を理由に備前守次いで播磨守と続けて転任した。
 平城朝の大同2年(807年)に発生した伊予親王の変において、伊予親王の外戚であったことから連座して官職を解任され帰京する。
 嵯峨朝に入ると罪を赦され、弘仁元年(810年)従四位上、弘仁10年(819年)正四位下から正四位上に昇叙されるなど順調に昇進を果たしている。弘仁12年(821年)7月11日卒去。享年83。最終官位は散位正四位上。
 礼節をよく守り、加えて古事に明るかった。数多くの官職を歴任したが、清廉で品行方正との評判はなかった。

 桓武朝初頭の延暦2年(783年)従五位下・近江介に叙任される。延暦4年(785年)中衛少将と京官を兼ねるが、延暦7年(788年)遠江守として再び地方官に転じる。
 その後、従五位上・左兵衛佐に叙任され、延暦14年(795年)には近江,若狭両国に駅路を調査するために派遣されている。のち左少弁、延暦15年(796年)には右中弁と弁官を兼ね、延暦16年(797年)には、大納言・神王らと共に『刪定令格』の編集に参画した。その後、播磨守,左京大夫を兼帯し、延暦18年(799年)4月以降に従四位下に至る。延暦19年(800年)2月10日卒去。最終官位は右中弁従四位下。
 しばしば適切な内容で上書を提出したが、有益な事項が多かった。右中弁に抜擢され、政務に関する意見が多く採用されたという。

橘 逸勢
 804年、空海,最澄らとともに遣唐使に従って留学したが、唐の文人はその才をほめて橘秀才と呼んだという。帰国後、従五位下に叙せられが、老病を理由に出仕しなかった。840年4月、但馬権守となる。842年7月、嵯峨太上天皇が重態の折、伴健岑とともに皇太子恒貞親王を擁して東国に入ろうと謀ったという理由で7月17日、逮捕され拷問されたが罪に服することを拒否した。同月28日死を減じて伊豆へ遠流となったが、配流の途中、遠江国板築駅で8月13日病没した。850年5月、正五位下、853年5月、従四位下を追贈、863年5月の神泉苑での御霊会では祟道天皇,伊予親王らとともに祭られた。書をよくし、嵯峨天皇,空海とともに三筆と称せられる。