<皇孫系氏族>孝元天皇後裔

AB08:阿倍比羅夫  阿倍阿加古 ― 阿倍比羅夫 ― 安倍頼時 AB09:安倍頼時


リンク AB10・AB15
安倍頼時 安倍貞任

 陸奥大掾(陸奥権守とする説がある)であった安倍忠良の息子である。頼良(のちの頼時)の代までに奥六郡に族長制の半独立勢力を形成しており、11世紀の半ばには安倍氏が朝廷への貢租を怠る状態となった。
 永承6年(1051年)には、陸奥守・藤原登任が数千の兵を出して安倍氏の懲罰を試みたため、頼良は俘囚らを動員して衣川を越えて国衙領へ侵攻し、鬼切部の戦いにおいて国府側を撃破した(前九年の役)。朝廷は源頼義を新たに陸奥守に任命して派遣するが、頼義が陸奥に赴任した翌永承7年(1052年)春、朝廷において上東門院・藤原彰子の病気快癒祈願のために安倍氏に大赦が出され、頼良に関する罪も赦されることとなった。頼良は頼義と名の読みが同じことを遠慮して「頼時」と改名した。
 天喜4年(1056年)、頼義が任期満了で陸奥守を辞める直前、多賀城へ帰還中の頼義軍の部下の営所を何者かが夜襲したとされ、その嫌疑人として頼義が頼時の嫡子・貞任の身柄を要求した(阿久利川事件)。頼時は頼義の要求を拒絶して挙兵し、頼義に頼時追討の宣旨が下った。
 天喜5年(1057年)7月、反旗を翻した一族と見られる豪族・安倍富忠を説得するために頼時は北上したが、仁土呂志辺においてに富忠勢に奇襲を受け、流れ矢を受けて深手を負った。重傷の身で鳥海柵まで退却したが、本拠地の衣川を目前に鳥海柵で没し、貞任が頼時の跡を継いだ。
 なお、『今昔物語集』等を根拠として、頼時自身は反乱の首謀者ではなく蝦夷反乱に同調しようとしたとの嫌疑が掛けられたことに伴うものである等の見解が出されている。また束稲山に桜を植えたという逸話がある。

 厨川柵主として、安倍厨川次郎貞任とも。背丈は六尺を越え腰回りは七尺四寸という、容貌魁偉な色白の肥満体であった。豪勇のかたわら教養にもすぐれ、衣川柵の戦いにおいて源義家と和歌の問答をした逸話も残る。
 天喜4年(1056年)に、阿久利川において藤原光貞の営舎が襲撃される阿久利川事件が起こると、頼義は事件の張本人と断定された貞任の身柄を要求し、父の頼時がこれを拒絶して開戦となる。天喜5年(1057年)、頼時が戦死したため貞任が跡を継ぎ、弟の宗任とともに一族を率いて戦いを続けた。
 同年11月には河崎柵に拠って黄海の戦いで国府軍に大勝した。以後、衣川以南にも進出して、勢威を振るったが、康平5年(1062年)7月、出羽国仙北三郡の俘囚長・清原氏が頼義側に加勢したことで形勢逆転で劣勢となり、安倍氏の拠点であった小松柵・衣川柵・鳥海柵が次々と落とされ、9月17日には厨川の戦いで貞任は敗れて討たれた。深手を負って捕らえられた貞任は、巨体を楯に乗せられ頼義の面前に引き出されたが、頼義を一瞥しただけで息を引き取ったという。享年44。その首は丸太に釘で打ち付けられ、朝廷に送られた。

安倍宗任 安倍則任

 鳥海柵の主で、安倍鳥海三郎宗任とも呼ばれる。安倍氏の本拠地である鳥海柵の主であり、嫡妻であった清原氏の子として嫡子格の地位にあったと推察する説もある。
 前九年の役では、一族は奮戦し、貞任らは最北の砦厨川柵で殺害されるが、宗任らは降伏し一命をとりとめ、源義家に都へ連行された。その際、奥州の蝦夷は花の名など知らぬだろうと侮蔑した貴族が、梅の花を見せて何かと嘲笑したところ、「わが国の 梅の花とは見つれども 大宮人はいかがいふらむ」と歌で答えて都人を驚かせたという。
その後、四国の伊予国に流され、現在の今治市の富田地区に3年間居住し、その後少しずつ勢力をつけたために、治暦3年(1067年)に九州の筑前国宗像郡の筑前大島に再配流された。その後、宗像の大名である宗像氏によって、日朝・日宋貿易の際に重要な役割を果たしたと考えられる。また、大島の景勝の地に自らの守り本尊として奉持した薬師瑠璃光如来を安置するために安昌院を建てた。そして、嘉承3年(1108年)2月4日に77歳で亡くなった。 なお配流先については、伊予から筑前へと移されたという説と当初より大宰府に流されたという説とがある。

 奥州藤原氏初代・藤原清衡は甥にあたる。頼時は、則任を蝦夷地との交易にも適した津軽の稲城を配置した。則任はそこに城を築き白鳥城と名付け、安倍白鳥八郎則任と称した。出羽国の国人である白鳥氏の祖という説もあるが定かではない。
 筑後国の川崎氏,宮部氏,黒木氏などは則任の末裔であるとする伝説がある。また後に前九年の役において兄・安倍貞任が厨川柵にて源頼義に滅ぼされた際、末子の安東高星を庇護し、高星はその地で栄え、安東氏の祖となったとする伝承もある。