| AB08:阿倍比羅夫 | 阿倍阿加古 ― 阿倍比羅夫 ― 小松秀任 | AB17:小松秀任 | ● |

| リンク |
| 大河兼任 | 黒沢定幸 |
|---|---|
|
通説では出羽国北部八郎潟沿岸の大河の豪族だとされるが、陸奥国津軽地方の豪族だったのではないかとする説もある。奥州藤原氏が滅亡した奥州合戦の直後より鎌倉政権への叛逆を企て、1189年(文治5年)12月、出羽国に挙兵。『吾妻鏡』によると、総勢7000騎から最大で10000騎に及んだという。一説に安倍頼時の子の1人である安倍正任が兼任の高祖父にあたるという(正任の4代孫)。この説が事実ならば、兼任は正任の玄孫、頼時の来孫ということになる。 |
大和国に諏訪部定吉の次男として生まれた。幼くして黒沢重久の養子となり、杢助(木工助)を襲名した。慶長20年(1615年)徳川家康に御目見し、大坂夏の陣に松平正綱組として参戦した。元和2年(1616年)、徳川秀忠に御目見して大番に任じられ、元和9年(1623年)、徳川家光に代替り後も引き続き大番を務めた。後に養父の跡を継いだ。 |
| 黒沢弘忠 | |
|
家が貧しく、いつも繧繝縞の服を着ていたことから、周囲に「繧繝縞」と囃されていたことを苦にし、寛永6年(1629年)3月24日、朝熊岳に行くと偽って家出し、桧垣常晨家臣猪野久大夫の弟等室を頼って江戸に出て、江戸幕府馬預・黒沢定幸に出仕した。寛永7年(1630年)7月から9月まで定幸の実父・諏訪部定吉と陸奥国・出羽国へ、寛永10年(1633年)定幸と陸奥国へ、寛永11年(1634年)5月京都へ旅行し、9月帰宅後、自身を華居士、居宅を孝盤窩と号した。寛永15年(1638年)1月、島原・天草一揆見物のため九州へ向かったが、道中で終戦したため、故郷に立ち寄り、4月帰宅した。8月定幸の知行地武蔵国小林村に赴き、領民の争論を仲裁した。 |