<藤原氏>南家

F007:藤原為憲  藤原武智麻呂 ― 藤原乙麻呂 ― 藤原為憲 ― 相良周頼 F040:相良周頼


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相良周頼 相良頼景

 藤原為憲の後裔にあたる周頼が遠江国榛原郡相良庄に住み、相良氏を称するようになったことに始まるという。とはいえ、為憲から周頼に至る間の系譜に関しては諸説があり、また、京の大夫職にあった周頼がいかなる事情で相良荘に移住したかも不明である。おそらく、藤原氏とはいえ末の流れである周頼にすれば、京での出世よりも父祖の縁を頼って地方の荘官職を志したものと思われる。
 異説として、球磨地方の開発領主である人吉次郎,須恵氏,合志氏,久米氏らが、相良氏と同じく藤原姓を称していること、また、頼景の嗣子・長頼は人吉庄の知行を得ていたが、早い時期に北条氏によって下地中分されていることなどから、相良氏は西遷御家人ではなく須恵氏らと同様に在地領主ではなかったかとするものもある。
 いずれにしろ、相良氏を始めて称したとされる周頼は、子に恵まれなかったため同族の伊東祐光の次男・光頼を養子に迎えて家督を譲った。以後、相良氏は相良荘の開拓に従事しながら、遠江の有力武士に成長していったのである。

 治承・寿永の乱の際に平家方についたため、源頼朝から領地を取られる。その後、謝罪につとめ許され、鎌倉政府に仕えるようなった。
 1193年(建久4)、肥後国多良木荘に命じられ、多良木荘へ下向。この時から球磨での相良氏の歴史がはじまる。1197年(建久8)、頼景は源頼朝に謁見、さらに源頼朝の善行寺の隋兵として参加。ここで晴れて忠勤が認められ御家人の列に加えられることになり、正式に多良木荘の地頭に任じられた。

相良長頼 相良頼親

 治承元年(1177年)、遠江国佐野郡の相良荘で生まれた。父・頼景は、源頼朝より遠江守に任じられていた安田義定に逆らって相良荘の大半を失い、建久4年(1193年)に肥後国球磨郡の多良木荘を与えられ、追放同然で下向した。この時、長頼は相良荘の一部を相続して遠江に留まった。
 建久9年(1198年)12月、長頼は源頼朝より命を受けて人吉に下向した。先に下向した相良頼景は上球磨(多良木・湯前・湯山・江代)を領していて、中球磨は木上岩城主の平川義高が領し、下球磨は公領であったが、平頼盛の代官であった矢瀬主馬佑が領していた。長頼は鎌倉幕府の命令であることを示して矢瀬に人吉城の明け渡しを迫ったが、拒否された。長頼は、住人・税所助三郎の勧めで、地方豪族である平川氏に使者を出して、矢瀬討伐を依頼した。平川義高はこれを快諾し、大晦日の川狩の際に矢瀬一族を胸川(球磨川支流)に誘い出して、尽く討ち取って滅ぼすと、人吉城を奪取。長頼は義高に迎えられて人吉城に入城することができ、任務を果たして帰還した。
 建久10年(1199年)、頼朝の死去に伴って長頼も出家した。北条氏が興隆するとこれに服属。元久2年(1205年)の畠山重忠の乱では、長頼は二俣川の戦いにおいて先陣で功を挙げた。それにより7月25日に肥後国球磨郡人吉庄の地頭職に任じられたが、長頼の本願は本領である相良荘の回復であった。
 承久3年(1221年)、承久の乱が起こると、幕府方の北条時房に従い、長頼は弟の山井宗頼と佐原頼忠と共に参陣。東海道を西上し、宇治川での戦いでは佐々木信綱らと共に敵陣一番乗りの功を立て、かつ敵将・渡部弥次郎兵衛を討ち取るという功績を挙げた。これにより、執権・北条義時に晴れて相良荘の旧領回復を許され、さらに播磨国飾磨郡の荘園など多くの褒美を与えられた。またこの時、北条義時より直々に青磁の椀に梅の実を五つ盛って賜ったが、長頼はこれを喜んで、相良家の家紋を五つ梅御紋としたとされる。
 父・頼景が亡くなった時期は確かではないが、安貞元年(1227年)、多良木荘を惣領である長頼が相続した。年代は不明であるが、長頼は恩義のある平川義高が不満を持って叛乱を起こしたと言って、兵を差し向けて、血敷原の戦いでこれを滅ぼした。非業の死を遂げた平川一族は球磨郡の各地に祀られた。それぞれ祀神とされているが、これは祟りを恐れたものであり、一族を滅ぼしたことに大義がなかったことを示唆する。
 寛元元年(1243年)12月23日、甥(山井宗頼の子)の相良頼重と泉新荘(肥後国山鹿郡)を巡って争ったことを幕府に咎められ、所領の人吉庄のうち、北部を北条氏の領地として取り上げられた。一方で、宝治3年/建長元年(1249年)3月27日、執権北条時頼によって豊前国上毛郡成恒庄の地頭に任じられた。
 建長6年3月、人吉庄にて死去し、後を嫡子の相良頼親(頼宗)が継いだ。享年78。

 鎌倉にて6歳で元服し「四郎兵衛尉頼親」と名乗った。幼くして、将軍・源実朝の鶴岡八幡若宮への参拝に同行して、前駆を任される栄誉を受けた。
 承久元年(1219年)、鎌倉からの帰還の途上で、泉州堺の津で源実朝が暗殺されたことを知り、法大寺にて剃髪し「観仙大徳」と名を改め、更に朝廷に請い、後深草天皇より禅師号を賜った。以後、しばしば東国に赴いた父・長頼の留守居として、人吉に残り、内治を担当した。
 宝治元年(1247年)、井口八幡神社(井ノ口八幡宮)を創建した。
 建長6年(1254年)、長頼の死により家督を継いたが、すでに齢56歳であったことと、北条氏の世に移り変わっていたことを快く思っておらず、その翌年(1254年)には弟の頼俊に家督を譲って、自らは照角山(球磨村神瀬)に観仙庵を設けて隠棲した。文永元年(1264年)、68歳で逝去した。
 息子の相良頼明は永留氏(永富氏)を称し、後にこの家系から宗家を継ぐ相良長続が出たとされている。頼親・頼明父子については鎌倉末期から南北朝期に作られた相良氏の系図にも登場することから実在した可能性が高いが、そこから長続に至るまでの永留氏の動向は不詳であり、長続が本当にこの家系の出身なのかは不明である。

相良頼俊 相良長氏

 生年不詳。当初は大村(現人吉市内)の佐牟田に住み「佐牟田六郎」とも称した。寛元4年(1246年)3月5日、父・長頼から人吉荘の南方である経徳名外を譲り受け、さらに建長3年(1251年)3月22日には軍功の賞として成恒荘を授けられた。
 建長6年(1254年)、兄・頼親の譲を受けて当主となった。正嘉元年(1257年)9月14日、成恒荘の、その二十日後には刁岡名の地頭職を安堵された。また同じ頃、剃髪して「六郎法師沙弥迎蓮」を称した。
 文永11年(1274年)、文永の役の後、九州の武士団にはそれぞれ異国警固番役が割り振られ、相良家からも人が出て数年に渡って博多湾で任務に就いていた。
 弘安4年(1281年)に蒙古が再来して弘安の役が始まると、すでにかなりの高齢であったが、頼俊は自ら兵を率いて、弟・相良頼員(相良西信)と共に参陣した。博多では菊池武房に従って蒙古軍と戦い、嵐で難破して五龍山に避難した敵兵を一網打尽に捕虜として、博多浦で斬るという武功を挙げた。これによって頼俊と頼員の両名は、北条宣時と北条貞時の連署による関東御教書を賜って激賞された。また、菊池武房からも恩賞として葦北郡が与えられた。葦北はすでに相良家の勢力圏だったが、これで晴れて所領と認められたことで、水俣に城が築かれた。
 弘安10年(1287年)、家督を子の相良長氏に譲って隠居。没年は不詳ながら、一説には延慶4年(1311年)、1309年や1310年とも言う。

生年不詳。弘安10年(1287年)、父・頼俊から家督を譲られて当主となった。延慶4年(1311年)、相良一族の心得や家法のようなものを記した長文の置文を書き残した。
 嘉暦元年(1326年)、7代将軍・惟康親王の薨去に伴い、剃髪して「蓮道」と称し、家督を子の頼広に譲ったが、隠居したものの後見人として実務に留まり、晩年、孫の定頼の頃まで相良家で大きな影響力をもった。
 元弘の乱が起きると後醍醐天皇勢力に味方し、元弘3年(1333年)、尊良親王が豪族・江串三郎に擁されて挙兵し、筑前国原山に在陣中と聞いて、頼広,朝氏,祐長の三子を派遣して、その軍に加わった。このとき長氏はすでに老齢で馬にも乗れないため、朝氏と祐長はその名代であると説明している。この軍は、少弐貞経・頼尚親子の離反・合流により、鎮西探題・北条英時を滅ぼし、大宰府を落とすに至った。その後も、度々出兵要請に応じて、天皇側に従った。
 しかし、建武3年(1336年)、足利尊氏が後醍醐天皇に逆らうと、足利方の少弐頼尚は、長氏とその孫の定頼にも同調を求めた。頼広は一時南朝に従ったが、定頼は北朝に従って功があった。
 延元3年(1338年)、少弐頼尚は、長氏の祖父・長頼の時代に没収された人吉庄北方の所領(北条氏領)を恩賞として与えた。長氏はこの領地を頼広ではなく、孫の定頼に譲った。一族の多良木経頼が南朝側について蜂起し、息子の相良祐長がこれに同心して長く戦乱となるが、長氏は説得して和議を成立させた。また真幸院で反乱があった際にも長氏が兵を率いた。
 長氏は、没年も不詳で、文和4年(1355年)の4月14日とも2月14日とも言い、貞和元年(1345年)2月14日や正平7年(1352年)4月14日とも言う。しかし第5代当主の頼広よりも長命であったようである。廟所は佐牟田迎蓮寺、牒所は称明寺。 

相良頼広 多良木正任

 嘉暦元年(1326年)、父・長氏より家督を譲られ、鎌倉幕府より所領である人吉荘,成恒荘らの地頭職に任じられ継承した。しかし、父が後見人として残って強い影響力があり、しばらくは惣領としての実権はなかったようである。
 元弘の乱が起きると後醍醐天皇勢力に味方し、当時東国にいた頼広は、元弘3年(1333年)の新田義貞の挙兵に馳せ参じて、鎌倉攻めに加わった。山田城主で一族の永留頼常は、このとき奮戦して戦死している。しかし、尊良親王が大宰府近くの山で九州の武士団を糾合する旨を出されたことから、頼広はこれに従って新田の陣を離れ、兵を率いて九州に下向した。
 球磨から来た弟・朝氏と祐長の手勢と合流して、少弐貞経の配下で尊良親王の警護の任についた。その後も度々出兵要請に応じて大宰府に兵を送った。これら功により朝廷は、人吉・成恒の相良家の所領を安堵する宣旨を下し、次いで、肥後国・豊前国の他の相良家所領についても安堵された。
 建武元年(1334年)、北条英時の遺臣・糸田貞義,養子・北条高政を擁して蜂起した際、頼広は豊前上毛郡の成恒にいて、すぐに少弐氏や大友氏が指揮する討伐軍に加わった。
 建武3年(1336年)、足利尊氏が後醍醐天皇に逆らうと、頼広は新田側の地方武士団と共に、足利家の一族である細川義門の日向国国富荘を攻撃し、尊氏自身の封土である穆佐院を襲い、その部将・土持宣栄と戦った。
 この頃、球磨郡の所領は長男の定頼に譲っていたようで、各地の相良一族は各々の行動をとっていた。定頼は父・長氏と共に北朝に勧誘を受けていたが、球磨郡では、上球磨の多良木氏(相良分家)が南朝側で、別に八代城は(同じく南朝側の)伯耆国・名和氏の代官・内河義真が抑えていて、身動きが取れなかった。他方で、筑後国の河合荘の地頭・相良忠頼は、一色範氏(北朝)に与力して筑後豊福原合戦で奮戦している。
 頼広の没年は不明で、建武5年前後にはすでに亡くなっていたようであるが、晩年は急に名前が出てこなくなり、定頼が当主のごとく振る舞っていることから、病気等の何らかの理由で政務がとれなくなったと想像される。家督を譲った時期もよくわかっていない。 

 多良木相良氏(上相良氏)の一族とされる。文安5年(1448年)、相良氏の内戦であった雀ヶ森の戦いで、相良頼観は相良長続によって討ち取られた。相良正任は、この頼観の嫡子であった相良鬼太郎ではないかと推測されている。
 故あって大内政弘に仕え、その祐筆となった。政弘死後はその嫡男の義興を補佐、その治世初期に奉行人を務めた。息子の相良武任同様風流人で、有職故実に通じており、和歌や連歌にも秀でた文人でもあった。著書として日記『正任記』がある。
 下関市住吉神社に保存されている国の重要文化財「住吉社法楽百首和歌短冊」(明応4年(1495年))には、三条西実隆筆の序文、相良正任と杉武明が連署した添え状が現存している。

多良木武任 稲留長泰

 明応7年(1498年)、相良正任の子として生まれる。武任は大内義隆の右筆・奉行人として仕え、国人の統制と守護代の権力抑制、大名権力の強化に務めた。この行政能力を義隆に信任され、天文6年(1537年)1月8日、従五位下叙任・中務大丞如元、評定衆にも列せられた。
 また、肥後の相良宗家との関係も持っており、相良義滋が将軍・足利義晴から偏諱と朝廷から官職を得た際には仲介となった大内義隆の命を受けて武任が実際の工作にあたっており、勅使である小槻伊治と共に肥後国に下っている。
 天文10年(1541年)、吉田郡山城の戦いによって尼子軍が出雲国へ撤退すると、陶隆房(後の陶晴賢)はこの機を逃して出雲国への遠征を行わなければ、折角帰順した安芸国と石見国の諸勢力の離反を招いてしまうと提言した。これに対し武任は安芸国と石見国の征服が未だ完了していないのに敵地深くに侵入することは危険であり、吉田郡山城の戦いで出雲国へ撤退することになった尼子軍と同様の事態に陥るおそれがあると反対した。最終的に義隆は隆房の提言を受け入れ、出雲遠征(月山富田城の戦い)を実行したが失敗に終わり、以後は義隆の信任を受けた武任らが文治派を形成して大内家中で主導的立場に立ち、武断派の陶隆房,内藤興盛らと対立することとなる。
 天文14年(1545年)、隆房らの巻き返しを受けて失脚。出家して肥後国の相良晴広の下で隠棲していたが、天文17年(1548年)に義隆の要請を受けて再出仕した。しかし、天文19年(1550年)には隆房との対立が決定的となり、暗殺まで謀られるに至るが、武任は事前に察知して義隆に密告することで難を逃れた。その後、隆房との対立を回避するため、美貌で知られた自分の娘を隆房の嫡男である陶長房に嫁がせようとするなど融和策をとったが、すべて失敗に終わったため、同年9月16日に大内家から再度出奔する。
 天文20年(1551年)1月には、筑前国で筑前守護代・杉興運によって抑留され、周防に戻される。そこで、「相良武任申状」で義隆に対して弁明するが、そこで「隆房・興盛らに謀反の企てあり」と知らせたばかりか杉重矩のことまで讒訴するにいたり、武断派との仲は破局を迎え、8月10日に武任は再び大内家を再々出奔する。
 そして、8月20日に陶隆房が謀反を起こした後、武任は杉興運と共に筑前花尾城において隆房に抵抗したが、隆房の命を受けた野上房忠によって城を攻め落とされ自害した。享年54。武任の首は山口に送られ梟首された。

 祖は肥後国相良氏で、相良氏の祖である相良長頼の5男・稲留頼貞の子孫である稲留善助が島津忠国に仕えて以降、代々島津家臣となっていた。長泰の代まで稲留姓であったが、島津義久の使者として相良義陽の元へ赴いた際、義陽の許可を得て以後、相良姓を名乗るようになった。
 天正10年(1582年)から八代へ在番、有馬氏への使者を務めるなどし、日向国紙屋の地頭および財部の地頭となった。その後は島津義弘に従い、合志城攻めや高森城攻めに参加して功を挙げた。また、筑紫城攻め、岩屋城攻めの際も副将としてこれに参戦している。
 朝鮮の役が始まると、長泰は木脇祐辰と共に船奉行を務め、庄内の乱にも参陣する。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際は長泰は大坂にあり、実窓院(義弘夫人)と亀寿(忠恒夫人)を薩摩へと逃すため、於松という侍女を亀寿の身替りとする謀事の際、平田増宗の指示により長泰は、吉田清孝,上原尚張,新納孫右衛門と共に、於松を大坂屋敷へ送り込む役目を果たした。その後、関ヶ原より退去してきた義弘らと合流、日向国の細島に着くと、伊東氏家臣の稲津重政の軍がいたため、須木から義弘を出迎えるべく現れた村尾重侯の軍勢と共に、これを討ち払った。
 寛永6年(1629年)に死去した。その死に際して、島津家久(忠恒)より追悼の和歌が詠まれている。 

上村頼興 上村頼孝

 頼興の祖父・上村直頼の室は相良氏12代当主・相良為続の姉で、父の上村頼廉は為続の3男が直頼の養子として入ったものであった。故に、13代当主・相良長毎は伯父にあたり、16代当主の相良義滋とは従兄弟にあたる。このように宗家と血を分けた関係であったことから、この時代の上村氏は相良一族内に於いて最も有力な庶家であった。
 頼興は稀代の謀略家でもあった。相良氏の内紛において、大永6年(1526年)に義滋(長唯)が、実弟の長隆を攻撃する際に、頼興に協力を要請したが、頼興は兄弟の争に介入を好まず拒否した。結局、義滋は、頼興の嫡男・晴広(上村頼重)を宗家の養嗣子とすることで協力を取り付けたが、これは家督の譲位に等しい最大限の譲歩であった。以後は、一蓮托生のごとく義滋を補佐し、同年の日向国真幸院の北原氏が来寇した際にも、人吉城を救援した。
 実弟・長種は家老に取り立てられ、犬童一族の乱鎮圧の最大の功労者となって八代に勢力を広げると、文武に優れて武功も多く人望の厚い人物であったことから、晴広の相続に際して反乱に及ぶことを危惧し、義滋と謀って天文4年(1535年)、これを謀殺した。義滋は次第に八代に居を移し、頼興も古麓城や鷹峯城の城代を勤めるなどしている。
 やがて、義滋が約束通りに、実子の晴広に相良氏の家督を継がせると、頼興は益々強い影響力を行使するようになった。天文21年(1552年)8月に自身の従兄弟にして妻の兄でもある岡本地頭の相良頼春も、逆心の気配があるとして謀殺し、その領地と地頭職を自身の4男で稲留氏の養子に入っていた稲留長蔵に継がせた。
 天文24年(1555年)に晴広が病没すると、その後をまだ元服前の義陽が継いだので、その後見役となって八代に入ったが、2年後の弘治3年(1557年)2月21日に没した。

 上村頼興の次男で上村氏14代当主。相良氏17代当主相良晴広は実兄。
 天文24年(1555年)、兄・晴広の死去により後を継いだ甥・相良義陽の家督相続を不満に思っており、義陽の後見人であった父・頼興の死で上村氏を継いで上村城主となったのを機に、弘治3年(1557年)6月、弟の豊福城主・上村頼堅,岡本城主・稲留長蔵と共に反乱を起こした。しかし頼堅が最初に敗れ、頼孝は久木野城に籠り、菱刈重任や北原氏500余名からの援軍も得たものの撃退されて、同年9月20日(8月13日とも)、北原氏の治める日向飯野へと逃亡した。
 永禄3年(1560年)、義陽が無量壽院の住職・正阿弥(東出羽守)を派遣し甘言をして説得したので、7月29日、頼孝は帰国を許されたと考えて士卒700余名と共に帰還して、水俣城下に住んだ。
 しかし、永禄10年(1567年)になって、義陽は奉行の蓑田信濃守,高橋駿河守を頼孝を討つために兵と共に差し向けた。これを聞いた深水源八郎長則は、一族衆である頼孝への仕打ちとしてこちらの侍が一人も死なないことは礼儀に反すると執政である父・深水宗方へ訴え、自ら相果てる役目を志願して了承された。頼孝と源八郎は互いに酒を酌み交わした後に槍を合わせ、頼孝は源八郎を突き殺すと自ら切腹して果てた。享年51。法名は本山蓮光。嫡子・四郎頼辰もこの時切腹した。享年24。近習も尽く殉死した。しかし他の子らは幼少を理由に許されている。

 

上村頼堅 上村長陸

 肥後国豊福城主。上村頼興の3男で相良氏17代当主・相良晴広の弟。相良氏が名和氏より取り戻した豊福城主及び地頭に任じられていたが、父・頼興の死後に相良領の兄弟による分割統治を目論み、兄・晴広の跡を継いだ相良義陽に対し、次兄・頼孝,弟・稲留長蔵と共に弘治3年(1557年)6月に反乱を起こす。しかし、6月10日に義陽の命を受け八代城から出兵した東山城守の率いた兵に城を攻められ落ち延びる。頼堅は八代鏡の内田という処に潜んでいたところを捕えられ、同所にある福善寺にて殺された。
 なお、頼堅の子も同年7月13日に八代鏡に隠れていたところを捕えられ、頼堅の妻はその2日後に人吉城へと出頭している(両人のその後の所在等は不明)。
 弟の長蔵は、父の上村頼興により暗殺された岡本頼春の領地を受け継いで、岡本城主及び地頭に任じられていた。相良義陽に対し、弘治3年(1557年)6月、兄の上村頼孝,頼堅と共に造反するが、岡本城は義陽方の攻撃によって、同年8月16日(8月13日とも)に落城。長蔵は北原氏の治める飯野へと逃亡した。その後、義陽に帰国を許され帰還し八代城に住んだ。しかし永禄10年(1567年)に義陽の命により、長蔵の宿老2人が東源兵衛,東主馬らに殺害され、長蔵自身も八代奉行の高橋駿河,東尾張らにより殺害された。

 肥後国相良氏の武将で上村頼孝の次男。父・頼孝は相良義陽に対して謀反を起こし後に殺害されるが、長陸は幼少であったために許され、成人すると義陽の勧めで、島津義弘と離縁していた義陽の別腹の妹である亀徳を貰い受け、また奥野地頭にも任じられた。
 しかし、義陽の弟である相良頼貞が義陽の死後、その後継に立たんとした際に随身したり、更に義陽の後を継いだ相良頼房が、朝鮮の役に伴い渡海して留守の際に謀反を企てるなどした。慶長年間、その企てを知った者たちにより、原城の柳江院門の前で討ち取られた。
 長陸の祖父・頼興に暗殺された岡本頼春は、暗殺の際に上村家の断絶を予言して死んだが、長陸と嫡子の鶴松丸が死去したことで予言は的中した(以後も続く上村氏は、上村姓を与えられた者で正統ではない)。
 なお、正室の亀徳は『南藤蔓綿録』によると、長陸死後に尼となり原城の下原に住んだが、相良家家老である犬童頼兄に粗略に扱われ、貧しい生活を送った挙句、元和年間に餓死したとある。

上村長国 岡本頼春

 晩年は出家して修理入道沙彌洞然と称す。法号は単に洞然ともする。文化的に優れた博学の人物で、特に家史に詳しかったため、外孫の相良晴広に依頼されて、下相良氏の事績を記した貴重な歴史資料である『洞然居士状』を書き残した。同書は相良正史の源流とされる。
 天文15年(1546年)、死去。享年79。 

 永正7年(1510年)、上村長国の子として生まれた。肥後岡本の地頭に任じられたことから岡本姓を名乗った。
 ところが、相良氏17代当主・晴広の実父で妹婿にあたる上村頼興が、頼春の暗殺を企てる。頼興から相談ありとして、自らの城である上村城へ来訪するよう求められるが、家臣の上田杢之丞は頼興の芳しくない評判を語った上、「昨晩は夢見が悪く、また本日が返報日である」からと行かないよう諌めた。しかし頼春は、「返報日であるならば頼興が自分を害せば上村の家の命運も長くは続くまい」と聞き入れず、天文19年(1550年)4月14日に上村城へと上がったが、頼興の命により玄関口に潜んでいた峯山讃岐と栗幡六郎左衛門の両名により殺害された。享年41。
 頼春死後の弘治2年(1556年)、相良氏18代・義陽は頼春を弔うべく、岡本の大吹山に社壇を立て正八幡として崇めた。また、頼春には男子2人と女子1人があったが、頼春殺害時は全員が幼少であったことからその命は助けられた。長男の東頼兼は相良氏に仕え、朴河内城主を経て岡本地頭になり、次男の東藤左衛門も相良氏に仕えたが、永禄10年(1567年)の大口城での戦いで討ち死にしている。

東 頼兼 東 頼乙

 父の岡本頼春は、相良氏17代当主・相良晴広の実父・上村頼興により天文21年(1552年:天文19年説あり)に暗殺されているが、頼兼はそのとき15歳であったために後難を免れ、成人後に嫡子・頼乙共々朴河内城の番を仰せ付かった。
 天正7年(1579年)9月13日、島津家臣の新納忠元率いる軍勢に城が攻められると、頼兼は妻子と城兵らを城に残したまま、自らと息子の頼乙のみで密かに湯浦まで落ち延びる。城は八代衆が援軍に現れたため、落城寸前で守られたが、翌8年(1580年)5月12日の風雨の日に、忠元率いる80余名に再び攻められ落城、頼兼と頼乙は面目を失い自ら山中に蟄居する。その後、当主・相良義陽に許されて、岡本地頭に任じられた。

 父・頼兼と共に朴河内城の番を仰せ付かっていたが、天正7年(1579年)9月13日、島津家臣・新納忠元の軍勢に城が攻められると頼兼と頼乙は、自らの家族と城兵らは城に残し、2人のみで密かに湯浦まで落ち延びる。城は八代からの援軍により落城寸前で守られたが、翌年に忠元の軍勢80余名に再び攻められ落城、頼兼と頼乙は面目を失い自ら山中に蟄居するが、すぐさま許される。
 文禄元年(1592年)の文禄・慶長の役の際、頼乙は法寿寺の前住亮哲と共に祐筆役として朝鮮へ渡海、帰国後は当主・相良頼房の近習として、京や江戸に数年住まった。元和年間の末、暇を願い出て入道し「休斎」と号すと、女犯肉食を断って常楽寺山に庵を営み、昼夜兵道に勤しんだ。寛永4年(1627年)に病没。遺言により高塚山に火葬された。 

犬童頼安 犬童頼兄

 大永元年(1521年)、相良氏の家臣・犬童重安の子として誕生。
 犬童一族は、大永4年(1524年)の相良長定の謀反に与したため、後の享禄3年(1530年)に犬童長広ら一族の大半が殺害されたが、熊徳丸(後の頼安)は僅か10歳であったため、僧籍に入ることで助命された。出家して「伝心」と名乗り、天文14年(1545年)に復讐を果たさんと相良治頼に与して相良家の本家と戦うが敗北して逃亡し、その後は各地を修行して回った。
 弘治2年(1556年)、帰参を許されて相良氏の家臣として上村地頭となり、永禄2年(1559年)の獺野原の戦いで軍功を立て、天正5年(1577年)3月には深水下総守頼延と交代し水俣城の城主となった。天正9年(1581年)に島津氏が水俣城に侵攻すると籠城して戦った。この時に、頼安は敵将・新納忠元と連歌の応酬をしながら争ったという。忠元が「秋風に 水俣落つる木ノ葉哉」と詠んで射掛けたところ、頼安は「寄せては沈む 月の浦波」と詠んで射返した。
 その後、相良氏は島津氏に降伏し、主君・相良義陽が響野原の戦いで戦死すると、頼安は豊福から人夫を集め、戦死した場所へ廟所を立てさせている。また義陽の死後、相良頼房を補佐し主家の存続に尽力、頼房と共に島津氏の豊後国攻めにも従い、相良氏が豊臣秀吉の元で再び独立を果たした際にも頼房の奉行として嫡子・頼兄と共に活躍した。また、頼房が文禄・慶長の役にて渡鮮した時には留守を守り、その最中に発生した梅北一揆の際には、一揆の首謀者である梅北国兼に同情的な家臣らに、御家存続のため秀吉に従う必要性を説いて一揆討伐に派兵している。
 慶長11年(1606年)に病死。冨ヶ尾山に葬られた。なお、7人の家臣が殉死しているが、その殆どが水俣城が攻撃された際に新納忠元の陣営から寝返り、名を変えてそのまま家臣となった者とされる。 

 当初は延命院の稚児となっていたが、父・頼安が水俣城に籠城、苦戦していると聞き及び寺を抜け出して共に籠城、それ以後は武将として仕えた。深水長智はその才覚を認め、死去した嫡子の代わりに自らの後継にしようとしたが竹下監物に反対されたため、藩主・相良頼房の許しを得て、甥の深水頼蔵と同席とし二人を自らの後継の奉行とした。両者は非常に不仲であり、頼房もこれを憂慮し朝鮮出兵の際には両人に誓紙を書かせている。
 頼兄は頼房の信頼を得て家老となり、天正20年(1592年)2月1日、頼房から相良姓を与えられ、相良兵部少輔頼兄となる(関ヶ原の戦い後、井伊兵部少輔直政と名乗りがかぶるのを憚って清兵衛尉と改める)となった。同年3月1日からは朝鮮出兵にも副軍師として頼房とともに渡海している。
 文禄2年(1593年)、深水一族で頼蔵派である竹下監物の嫡子の知行が豊臣秀吉から取り上げられるが、監物はこれを頼兄の計略と訝ったために不穏な状況となり、深水一族600人は湯前城に籠城する。しかし、頼房が切腹を命じたために監物ら数名が切腹して沈静化した。だがこの頼兄(犬童氏)と頼蔵(深水氏)の対立が、明治を迎えるまで打ち続く人吉藩の藩内抗争へと繋がっていく。その後、不仲であった頼蔵が加藤清正の元へ出奔、蔚山の戦いで没する。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでも頼房とともに西軍についたが、西軍が9月15日の本戦で大敗すると、頼房に東軍に寝返るように進言し、相良氏の存続を成し遂げた。これらの功績から頼房に厚く信任を受けた頼兄は、筆頭家老として国政を任され、相良氏の人吉藩2万2千石のうち、半分近い8000石を与えられた。
 頼房が死去した後は、相良頼寛に仕えたが、その頼寛とは折り合いが悪く、寛永17年(1640年)、頼寛が「頼兄は専横の家臣である」と幕府に訴えたため、頼兄は幕命により津軽へ流刑とされてしまった(相良清兵衛事件)。頼兄は米300俵30人扶持を与えられ、従者6人(7人とも)と共に弘前城の西方の高屋村に置かれたが、そこで火災が起こったために「鏡ヶ池」の畔に移り住んだ。明暦元年(1655年)、津軽で客死。享年88。
現在の青森県弘前市相良町に流刑されたとされていて、当地の町名も清兵衛の屋敷があったことにちなみ相良町となる。
なお、子孫に姓を変えて津軽藩に仕えた者がいる。『人吉市史』では、従者の一人である印藤(犬童)九郎右衛門という人物が実は頼兄の子で、その子である四郎右衛門長矩が小姓として藩主に仕え、後に「田浦」の姓を与えられたとする説を記述している。また、頼兄流刑の頃には嫡子・頼安は死去していたものの、その子である相良頼章は存命しており、頼章の実母が島津家久の娘であった縁から薩摩国島津家預かりの身となった。その子孫は島津家臣として仕え続けている。

犬童長広

 相良氏に仕える有力な重臣で、人吉の奉行を務めた。大永4年(1524年)の相良長定の謀反に加担し、当主・相良長祗を大永5年(1525年)に一族の犬童匡政に殺害させた。これにより長定を相良家の当主に擁立したが、大永6年(1526年)に長祗の兄・相良長隆が反乱(相良瑞堅の乱)を起こし人吉を奪ったため、長定と共に八代に逃亡した。
 その後、追討を逃れるために長定と共に犬童匡政の拠る芦北郡津奈木にまで退避したが、相良氏の一族で有力者である上村頼興の支持を得た相良義滋が家督を相続すると、犬童一族は謀反人と見なされ、享禄3年(1530年)に義滋・頼興の命令を受けた上村長種(頼興の弟)に攻められて、長広は大半の一族もろとも殺害された。このとき、10歳の幼少にあった一族の熊徳丸(後の犬童頼安)は助命され、弘治2年(1556年)に相良家に帰参して有力重臣として仕えることになる。