<藤原氏>南家

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相良定頼 相良前頼

 南北朝の動乱期において、相良氏の宗家・分家は双方の陣営に分かれて戦った。
 建武2年(1335年)、父・頼広が日向国で足利家の所領を攻撃した一方で、定頼と祖父・相良長氏入道は、当時九州で最も有力な武士であった少弐貞経・頼尚親子に服属して、武家政権を支持した。父・頼広から家督を譲られた時期は不明で、両者がどのような関係であったのかよくわかっていない。相良家では隠居した長氏の影響力が強く、孫の定頼は早くから次期当主として遇されており、父よりも長命だった祖父の長氏から、実際上は直接家督を譲られたとも考えられる。
 建武3年/延元元年(1336年)、足利尊氏の教書から大隅国の南朝方の肝付兼重討伐の命を受けたが、球磨郡内の南朝方が多勢であったため動けず、家臣の税所宗円を派遣した。他方で新田義貞攻めの兵を京へ送るようにも指示された。これに応じて家臣の税所延継が兵を率いて上京したようであるが、ほどなく足利尊氏は京を追われ、九州に落ち延びて少弐頼尚に迎えられた。
 この政変の影響で、球磨郡でも多良木経頼が義兵(南朝)を上げて蜂起。定頼はこれと戦うのに忙しく、足利・少弐に援兵を送ることはできなかった。定頼は木上城を攻略するが、上球磨の多良木氏の勢いは衰えずになかなか鎮定できなかったため、尊氏が九州探題として残した一色範氏が家臣.・橘公好を派遣して助力させた。
 延元2年/建武4年(1337年)10月、筑前国嘉摩郡での合戦に、定頼は大蔵松石丸を名代として豊前成恒荘より兵を出したが、依然として球磨郡は鎮定されていなかった。
 延元3年/建武5年(1338年)初、一色範氏は南朝方の南肥後の拠点となっていた多良木経頼を討つべく、相良定長を球磨に下向させた。他方、菊池武重との決戦を控えた少弐頼尚は、相良氏を懐柔して味方に留めておくために初代・相良長頼の頃に没収された人吉庄北方の所領(旧北条氏領)を長氏へ恩賞として与えた。長氏入道はこの所領を孫に譲り、定頼は名実共に人吉城主となった。
 興国元年/暦応3年(1340年)、叔父・相良祐長が長氏に不満を持って、経頼に内通して、山田城にいた少弐頼尚の代官を放逐して南朝に従うことを宣言し、定頼に反旗を翻した。少弐頼尚は怒り、相良定長にこれを討つように命じた。同時に一色範氏も、相良定長と相良長氏に軍勢催促状を出して討つように命じた。しかし多良木経頼は頑強に抵抗したため、少弐頼尚は甥の筑後経尚を名代として送った。経尚は相良定長,相良景宗,税所宗円などを率いて、経頼と祐長を分断するために中球磨にある砦を次々と落とした。経頼は城を出て野戦したが、築地原合戦で敗れて退いた。経尚は西に戻って山田城を攻囲して落とし、東に進んで多良木氏の根拠地である鍋城を攻略した。経尚は城から脱出した南朝諸将に対して警戒を怠らぬように定頼に訓示して帰還したが、経頼・祐長は西村にある小牧城に再び立て籠もった。興国2年/暦応4年(1341年)、定頼は小牧城を攻撃したが落とせなかった。興国3年/暦応5年(1342年)、少弐頼尚は再び相良定長らに攻撃を命じたが、今度は逆に多良木経頼の反撃にあって、久米郷木原合戦では双方に大きな被害があった。
 興国4年/康永2年(1343年)、少弐頼尚は薩摩国に上陸した懐良親王の北上を阻むべく南九州の南朝諸将を懐柔しようとして、多良木経頼にも所領安堵を約して、定頼と一時的に和睦させた。興国7年/貞和2年(1346年)、親王の先導を務める中院義定(中院定平)は定頼にも義兵を要請したが、定頼はこれを拒否して少弐頼尚に従った。少弐頼尚は南朝に呼応した恵良惟澄と戦って守山城を攻めて、 定頼も出陣して八代城を攻める筑後経尚の軍勢に合流した。結局は、両城とも落とせなかったが、翌年、頼尚は定頼に八代郡の7ヶ所の所領を恩賞として与えた。正平3年/貞和4年(1348年)、懐良親王は宇土に上陸して阿蘇惟時に迎えられ、無事に御船を通過して、菊池氏の本拠である隈府城に入ってこれを征西府とした。これにより肥後国の形勢は南朝側に大きく傾いた。
 さらに正平4年/貞和5年(1349年)、尊氏に追われた長門探題・足利直冬が側近・河尻幸俊の助けで肥後に入った。所謂、観応の擾乱であるが、直冬は南朝勢と通じつつ大宰府を目指して北上し、少弐頼尚と連合して一色範氏と争うという複雑な対立構造となった。同じ頃、球磨郡では、多良木経頼が再び挙兵して、久米の領主・橘道公も同調し、河尻幸俊を通じて直冬とも組した。定頼はすぐに攻撃したが、またもや鎮定することができなかった。頼みの少弐頼尚は中立となって助力はしてくれず、一方で一色範氏は相良側に恩賞を与えて都督していたが、結局は範氏は直冬に博多を追われた。
 足利尊氏は九州下向を予定していたが、東国での足利直義の挙兵により中止。援軍のあてを失った一色範氏は窮余の策として南朝と連合した。正平6年/観応2年(1351年)、中央政界でも「正平一統」があって、南朝は大友氏泰(一色方)に直義・直冬の追討を命じた。ところが、直義が急死すると、後ろ盾を失った直冬は南朝に降ってこれと連合。尊氏も再び北朝を擁したため、範氏と南朝の連合は崩れた。
 大友氏,島津氏,相良氏と連合する一色範氏は、定頼のもとに家臣・一色範親を球磨に派遣して、南肥後の鎮定を目指した。正平7年/文和元年(1352年)に一色範親は相良定長と共に葦北・湯浦秀基の野角城を攻略し、正平8年/文和2年(1353年)、目田河原合戦でも南朝側に勝利した。同じ頃、日向守護・畠山直顕は直冬方で、大隅や真幸院を巡って薩摩の島津貞久と争っていた。一色範氏は島津からの援軍要請を受けて、西方の球磨からは相良勢と一色範親を、北からは大友氏時と一色範光に攻めさせ、島津勢と合わせて三方から攻撃した。しかし畠山直顕はこれに屈せず、南朝方の多良木経頼や須恵彦三郎と連携を密にし、薩摩の南朝義兵を蜂起させて葦北の内河義真に呼応させたため、島津師久は逆に碇山城を襲われた。直顕は菊池武光の援兵も得て、結局、一色範親らの攻撃を撃退した。範親と定頼は再び矛先を多良木経頼へ向けるがこれは上手く行かず、直顕は一色勢の苦戦をみて、逆に大隅に進出して島津貞久を攻撃した。
 他方、正平9年/文和3年(1354年)、懐良親王は菊池武光と少弐頼尚(直冬方)連合軍を率いて豊後国に進撃し、国府を落として大友氏泰・氏時親子を降伏させた。翌正平10年/文和4年(1355年)、北九州で拠点を失った一色範氏は遂に九州を追われて長門に敗走した。ただし一色範親は依然として球磨にあり、島津・相良連合で、畠山直顕と戦った。定頼は日向に侵攻して、田上城,稲荷城を落とし、取り返しにきた畠山勢と交戦した。
 正平13年/延文3年(1358年)、幕府は一色直氏を2代目の九州探題として送り込んだが、菊池武光により撃退された。既に直冬の勢力は全国的に崩壊しており、南朝は畠山直顕を討ち、正平14年/延文4年(1359年)には筑後川の戦いで少弐頼尚,大友氏時を倒した。これにより懐良親王と菊池武光は九州の制圧をほぼ完成させた。唯一残った南九州に対して、幕府は定頼に日向国北郷の家職を与え、20年以上前の家臣・永留頼常の功に恩賞を与えるなどして、北朝側への引き留め工作を行った。
 正平15年/延文5年(1360年)、幕府は斯波氏経を4代目の九州探題とした。氏経は大友氏を頼り、島津師久・氏久兄弟に多良木経頼を攻めさせたり、定頼に阿蘇氏と同盟させたりしたが、結局は長者原合戦で大敗して放逐された。南朝勢圧勝の状況で、一色範親の立場は極めて脆弱になった。しかし日向を中心とした狭い範囲に限られたものの、幕府の唯一の出先機関として彼は一定の権威は保持し続け、約10年、南九州は他とは異なる混沌とした状態が続いた。
 正平年間の末(1370年)には、定頼は無量壽院を設けて隠居していたとされ、法名を契阿と称した。すでに世子の前頼に家督を譲っていたというが、応安5年(1372年)8月25日に死去し、これにあわせて家臣3~6名が殉死して御供した。定頼は、球磨郡内の統一は果たせなかったが、状勢が激しく変わるなかでも一貫して武家政権を支持し幕府に忠実であった。戦乱に乗じて肥後国や特に日向で勢力を拡大した。

 応安元年/正平23年(1368年)に父の隠居により家督を継いだとも、応安5年/文中元年(1372年)の父の死により家督を継いだとも言われており、その詳細や経緯は定かではない。
 当時の南九州はほぼ全域で南朝方が優勢で、前頼も父存命時にすでに南朝側と内通して離反の準備をしていた。しかし、建徳2年/応安4年(1371年)、九州探題として今川了俊(貞世)が新たに下向して来て、情勢に大きな変化があった。応安5年/文中元年(1372年)、了俊は大宰府を奪還し、さらに肥後国に攻め入ろうとして筑後川で菊池氏と対峙した。了俊は相良家の一族に軍忠状を出して褒美を与えて繋ぎ止めることに成功し、相良左近将監,相良美作守などを服属させた。そのため、家督を相続して間もない頃の前頼も北朝方に留ることになったものと思われる。
 天授元年/永和元年(1375年)、征西大将軍懐良親王(南朝)が弟・阿蘇惟武へ大宮司職を世襲させたことに不満を持った阿蘇惟村が北朝方に付いたため、了俊は惟村・前頼・美作守らに川尻を攻めさせた。幕府軍優勢で戦は進んでいたが、了俊は島津氏久(大隅・日向守護)に仲介を依頼して少弐冬資を呼び寄せて暗殺。この水島の変によって、九州の有力御家人と九州探題との関係は一旦完全に破談し、再び混沌とした状態に逆戻りした。他方で、この水島の陣には相良一族からも相良長時が参陣していて、立ち退く際には殿軍で活躍し、今川仲秋から感状を受けた。
 また、この頃、父・定頼の積年の宿敵であった多良木経頼(南朝)が死去し、子の頼仲に代った。
 天授2年/永和2年(1376年)、了俊は島津氏久の討伐を計画して、球磨に子の今川満範を総大将として派遣した。満範は、前頼に禰寝久清と伊集院久氏に書を送って討伐に加わるよう籠絡することを依頼したが、久清も久氏もこれを拒否した。そこで満範は前頼と伊東氏祐と共に、日向国都之城の北郷義久を攻めたが、義久は弟・樺山音久と城を固守した。翌年(異説では3年後)、島津氏久・元久親子が来援して、蓑原の合戦があり、満範軍は大敗。前頼の弟・頼氏も戦死した。しかし、薩摩守護・島津伊久が了俊に降って、氏久を牽制すると、薩隅日三州は膠着した。
 天授4年/永和4年(1378年)、今川仲秋,大内義弘らが鎮西合戦で菊池武朝を破り、今川軍は肥後に入った。武朝と良成親王は託麻原の合戦(託摩原合戦)で奮戦してこれを撃退するが、南朝側の劣勢は明らかで、了俊は八代の対応を前頼と伊久に任せ、阿蘇は惟村に治めさせ、全力をもって菊池氏の本拠に迫った。そして、弘和元年/永徳元年(1381年)、ついに隈府城を陥落させ、親王は御在所の染土城を放棄して退いた。肥後にはまだ宇土・川尻に名和願興や阿蘇惟政(惟武の子)ら南朝勢が残っていたが、了俊は三州の平定を優先させた。ところが、満範は二度に渡って再び義久の都城を攻めたが、攻略できなかったため、平定は難航した。一方で前頼は税所祐義と本田氏の於奴止利城を襲って攻略して日向に地歩を広げている。
 その後、島津元久と伊久の両名は共に了俊に降って何とか収まったが、これは形式的に過ぎず、両名とも宇土・八代攻めへの参陣要請を無視。九州探題の権威を蔑ろにして、直接、室町幕府に従うという態度をとった。了俊は禰寝氏に島津氏を監視させる以上は手が出せなかった。
 もともと心情的には南朝方であった前頼は、九州の南朝方退潮を憂い、永徳3年/弘和3年(1383年)4月、突如として南朝方に寝返ると、征西将軍宮・良成親王より所領安堵された。至徳元年/元中元年(1384年)、了俊は満範を助力しようと家臣・宮内大輔三雄を二見に派遣したが、翌年正月、前頼は名和氏に援兵を送ってこれを撃破した。驚いた了俊は渋谷重頼を援軍に差し向けたが、これも撃退された。三州の両島津氏,禰寝氏らも再び了俊に逆らう態度を見せ始め、南朝方は一気に復調。これを評価した南朝の後亀山天皇は、前頼を(日向国の代替として)肥前守護に任じ、さらに仙籍を許した。前頼は大変感激して益々の忠勤を誓った。
 嘉慶元年/元中4年(1387年)、前頼は度々出撃して、八代,葦北,天草で今川軍と戦い、その軍功を賞されて、親王より肥前国小瀬庄を賜った。
 明徳3年/元中9年(1392年)、足利義満によって南北朝合一が行われると、良成親王と了俊との間にも和議が成立した。前頼も了俊に帰順し、肥後では菊池氏や名和氏さえも武家側に降って乱は治まったが、薩摩・日向・大隅では、依然として戦乱は止まなかった。了俊は新たに第4子・今川貞兼を派遣して鎮定させようとした。明徳4年(1393年)、前頼はこの今川貞兼と共に日向国に侵攻して大挙して都城方面を目指して進出した。
 明徳5年(1394年)正月、貞兼と前頼は、伊東氏・土持氏・北原氏らと共に、北郷氏の一族が守る野々美谷城を落とし、梶山城を攻撃した。都之城から北郷久秀・忠通・知久兄弟が救援に駆けつけるが、梶山城は陥落し、久秀と忠通は戦死した。これを聞いた島津元久は軍勢を率いて駆けつけて急襲する。この樺山城合戦で今川軍は敗れて、貞兼は東の飫肥城に逃れ、前頼は西の野々美谷城に逃れた。嫡男を殺された北郷義久は激怒して相良勢を追い詰め、そのまま城を強襲した。体制の整わぬまま戦った前頼は、弟・丸目頼書,丸野頼成,青井前成ら共々討死して果てた。 

相良実長 相良前続

 明徳5年(1394年)1月19日に父・前頼と叔父3人が都城で島津元久・北郷義久の連合軍の攻撃により戦死したために急遽、家督を継いで人吉城主となった。
 応永5年(1398年)、斯波義将の女婿・渋川満頼が九州探題として着任して下向。菊池武朝はこれに反旗を翻して高瀬城に拠って蜂起したが、満頼と大友親世の連合に攻められて筑後に逃れた。父・前頼と同じく心情的には南朝方であった頼茂は武朝を助力しようとしたが及ばなかった。
 足利義満はすでに隠居して鹿苑院を名乗っていたが、相良氏を鎮撫すべく、同年9月3日、朝廷より綸旨を出させて頼茂を従五位下に叙して兵庫允に任じた。また、この時に名を頼茂から「実長」と改めている。
 応永6年(1399年)、実長は日向国真幸院に出陣し、田之上城を攻めて畠山直顕の置いた城代の後藤・和田らを追い落とした。
 応永8年(1401年)、元薩摩守護・島津伊久が鶴田重成を鶴田城に攻め、薩摩・大隅守護・島津元久が鶴田氏を救援して争った際には、実長は牛屎院の兵を率いて伊久の方を救援した。両軍は千町田で合戦し、元久は敗れて、重成は大隅国菱刈に逃れた。
 実長の時代は比較的平穏であったため、戦乱により荒廃した社寺の再興に尽力された。井口八幡宮,山田大王社,立興寺(佐牟田),筒口福昌山法寿寺などが建立された。
 応永24年(1417年)逝去。牌所は如意山無量寿院、墓は相良氏の菩提寺である願成寺の金堂山にある。なお、鹿児島市吉田町にある実長の墓は供養塔。 

 当初は「宮内大輔周頼」と称したが応永年間に近江守に任ぜられ、また、応永20年(1413年)3月、阿蘇宮社を参詣する前夜に見た吉夢により「前続」と名を改めた。
 応永24年(1417年)4月4日に父の実長がなくなると人吉城主となったが、家督は既に譲られていたものか、このときに継承したものかは判然としない。
 前続は応永17年(1410年)の添田王門前社壇の造営を始め、蓬来山永国寺や薩摩瀬祢宣嶋神社など数々の社寺の造営を行っている。嘉吉3年(1443年)逝去。牌所は蓬来山永国寺、墓は金堂山の願成寺にある。

相良堯頼 相良長続

 父の前続が嘉吉3年(1443年)に急死したため、13歳の若さで家督を継ぐ。 しかし、文安5年(1448年)に上相良氏の多良木頼観・頼仙兄弟が外越地頭の桑原一族を始めとした国人達及び、蓮花寺などの山伏ら500余人,雑兵700余人を率いて人吉城を夜襲。不意を突かれた堯頼は菱刈氏を頼って落ち延びた。
 これに対し、肥後国球磨郡の山田城主である永留長続が、多良木兄弟を討ち取って人吉城を回復する。堯頼は長続から帰城するよう求められたが、これを辞退し長続に家督を譲るとしたが、長続もこれを固辞した。そのため、やむなく城に戻ったともされるが、戻っていないともされ判然としない。
 同年3月、堯頼が予てより愛玩していた子牛を遊牧中に股を牛の角に突きたてられ、その疵が元で菱刈の地にて16歳で亡くなった。一部に、堯頼の帰城を望まない者による謀殺とする説もある。遺体は菱刈郡小苗代の永福寺に葬られた。 

 肥後国球磨郡の山田城を領していたが、文安5年(1448年)に上相良氏の多良木頼観・頼仙兄弟が相良氏第10代当主・相良堯頼を追放した後、長続は薩州島津氏,豊州島津氏らの支持を受け、菱刈氏らの協力も得た長続は、直ちに多良木兄弟を討ち取って人吉城を支配下に置き、堯頼を復帰させることで上相良氏と下相良氏で分裂していた相良氏を、下相良氏のもとで統一することに成功した。そして堯頼が亡くなると、家督を継いで第11代当主となった。
 宝徳3年(1451年)、長続が薩摩国牛屎院へ在陣しているのを見計らい、漆田・赤池の地頭である斉木但馬守が叛乱を企てる。長続は事前にこれを知り斉木を詰問した結果、不遜な言動があったために切腹を命じたが斉木はこれに応じず、一族郎党200名と共に赤池城に籠った。長続はすぐさまこれを討ち取るが、その6年後の長禄元年(1457年)には橋本某が井野木田塞に籠って叛乱した。長続はこれも即座に鎮圧している。
 長禄2年(1458年)、薩摩,大隅,日向で内乱が起こる。長続は11代守護・島津忠昌より協力を依頼され、牛屎院を与えられて牛山城を獲得する。しかし、菊池為邦が葦北,水俣への侵攻し始めたため、牛屎院を返還しこれに備えている(その2年後に為邦により葦北を安堵された)。寛正6年(1465年)、一族の内乱により長続を頼ってきた名和氏の幸松丸(後の顕忠)を保護し、使者を派遣して度々交渉に及んだ末、無事に幸松丸を八代城へと帰還させている。長続はこの功により、八代郡高田郷350町を賜った。
 応仁元年(1467年)、応仁の乱が起こると細川勝元に与して上洛し活躍したが、翌年1月に病を得て帰国し、まもなく58歳で死去した。後を3男の為続が継いだ。

 

相良為続 相良長毎

 応仁元年(1467年)、父が病に倒れた後、為続の長兄・頼金が病弱、次兄・頼幡は夭折していたために3男の為続が家督を継いだ。翌年、父が死去すると実際に相良氏を取り仕切った。文明8年(1476年)に薩摩国牛山の島津三郎右衛門が舅である菱刈道秀を攻撃してくると、これを救うべく島津国久及び北原氏と共に三郎右衛門と会戦、その居城である牛山城をも攻略、為続は国久より牛屎院を与えられた。
 文明14年(1482年)、島津氏の内乱鎮圧に加勢のため牛屎院へ出陣中、その隙を伺った名和顕忠が八代の高田へ侵攻してくる。城兵はこれを追い出し事なきを得たが、これ以降は名和氏との対立を深める。翌15年(1483年)に島津国久の名代・島津延久,菱刈道秀,祁答院重慶,北原昌宅、更に天草の志岐氏,上津浦氏,栖本氏から助勢を得て、顕忠を討つべく出陣し八代城を落としたが、このときは守護の菊池重朝よりの許しが得られなかったために止む無く高田へ退いている。しかし翌16年(1484年)に再び落城せしめて領有するに至り、長享元年(1487年)には豊福城をも奪った。その際、為続を頼っていた菊池為光を宇土城へと復帰させている。また同年、弟の相良頼泰が謀反を企図すると逸早くこれを察知し、頼泰が擁立しようとした頼泰の嫡子・長泰共々討ち取っている。
 その後、菊池重朝が死去すると、その重臣・隈部朝夏が謀反に及ぶが、為続は約束に背き八代の番を尽く他へ出張させていたことから、重朝の後を継いだ能運と義絶することになってしまう。そして、明応8年(1499年)に能運と戦って敗北し八代へ退くと、周辺豪族も為続から離反、肥前有馬氏らも軍船を出し八代城を攻撃してきた。為続は止む無く八代,豊福から撤兵、牛屎院も島津氏へ返還して球磨,葦北の防備に徹したが、翌年6月4日、54歳で死去した。墓地は球磨無量院。後を子の相良長毎が継いだ。 
為続は戦国武将としてよりは、教養人・政治家として評価されている。明応2年(1493年)には「相良氏法度七条」を定め、また連歌にも通じ、『新撰兎玖波集』に九州でただ一人句を選ばれたという。 

 明応8年(1499年)、父の隠居により家督を継ぎ、人吉城主となった。
 文亀元年(1501年)5月13日、肥後守護・菊池武運(能運)が玉名郡に巡視に赴いた留守を伺い、その老臣・隈部忠直が宇土城主・宇土為光(菊池為光)を擁立して謀反を起こし、突如、隈府城を奪い取った。武運は怒って取って返し、菊池重安らと共に攻め寄せたが、5月20日、玉祥寺原の戦いで一族の多くを失う大敗を喫し、武運は身一つで逃げて肥前有馬氏を頼った。29日、代わって為光が隈府城に入り、肥後守護職を名乗った。
 菊池武運は父・為続の宿敵であり、八代方面での失地回復を狙っていた長毎は、この菊池氏の騒乱に介入。同じ5月、八代(古麓城)を攻めたが落とせず、高田郷の平山城(廃城)を修復して守兵を入れて撤退した。
 長毎は恨みを捨てて菊池武運と結ぶ方が得策と考え、八代・豊福の奪還を条件に、菊池家の再興を約束して同盟した。またこの頃、武運は能運と改名している。長毎は貧窮していた能運に経済的援助をして関係を深めた。
 文亀2年(1502年)8月、長毎は再び八代を攻めたが、隈部勢が多勢であり撤退。
 翌年8月、長毎は三度八代に出陣した。9月に菊池能運は玉名に上陸して高瀬の戦いで菊池為光を破って宇土城も落とした。11月、能運が恩に報いるために加勢を申し出しで、天草衆や阿蘇惟長も援軍に来るが、長毎は八代は相良氏宿怨の地であるとしてこれらを謝絶して単独で攻囲戦を行った。しかし、守る名和顕忠親子は堅守して城は翌永正元年(1504年)1月になっても落ちなかった。そこで能運が守護職の立場で外交僧を派して顕忠を説得。2月7日、顕忠は城を退去して相良氏へ明け渡し、能運の庇護下で木原城に入り、後に宇土城へ移った。また長毎は豊福城も合わせて占領した。
 長毎は隈府城に赴き感謝の意を表すつもりだったが、能運は戦傷がもとで25歳で他界して果たせず、遺言で14歳の菊池政隆が後を継ぎ、肥後守となった。しかし、これに阿蘇惟長が異を唱え、豊後国の大友義長の支援のもと、菊池氏家臣団と結託して政隆を追い、自らが菊池武経と改名して肥後守を称した。政隆は長毎のもとに逃れて葦北郡で保護されたが、長毎は大友氏を恐れてこれを助力しなかったため、政隆は筑後国に逃れた。武経は大友重治に依頼して政隆を討ってもらおうとしたため、相良氏には双方から加勢の依頼があったが、いずれも応じなかった。しかし再び豊福城が係争の地となると、これを放棄した。菊池氏・阿蘇氏の内証はしばらく続いた。
 永正5年(1508年)、足利義稙が将軍に復帰して大内義興が管領となると、長毎は祝賀の品々を送り、これらのことから、永正7年(1510年)、後柏原天皇が宣旨を下して、長毎は従五位下近江守に任じられた。
 永正8年(1511年)、豊福を奪還しようと久具川を渡ったが、名和顕忠の伏兵に遭って久具川合戦で大敗。相良勢は退却しようとしていたが、長毎は単騎で来援して踏み止まるように激励し、名和勢を逆に敗走させしめた。
 永正9年(1512年)、長毎は嫡子の長祗に家督を譲って、高田今出水に館を築いて隠居し、休也斎と号した。また同地に竜成寺(龍成寺)を建立した。しかし長祗はまだ11歳であり、実権は依然として長毎が握った。
 永正13年(1516年)9月、名和顕忠は再び兵を起して守山を攻めたため、相良勢は守山城を修復して兵を入れた。長毎は10月から複数回に渡って兵を派して豊福城を攻め、12月についにこれを陥落させた。
 肥後国に勢力を伸ばそうとしていた大友氏では、大友義鑑が相良氏と名和氏の積年の争いを収めるべく、真光寺の僧を派して両者に和睦を勧めた。永正14年(1517年)7月に両氏はついに和睦した。同年、長毎は球磨の無量寿院で剃髪して仏門に入り、加清と号した。また父・為続のものをさらに発展させた法度式目を定めて、「相良氏法度13ヶ条(壁書)」としてまとめたのも、この晩年の頃と思われる。翌年、50歳で死去。竜成寺に葬られた。

相良長祇 相良長隆

 文亀元年(1501年)3月13日、人吉城で生まれた。永正9年(1512年)、11歳の時に父・長毎から家督を譲られ、人吉城主となったが、幼弱のために永正15年(1518年)までは隠居した父が八代高田にて政務を見ており、実権は無かった。その後、父の死で、18歳にして名実ともに相良氏の惣領となった。
 肥後国では守護の菊池氏が内訌により没落し、豊後の大友氏が勢力を伸張し始めていた。菊池武経が出奔した後は、分家から詫摩武安の子・武包を迎えたが、永正17年(1520年)、大友義鑑は菊池氏家臣団と謀って、武包は暗愚であると言う理由で放逐。代わって弟・大友重治が菊池家に入って継ぎ、「菊池義宗(義武)」と改名して守護職も称した。義武は同年、相良氏に所領安堵の書状を送っている。
 大永3年(1523年)、22歳の時に長祗と改名した。これより前、第11代当主・相良長続は、長子・頼金が疾を患って不具であったため、3男・為続を第12代当主としたが、頼金には子息・長定があり、長じて嫡流を蔑ろにされたとの思いから不満を強めていた。時に現当主・長祗は若年であり、先代・長毎は晩年は長く球磨を留守にしていた。嫡流として家中で信望を集めていた長定は、心ひそかに野心を抱くようになった。
 大永4年(1524年)、相良長定は、縁者でもある奉行職(執政)の犬童長広と共謀して謀叛の計画を練った。長祗もこの動きを薄々察知して近習・村山治部左衛門と協議したが、なかなか決断できなかった。別の近習・園田又四郎は謀反の真偽のほどは明らかではないが「先々君の仇となる者は長定である」としてこれを除かんと刀を手に出ていこうとしたが、長祗は勝手な振る舞いだとして激怒して、最初死罪を申し渡し、周囲に説得されて園田を勘当追放として葦北郡二見に蟄居させた。
 このようなことがあった後で、ともかくことを確かめるべく、長祗が使いを立てて長定を詰問すると、長定は驚きを装い、二心無き旨を誓って誓書を書いた。これで長祗は安心して帰城したが、まさにこの日、8月24日の夜、長定と長広は60余人を集めて密かに人吉城内に侵入し、鬨の声を上げて急襲した。長祗は不意を突かれ狼狽し、僅かな従者を連れて城を脱出。薩摩国出水に落ち延びた。翌日、長定は自らが人吉城主となり、長祗は家督を奪われることとなった。
 長定はさらに長祗を誘殺せんと謀り、出水に使者を送った。この度の事は逆臣に唆されたのであると説明し、逆臣は討つので、「憤りを休められ、球磨へ御帰城、または水俣城へ御在城されれば目出度きかな」と申し送った。長祗はこの虚言を信じ、翌年1月6日に出水を発し水俣城へ入った。しかし長定は、津奈木地頭・犬童匡政に対して、長祗が水俣城へ入ったならば即座に討ち果たせと命じていたのである。
 二見に蟄居中の園田又四郎はこれを聞き、死を覚悟して登城して長祗へ注進した。長祗は落涙してその忠義に謝し、蟄居を解いて、主従は水俣城の後方の立山へと逃れた。しかし匡政はすぐに追手を差し向けたので、逃げ場を失った主従は止む無く切腹することになった。長祗は又四郎の介錯により自害して果てた。享年25。
 長祗の首級は匡政により球磨に届けられ、長定の検視の上、梅花筒口の法寿寺に葬られた。16年後、長祗の庶兄・義滋が八代郡高雲寺を長祗の牌所と定め、法名を高雲寺殿大谷蓮世とした。また青井神社の東協龍王社も創建(天文3年)したが、これは長祗を祀った霊廟である。 

 明応元年、人吉城で生まれた。11歳のときに剃髪して僧になり、瑞堅と号した。臨済宗の観音寺11世・伯元と12世・光秀和尚に師事し、後に京都に出て東福寺で学んだ。永正年間に帰国し、観音寺13世住職となった。
 大永4年(1524年)、弟の長祗が相良長定によって放逐され、翌年に水俣で自害を強いられると、瑞堅は憤激し、兄の長唯(義滋)と共に長定の家督を認めない立場をとった。
 大永6年(1526年)、瑞堅は僧兵や門徒衆を集めて軍勢を立ち上げ、立興寺の亮海なる僧を遣わして、長定の罪を咎め、切腹するように勧めて、従わなければ一戦に交えると告げさせようとした。亮海は一度断ったが、再三の命令で仕方なく従おうとすると、瑞堅は急に考えを変えて、「この期に及んでは使いを遣わすに及ばず」と、直ちに出陣の準備を始めた。
 5月11日夜、瑞堅は観音寺の常塔伽藍に火をかけ、それを合図として人吉城内に攻め寄せた。あらゆる寺院から掻き集められた僧兵・門徒ら200名余がこれに従い、大手門を破って城内に乱入。長定一派は狼狽して八代へと逃亡した。
 もともとは兄・長唯を奉じるつもりであったが、大将として人吉城を攻略してその主となると、瑞堅は俄かに野心を抱き、翌日、還俗して「長隆」と名乗り、通称を太郎として、相良氏の家督を自ら継ごうとした。
 しかし、僧籍にありながら寺院を焼いた暴挙と、その炎によって観音寺の僧舎が尽く全焼し、願成寺の金堂にも延焼するなど大きな被害が出たために僧兵・門徒らの心は離れ、相良一族や家臣も長隆に従わずに一人も登城しなかった。僧ら門徒衆は協議して、長隆に下城させて長唯を迎える方が領内が平静になって領民も安堵するだろうと考え、長隆に永里金蔵院への退去を勧告した。長隆も情勢の不利を察して、5月14日、上村へと落ち延びることとした。長隆は、追手を恐れ、落合加賀守を頼って永里城に立て籠もった。長隆を速やかに討つべきであるとの周囲の声に長唯は促され、当初協力する姿勢を見せなかった一族の実力者・上村頼興から、頼興の嫡子である頼重(後の相良晴広)を養嗣子とすることを条件に先陣の約束を取り付けると、5月16日、長唯は永里城へと攻めかかった。
 寄せ手に守り切れなくなった長隆は、城を出て金蔵院に隠れた。しかしそれも見つかり、僧兵が防戦したが尽く討ち取られたため、院に火を放ち、廊下の竹縁に出ると腹を十文字に掻き切り、西枕に倒れて果てた。享年35。
 長隆は金蔵院(後の安寿寺)に葬られ、墓は21歳の時に自ら建立した逆修の石塔の側にあった。 

相良長定 相良義滋

 父・頼金は、相良長続の長男でありながら不具で病弱であったために家督を継げなかった。頼金は他の城主になることもかなわず、中尾山の館に住んで、一子・長定を残した。
 長定は、自らが正統なる嫡流であるという思いを抱き続けて成長。隠居後も実権を振るっていた長毎が亡くなって、若年で家督を継いだ長祗が自ら家政を掌るようになると、長定の姻戚で、奉行である犬童長広と共謀して謀反を計画するようになった。
 大永4年(1524年)8月24日の夜半、60余人の手勢で人吉城を急襲。相良氏の当主・長祗を放逐して、家督を強引に奪い取った。さらに翌年、薩摩国出水に落ち延びた長祗を誘殺せんと謀り、 長定は恭順を装った書状で、長祗を水俣城に誘い出し、津奈木地頭・犬童匡政に討たせようとした。長祗はこれを忠臣・園田又四郎の助けで一旦は逃れるが、追い詰められて、1月8日に自害。
 こうして長祗を亡き者にしたが、この暴挙を相良家一門は到底納得していなかった。長祗の庶兄にあたる長唯(義滋)と瑞堅(長隆)が激怒して長定の非道を責め立てたため、群臣も長定から離れて、人吉城へ出仕しなくなった。家中で協議したところ、長唯を推戴すべきという意見が多く、長唯の家督相続への祝儀を出すものもあり、家中は両派に分裂した状態となった。
 大永6年(1526年)5月11日、瑞堅が僧兵など200名余を率いて人吉城を夜襲し、長定と長広は周章狼狽して家族を連れて八代に落ち延びた。しかし八代の家臣は長定には従わず、孤立無援の流浪の状態となったため、さらに翌年3月27日には葦北郡に逃れ、8月3日、津奈木城に漸く落ち着いた。
 しかし長唯が人吉城に入って相良氏当主となると、すぐに長定に追手がかけられ、八代・葦北の兵を津奈木に差し向けたため、長定は長子の都々松丸を連れて船で筑後国に亡命した。長唯は、度々使いを送って許しを与えると甘言して、長定に帰参を勧めた。6年後の享禄4年(1531年)、長定はついにこれに従って球磨に帰ったが、長祗の首を葬った法寿寺に滞在中の11月11日、長唯は西法路に命じてその門外で長定を討たせた。長定の遺骸は、人吉城下鬼木戒蔵院屋敷の裏に埋葬された。
 筑後に残った長子の都々松丸は刺客により殺害された。夫人及び第二子の都々満丸は、長定を訪ねて法寿寺を訪れたところを、戒蔵院にいると教えられ、途中の鐘音寺(今の大信寺)で待ち伏せに遭って母子共に殺害された。

 延徳元年(1489年)、人吉城で生まれた。永正9年(1512年)、父・長毎は隠居して嫡子の長祗に家督を譲った。長唯(義滋)は長祗よりも年長であったが、庶子であって宗家を継ぐ立場にはなかった。またもう一人の庶弟・瑞堅(長隆)は、同様の理由の他にすでに出家していたという事情もあった。
 長祗が家督を継いだことで、親族間での争うが勃発。長祗の従叔父にあたる相良長定が犬童長広と謀って長祗を放逐し誘殺、兄弟を殺された相良長唯と瑞堅が長定の人吉城を襲撃し、のちに殺害する。また、長唯は「長隆」と名乗り還俗して自らが家督を相続しようとした弟の瑞堅を追放後に殺害した。こうして、大永6年(1526年)5月18日、 長唯は人吉城に凱旋して、晴れて家督を相続した。
 同年7月13日、相良家中の混乱を突いて日向国真幸院の北原氏(相良氏とは姻戚関係)の軍勢が突如として現れて、人吉城を取り囲んだ。長唯は皆越の地頭・皆越安芸守貞当を呼び寄せるために、僧・樹薫に油紙に包んだ密書を川を泳ぎ届けさせた。皆越貞当は夜に出発すると、長唯に授けられた奇策に従い、点々と篝火を残し、100名余りの手勢も各々松明を手にして、実際よりも多数の軍勢が援軍に来たように見せかけ、さらにこの後も軍兵が参陣すると叫ばせた。これを聞いた北原氏の包囲勢は狼狽して潰走した(大岩瀬合戦)。
 大永7年(1527年)4月3日、頼興の弟・上村長種を古麓城主とし、長定に組して謀反を起こした犬童氏の鎮定を始めた。享禄2年(1529年)3月8日、上村長種は佐敷の犬童一族を攻撃。7月6日には同城を落とし、11月19日には犬童重良の湯浦城(小野嶽城)を落としたため、重良父子は津奈木城へ逃れた。翌年正月5日に津奈木城を攻めて26日に落としたため、相良長定や重良父子はさらに逃亡した。27日、長種は、長祗の首を取った当人である犬童忠匡(匡政)とその息子・左近を捕えて、八代に連行して処刑した。3月には、犬童刑部左衛門長広を捕え、人吉に護送して中川原で斬首した。木上城(岩城)主・犬童重安には賜死が命じられ、重良父子も後に捕まって処刑された。
 同じ享禄3年(1530年)、嫡男のいなかった長唯は、頼興と長隆(瑞堅)追討時に約束していた通り、上村頼重を世子として相良長為と改名させた。
 天文元年(1532年)6月13日、天草の上津浦治種(鎮貞の祖父)が、天草尚種,志岐重経,長島但馬守,栖本氏,大矢野氏の連合軍に攻められた際、16日、長唯は兵を送って治種を助け、7月20日、連合軍を破って大勝した。
 天文2年(1533年)2月20日、大宮司を追われた阿蘇惟長(菊池武経)の息子で、堅志田城主の阿蘇惟前は、相良氏との連携を求めて、政略結婚を要請した。長唯はこれを許して、4月15日、長女を惟前に嫁した。天文3年(1534年)1月16日から3月10日にかけて、長唯は現在の八代市古麓町上り山に鷹峯城(鷹ヶ峰城・古麓城)を築かせ、ここに居を移して、城下町も整備させた。
 天文4年(1535年)3月16日、阿蘇惟前と名和武顕の軍が豊福の大野で合戦し、長唯は阿蘇勢に味方して宇土勢を撃退したため皆吉武真は豊福城を棄てて撤退。同城は再び相良氏の手に落ちた。その後、長唯と名和武顕は互いに契状を交わし、長毎の代に大友義鑑の仲介によって交わされたが、内紛によって反故とされた相良氏と名和氏との和解の約束を再確認した。同年4月8日、頼興は5月18日に使者を遣わして武顕の娘と長為(晴広)の政略結婚をまとめて、翌年12月22日、入輿となった。これによって両家の仲はより強固となった。
 天文4年12月には高来郡より八代を訪れた菊池義宗が、長唯と鷹峯城で会見し同盟を強固にした。高来に帰って後に義宗は義武と改名する。八代では長唯・名和武顕・菊池義武の三者はしばしば会見するなどして友好的な関係が維持された。特に義武は相良氏との親交を密にした。
 天文8年(1539年)3月30日、予てより建造中の渡唐船・市木丸が完成し、八代徳淵(徳淵津)で進水式を行った。徳淵は長唯の時代から相良氏の国内・海外貿易の拠点として発展し、この地域で最大の貿易港となった。長唯は、幕府の対明貿易を一手に任された周防の守護大名・大内義隆と友誼を結び、船団護衛などの名目を取り付けており、琉球やその他とも交易をしていたことがうかがえる。
 天文10年(1541年)に宇土で兵乱が起こると、長唯は兵を出して鎮定に協力したが、天文11年6月15日、(理由は不明ながら)長為(為清)夫人が破鏡不縁を申し出て宇土に帰ってしまったため、相良氏と名和氏と再び不和となり、天文12年1月26日、名和勢が小川に侵攻。相良勢も兵を出して交戦して、高山でこれを撃退した。
 天文14年(1545年)、八代岡の地頭・相良治頼(長続の曽孫)が犬童頼安,宮原玄蕃らと共謀して謀反を起こした。治頼は人吉を目指したが、途中で妨害を受けて真幸院に向い、それから多良木の鍋城に入ろうとしたが、拒否されて通報された。長唯は追討を命じ、耳取原で合戦して撃破。治頼は日向に逃れ、ついで豊後に落ち延び、同地で亡くなった。
 同じく天文14年11月27日、朝廷からの勅使・大宮伊治が大内氏の仲介により、船で八代に来航した。12月2日、勅使は長唯に従五位下・宮内大輔を、為清に従五位下・右兵衛佐に叙任した。同時に勅使は将軍・足利義晴から一字拝領として偏諱を許された旨を知らせ、長唯は「義」の字を与えられて名を「義滋」と改め、為清は「晴」の字を与えられて名を「晴広」と改めた。
 天文15年(1546年)5月1日、為続,長毎以来の式目を改め、義滋は新たに21ヶ条式目を制定した。これは同年8月3日に家督を譲られた晴広によって引き継がれ、彼の名をもって知られる。
 隠居から間もなくして義滋は病によって亡くなった。享年58。

相良晴広 相良義陽

 永正10年(1513年)、相良氏の一族である上村頼興の長男として生まれる。父の頼興は相良氏内部で絶大な影響力を持っていたため、享禄3年(1530年)に長唯より相良氏の内紛鎮圧を援助する見返りとして長唯の養子に長男を入れさせた。これが晴広(当初、長為,為清)である。天文5年(1536年)11月、祖父の洞然(上村長国)より、相良家の家督継承者としての心得等を記した『洞然長状』を送られている。
 天文14年(1545年)12月、将軍・足利義晴から一字拝領を許され、このときに養父・長唯は「義」の字を、為清は「晴」の字を与えられている。
 天文15年(1546年)に義滋が死去し、家督を継いで当主となった晴広は、実父・頼興の後ろ楯を得て、冷静な判断を行い、戦乱の中でも相良氏を安定に導いていった。また大友氏は大内氏との抗争や内紛、島津氏も内紛で肥後に進出できるような余裕は無く、晴広の時代は安定的なものであった。
 天文19年(1550年)、兄の大友義鑑に追われた菊池義武(大友重治)を保護し、義鑑が二階崩れの変で死去し、大友義鎮が大友氏の家督を継ぐと、義武は隈本城に復帰した。義武は甥の義鎮とも対立したが晴広は義武に従い、義鎮に呼応して隈本城へ侵攻しようとした阿蘇氏を撃破した。またその頃、名和行興の家臣・皆吉伊予守武真が叛乱し宇土城を襲撃した隙をつき豊福城を回復、更に行興を義武と盟約させるなどした。しかし、義武は義鎮に敗れ、晴広を頼って肥後へと赴いてきた。晴広は義武を丁重に保護し、伊作家の島津忠良に和睦斡旋を依頼するなどして義鎮と義武の調停に努めたがうまくいかず、義武は後に義鎮の要請に従って豊後に帰る途上で殺害された。
 弘治元年(1555年)、晴広は式目21ヶ条を布告した。これは「相良氏法度」として有名なものである。この「相良氏法度」は相良晴広1人が制定したものではなく、相良氏歴代の当主によって制定されたものに晴広が加筆したものである。第1条から第7条までは相良為続が制定し、第8条から第20条までは相良長毎によって、21条から41条までを相良晴広が制定したものであった。
 弘治元年(1555年)8月12日、八代の鷹峰城で死去。享年43。後を嫡男の義陽が継いだ。 

 天文13年(1544年)2月8日、相良晴広の嫡男として木上村上田の館で生まれた。幼名は万満丸(萬満丸)。同年同日生まれの庶弟に徳千代(頼貞)がいた。弘治元年(1555年)8月12日に父・晴広が死去し、12歳にして家督を継承して人吉城主となった。幼少であったこともあるが、もともと父の時代にも強い影響力を持った外祖父の上村頼興が実権を引き続き握った。頼興は晴広に代って鷹峯城(八代城)に入って輔佐することになった。
 弘治2年(1556年)正月18日、阿蘇氏に外交僧を派遣して和を請うた。阿蘇氏とは菊池義武の騒乱の後から緊張状態のままで、これは上村頼興が若年の主君を奉じて戦う不利を感じて和議を進めようとしたものである。
 2月9日、元服し、初名を頼房と名乗り、通称を四郎太郎とした。
 先代の晴広の頃より薩摩国大口を併合するという野望を相良氏は持っていたが、同地には西原某という勇士がいてこれを阻んでいた。弘治2年(1556年)に相良義滋の次女が菱刈重任に嫁ぎ、この結婚で頼房と重任が相婿となったことから、この機に両者は謀り、大口城主の西原に重任の妹を嫁がせて菱刈氏家臣の栗田対馬を付け、大口城奪取の機会を伺わせた。ある時、西原が病床についたのを見計らい重任は80余名の兵を城中に乱入させて放火。西原は舅の重任を恨みながら火中に没した。重任は大口城を頼房に献上し、それ以後は球磨,八代,芦北の兵1,000を交代で入れ、東弾正忠(長兄),丸目頼美,赤池長任を交番で守らせた。同年7月、東郷相模守が義滋の3女との婚を求めてきたため、頼房はこれを許した。伊作島津氏の島津忠良はこれを祝して大口領を割譲し、その後、3女が東郷家に嫁いでいった。
 弘治3年(1557年)2月21日、上村頼興が死去したため親政を行えるようになったが、このとき、頼房の家督相続に不満を持っていた叔父・上村頼孝が、弟の上村頼堅,稲留長蔵と共に頼房に対して謀反を起こした。3人は頼房を打倒し相良領を分割支配しようとしたが、家臣団の支持は集まらなかった。6月13日に頼堅が斬られ、永禄3年(1560年)に頼孝、永禄10年(1567年)に長蔵も切腹を強いられた。
 永禄6年(1563年)、兼親の叔父・左衛門尉が、伊東氏と相良氏を盟約させ、飯野から島津氏を追い出そうと謀り、島津氏の大明神城を落としたことにより、相良氏と島津氏との関係は悪化した。永禄7年(1564年)2月11日より島津氏の侵攻が開始されるようになる。義陽は堅く城を守るよう命じていたものの、このとき大口城の城番をしていた赤池長任は逆に島津氏の領地へ兵を進めて、筈ヶ尾城を攻撃し、出撃した薩摩勢を一撃してから退いている。
 同年2月、将軍・足利義輝から従四位下・修理大夫の官位と偏諱「義」の一字が与えられて、「義頼」、更に「義陽」と名乗った。このことは相良氏の大友氏からの自立志向を示すものと評価されており、周辺諸国に衝撃を与え、大友宗麟と島津義久が室町幕府に激しく抗議をしている。なお、抗議の理由は、相良氏は従五位下が通例であったが、従四位下へ叙任されたためでないかとされる。その後も室町幕府に献金は行っていたようで、織田信長が中央で勢力を伸ばして足利義昭を擁立し、二条御所修築の費用を諸大名に求めた際には、相良氏の朝廷への貢租7年分に当たる費用を献じている。義頼から義陽と名乗るようになったのは、天正2年(1574年)8月15日からである。
 永禄10年(1567年)11月24日から25日、島津勢が菱刈氏を征伐すると、菱刈氏は10に及ぶ塁を落去し大挙して大口城へ逃れ来る。翌永禄11年(1568年)には、赤池長任は菱刈勢と共に、大口城を攻めて来た島津勢を撃退(大口初栗の戦い)したが、翌永禄12年(1569年)5月、城番の深水頼金の諌めを無視して島津家久と交戦した者は、家久があらかじめ用意していた伏兵により大敗を喫した。また、伊東氏が伊東義益の急死により7月に真幸院より退去したこともあってか、相良勢は9月に大口城を開城、薩摩における領土を失い、菱刈氏も島津氏へ降伏した。これを切っ掛けに島津氏は12月28日に東郷氏,入来院氏を降伏させて、薩摩統一を果たす。
 天正3年(1575年)9月以降、織田信長の依頼を受けた前関白・近衛前久が相良氏をはじめ、島津・伊東・大友の諸氏に和解を勧め、連合して毛利輝元を討つように説得工作にあたった。伊東氏を滅亡寸前に追い込んでいた島津氏の反対によって工作自体は成功しなかったものの、摂関家の長たる前久の来訪は相良氏始まって以来の出来事であり、感動した義陽は前久に臣下の礼を取り、逆に前久も義陽の朝廷に対する崇敬の純粋さに感動し、島津義久に迫って一時停戦を受け入れさせたほどであったという。しかしながら、この和睦には義陽の方が返事を渋っており、義久が前久の要請に従い、起請文を提出したことでようやく実現している。これを機に義陽は内外の文書に対して「義陽」名義の文書を出すようになり、大友宗麟も島津義久に対抗する上で相良氏との関係を重視する方針に転換して、天正5年(1577年)になって義陽に対して偏諱授与の事実を承認した。
 しかし、天正6年(1578年)に島津氏が大友氏を耳川の戦いで破ると、大友に与する阿蘇氏への攻撃を開始して肥後国へ進出、天正7年(1579年)になると相良領へも戦火が及び、天正9年(1581年)に島津義久が大挙して水俣城を包囲すると、義陽は葦北郡の5城(水俣・湯浦・津奈木・佐敷・市野瀬)を割譲し、息子の相良忠房と相良頼房を人質として差し出し、降伏した。
 相良氏を軍門に降した島津氏は、さらに肥後中央部への進出を図り、その途中に立ち塞がる御船城の甲斐宗運を破るため、相良義陽に先陣を命じた。阿蘇攻めの先陣を命じられた義陽は同年12月1日の早暁、軍勢800を率いて古麓城を出陣し、その途次の白木妙見社で戦勝祈願を行う[注釈 11]。義陽は八代から阿蘇領との境にある姿婆神峠を越え、軍勢を割いて阿蘇方の堅志田城と甲佐城に向かわせ、義陽自身は響野原に本陣を布く。
 相良勢出陣の報を得た宗運は、物見によって義陽が響野原に陣を布いたことを聞くと「それは義陽の陣とは思えぬ、彼ならば姿婆神から鬼沙川を渡らず糸石あたりに陣を布くはずだ」と言って俄に信じなかった。更に物見に確認させたところ、まさしく相良義陽であった。宗運は「自ら死地を選んだとしか思えぬ」と言って、義陽の心中を思いやったという。12月2日の未明、宗運は鉄砲隊を先手として本隊を率い、相良勢に気付かれぬよう、密かに迂回して間道を抜け粛々と響野原へ兵を進めた。決戦の日は小雨が降って霧が立ちこめていたと言い、宗運は領内から農民を動員して飯田山に旗を立てさせ、恰も軍勢が集結しているように見せ掛けておいた上で、軍勢を二手に分けて相良勢を挟撃する形で響野原に向かわせていた。
 その頃、響野原に構えられた相良勢本陣は堅志田城・甲佐城を攻め落とし、戦勝気分に浸っていたが、その間に周囲の藪に伏せて布陣を終えていた甲斐勢が一斉に攻めかかった。この宗運の奇襲戦法に相良勢本陣は応戦態勢が遅れ混迷、乱戦の中で相良義陽以下300余の将兵が戦死、相良勢は総崩れとなり八代方面へ潰走した。義陽は落ち延びることを勧める家臣の進言を退け、床几に座したまま刀を抜くことなく甲斐家家臣・緒方喜蔵によって討ち取られた。享年38(満37歳没)。
 『南藤蔓綿録』によれば、この合戦の後に義陽の首実検に臨んだ宗運は涙を流して合掌し、「約定を破ったからには儚く討たれてしまったことも是非もなし。しかし相良が堅固であったからこそ阿蘇も無異で我らも永らえることができていた。義陽公亡き今は頼るべき人もなく、我らも三年ほどのうちに滅びるであろう」と、心ならずも島津の命に従わざるを得なかった義陽の立場に同情し、己の死をもって盟友に詫びていった義陽を哀悼して止まなかったという。
 義陽の死後、重臣の深水宗方,犬童休矣らが島津氏と交渉して嫡男の忠房を補佐し、次男の頼房は出水において島津氏の人質となった。しかし天正13年(1585年)に忠房が死去したため、頼房が相良家の家督を継いだ。相良氏は島津氏の指揮下にあって、その九州統一戦に活躍した。
 墓(首塚)は鮸谷に建てられたが、肥薩線開通の折に線路上に被らないよう墓は5,6mほど移動され、遺品も人吉に移された。また多良木永昌寺に供養塔がある。また響野原の義陽が討たれた地は元々往還路で、その地が人馬に踏まれるのを危惧した犬童頼安が土手を築かせ供養碑を建立した。現在は「相良堂」として祀られている。

相良頼 相良忠房

 天文13年(1544年)、相良晴広の次男として生まれるが、偶然にも腹違いの長男・義陽と同じ日に誕生した。その気性はたいへん荒く、これを憂えた父・晴広により出家させるようにと遺命されていたため、弘治2年(1556年)、永国寺に入れられ泰雲和尚に弟子入りして「奝雲祖栄」と称する。 しかし、元来武勇を好む性分であったため、20歳を過ぎた頃に勝手に還俗し八代に住むようになった。その後、島津氏の水俣城攻めが開始される前後に義陽と対立、八代の谷山に押し込められたが逃げ出し、飯野(あるいは栗野とも)に移り住んだという。
 天正9年(1581年)12月2日に義陽が響ヶ原にて戦死すると、その後継に座ろうと同月22日に飯野から出兵して常秀寺へと入った。これに多良木城主の岩崎加賀が同調している。またこの際に頼貞は人吉城を攻撃したらしく、この戦いにより岡本頼氏が負傷、その体内から火縄銃の玉が2個摘出されている。深水長智は頼貞の元へ出向き、「人吉城の者は頼貞に従う意志があるが、上球磨の者達の意志が不明であるため、出向いてほしい」との虚言を伝え、それを承諾して上球磨へと出向いた頼貞勢を島津勢が囲み、この謀反を成功させる難しさを説く。頼貞はこれに諭され岩崎加賀と共に兵を退き、日向国へと去った。
 その後の消息は不明。日向国の伊東氏を頼ったとの史書もあるが、この頃、既に伊東氏は日向国を追われており不可能である。 なお、子孫は栗野に住んだという。

 元亀3年(1572年)、第18代当主・相良義陽の長男として生まれる。難産であったと云う。天正9年(1581年)、島津氏の侵攻の前に降伏する際、亀千代は弟の長寿丸(頼房)と共に島津氏への人質として差し出された。
 同年、義陽は島津義久より再三、阿蘇氏攻めを要請されて、阿蘇氏との不戦の誓文を破って出陣。この決意を聞いて相良氏の忠誠を信じた義久は人質を帰還させたが、12月2日、響野原で義陽は甲斐宗運と戦って討死した。
 義久は、相良家との和議が棚上げとなることを警戒した。しかし、相良氏の家老・深水長智(宗方)の働きによって亀千代の元服と家督相続が決まると、義久は和議の継続を悦び「永々相違あるべからず」とした。そして亀千代は、四郎太郎を通称とし、島津氏の通字の一つである「忠」の字を贈られて「忠房」と名乗り、深水頼金,深水宗方,犬童頼安(休矣)を奉行として、相良氏の第19代当主となった。
 ところが、父・義陽の相続にも反対した叔父・相良頼貞が同年同月22日、加久藤で薩兵を集めて蜂起し、人吉に向かった。人吉の相良衆は皆抵抗し、薩兵を城に入れまいと一触即発となった。深水長智とその子・摂津介、犬童休矣とその子・頼兄は、計略をもって頼貞を言いくるめて上球磨に向かわせ、その間に義久に援助を頼んだ。義久は、使者・久無木狩野を遣わして頼貞を説得し、身柄を日向伊東家に預けることにして、乱を未然に収めた。
 天正10年(1582年)2月、四郎次郎(長寿丸)が薩摩に人質として再び入った。3月、湯山と湯前の地頭が頼定に従って反乱を企てているという誣告があり、宗方と休矣がこれを謀殺した。天正11年(1583年】7月、仇である甲斐宗運が親族に毒殺された。
 天正12年(1584年)、相良衆は島津家久の肥前遠征に参加し、島津氏による肥後の制圧にも貢献した。天正13年(1585年)2月、忠房は疱瘡を患い、寺社に祈祷を命じたが、ほどなくして死去した。享年14。富ヶ尾山の了清院に葬られた。
 跡は弟の四郎次郎が継ぎ、末弟の藤千代(相良長誠)が人質として代るために薩摩に向かった。

相良長誠

 19代当主・忠房,20代当主・頼房の同腹の弟として生まれる。天正13年(1585年)、忠房が病死し、島津氏の人質となっていた頼房が家督を継ぐことになったため、頼房に代わり薩摩国出水に半年程人質として過ごした。天正15年(1587年)4月、豊臣秀吉が九州征伐で八代まで進軍した折、島津氏を救うべく日向国へ出征していた頼房に代わり、深水長智に伴われて秀吉へ降伏すべく謁見している。
 その後は、中城に居室を構えて移り住み、家老の深水頼蔵の娘と婚姻した。しかし、頼蔵が相良家を出奔したために離別することとなる。長誠は悲嘆にくれ、その後に重い病を発症した。ようやくそれが癒えた頃、伯耆頼綱の娘を後室として迎えたが、病気が再発したことで再び離縁している(離縁した両方ともが、家老の犬童頼兄の催促によるもの)。 それからは長い養生生活を強いられ、更には膈(胃の周辺)の病を発症したことで衰弱し、慶長15年に中城にて病没、永国寺に葬られた。