<藤原氏>南家

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相良長寛 相良頼徳

 宝暦元年(1751年)12月6日、備前岡山藩主・池田宗政の次男として生まれる。幼名は護之進。のち初名の政長を名乗る。
 外祖父にあたる第6代筑前福岡藩主・黒田継高は、実子の重政,長経を相次いで亡くし、跡継ぎがいなかった。このため、継高と重臣たちは評議の上で、継高の長女・藤子が嫁いだ岡山藩池田家から外孫である政長を養子に迎えることに決定した。しかし、幕府の要請により一橋宗尹の5男の隼之助(後の黒田治之)を養嗣子に迎えることとなったため、この養子縁組は破談になった。宝暦13年(1763年)のことである。
 それから数年間を実家の池田家で過ごした後に、明和6年(1769年)3月5日、第10代人吉藩主・相良福将が死去した際に、末期養子として家督を継いだ。同年3月15日、将軍・徳川家治に御目見した。同年4月28日、藩主として初めてお国入りの許可を得る。同年5月4日に江戸を出発し、6月16日に人吉城に入った。お国入りにあたって、板倉勝興の3男・至親を仮養子に指名した。明和7年(1770年)12月16日、従五位下・壱岐守に叙任された。安永3年(1774年)11月15日、長泰(政長から改名)から長寛と名を改めた。
 天明2年(1782年)8月、山田村伝助が真宗禁制の掟を破って信仰しているとして捕縛し、処刑するという事件が起こった。同年から天明5年(1785年)までは天明の飢饉に苦しんだ。また、長寛は学問を好んで細井平洲に学び、東白髪らを挙用して、天明6年(1786年)に藩校「習教館」を創設し、天明8年(1788年)には武芸道場「郷義館」を創設する。
 享和2年(1802年)2月5日に庶長子の頼徳に家督を譲って隠居し、文化10年(1813年)4月26日に死去。享年63。 

 安永3年(1774年)5月16日、第11代藩主・相良長寛の長男(庶長子)として生まれる。はじめ世子は嫡子(正室の子で次男)の義休と決まっていたが、義休は寛政4年(1792年)9月25日に江戸にて乱心し、樅木九郎兵衛を斬殺したため、寛政5年(1793年)1月28日に廃嫡され、代わって頼徳が世子に指名された。寛政6年(1794年)12月16日に従五位下・志摩守に叙任する。享和2年(1802年)2月5日、父の隠居により家督を継ぐ。
 藩政においては、藩財政再建を目指して田代政典を家老に登用し、文化4年(1807年)に五人組制度の再建、文化8年(1811年)には検地による年貢増収、そのほかにも新田開発,専売などを行った。
 文政元年(1818年)10月6日、長男の頼之に家督を譲って隠居し、安政3年(1856年)10月1日に死去した。享年83。 

相良長福 相良頼基

 文政7年(1824年)閏8月19日、第13代藩主・相良頼之の長男として生まれる。天保9年(1839年)12月16日、従四位下・遠江守に叙任する。天保10年(1839年)7月17日、父の隠居により家督を継いだ。
 この頃、藩では祖父・頼徳の時代からの家老である田代政典によって、藩財政再建を中心とした藩政改革が行われていた。田代の改革は一時的には財政再建を成したが、その一方で農民が苦しみ、また知行を削減された藩士の間でも改革に対する不満が高まっていた。
 このような中で天保12年(1841年)2月、改革の一環として豊後より椎茸栽培を導入し、座(特権商人制度)を設けたことにより、作物への課税や椎茸山への入山禁止などに不満を抱いた藩内一円の農民約1万人が、特権商人宅などに打ちこわしを行った。この事件により、政典は引責自害し、座が廃止されることで事件は収拾した。ところが、天保13年(1842年)、一揆を煽動したとして門葉(相良一族)の相良頼直(左仲)も切腹となった。これは、改革をめぐっての家老派と門葉派による対立があったものとされている(茸山騒動)。
 その後も天災が相次いで藩財政は苦しく、また長福は軍備の近代化を目指して洋式軍制への改革を推進したが、これが皮肉にも後の丑歳騒動につながった。安政2年(1855年)7月12日、江戸からの帰国途中に発病し、まもなく帰国して病死した。享年32。長男の頼紹が幼少のため、弟の頼基が養子となって跡を継いだ。

 天保12年(1841年)5月12日、第13代藩主・相良頼之の4男として生まれる。安政2年(1855年)に兄で第14代藩主の長福が死去した。このとき、長福には実子の頼紹がいたが幼少のため、弟である頼基が養子となって家督を継いだ。
 この頃、人吉藩では西洋式軍隊の導入の必要性を感じ、松本了一郎を起用してオランダ式の軍制改革に乗り出した。了一郎の一派は佐幕であり洋式派と呼ばれた。一方、江戸時代初期からの伝統である山鹿流軍制を守ろうとする家老・新宮行蔵らは勤王派であった。こうした軍制と政治の対立があったが、文久2年(1862年)2月7日夜に人吉藩の武器庫が焼失したことを契機に、洋式派は古きを復活させるより新しきを目指すべきとして頼基に提言して認められ、洋式派が優勢となり、薩摩藩から5000両を借用するなどしてオランダ式軍制への改革が推進された。
 ところが、慶応元年(1865年)、了一郎が頼基を廃して、本来の正統な藩主である頼紹を擁立しようとする陰謀があるという噂が流れ出す。この真偽は定かではないが、これに反発した勤王派は9月25日に了一郎らを襲撃し、洋式派14人を上意討ちにし、逆に勤王派が主導権を掌握した。その後、山鹿流,オランダ式とも廃止され、薩摩藩よりイギリス式軍制が導入された。一連の騒動から藩内の改革が立ち遅れることとなり、慶応4年(1868年)の戊辰戦争でも、薩摩藩と協力して会津藩攻撃に加わる程度にとどまった。
 明治2年(1869年)6月22日、版籍奉還により藩知事となり、明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県で免官され、人吉県令となった。11月に人吉県は八代県に合併し、職を離れた。明治8年(1875年)5月、家督を養子の頼紹に譲り隠居し、明治18年(1885年)6月30日に死去。享年45。

相良頼紹
 人吉藩13代藩主相良長福の長男。子爵となり貴族院議員。父が没した時は幼少であったため、叔父の頼基が14代藩主となる。頼基の養子となり、明治8年(1875年)5月22日、頼基が隠居し家督を継ぐ。明治14年(1881年)、伊藤博文の憲法調査に随行する。明治17年(1884年)7月8日、子爵に叙爵。大正13年(1924年)に死去。頼基の子の頼綱が家督を継いだ。