<藤原氏>南家

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相良長毎(頼房) 相良頼寛

 天正2年(1574年)5月4日、相良義陽の次男・長寿丸として生まれた。義陽の代より相良氏は、宿敵であった島津氏の支配下となる。天正9年(1581年)に響野原の戦いで父・義陽が戦死すると、10歳の兄の亀千代が家督を継ぎ、家臣の深水宗方と犬童休矣がこれを輔佐することになった。両人は協議してこの難局を切り抜けるために義陽の他の一子を島津義久に人質として出すことで家の安泰を図ろうと考え、井口八幡神社で籤をして8歳の長寿丸が吉を得た。亀千代は元服して四郎太郎、長寿丸は元服して四郎次郎という通称を名乗り、義久に四郎次郎が人質として薩摩に入ることを願い出ると、義久は喜び、改めて四郎太郎に島津家先祖の忠の字を偏諱として与え、忠房と名乗らせた。
 翌年、四郎次郎は兄より頼房の名を賜り、人質として薩摩国出水に送られた。しかし天正13年(1585年)2月、忠房が急逝したため、弟の藤千代(長誠)と人質を代わって、12歳で家督を継承した。
 以後も島津氏に従うが、大友氏攻め従軍が命じられ、8月10日、島津義弘の配下として、家臣の深水宗方,犬童休矣と頼兄親子が若い主君に代わって球磨の兵を率いた。御船で大友側の阿蘇勢と戦った後、10月、日向道から豊後国に侵攻する島津義久・島津義弘の軍勢に加わった。天正14年(1586年)1月、高森城攻囲戦に参加。この戦いで深水宗方は一子の深水摂津介を失った。球磨勢は隈府城に駐屯し、島津勢が肥後国を席巻するのを助けた。さらに筑後・筑前への攻撃にも球磨勢は加わった。
 天正15年(1587年)には島津氏はほぼ九州を平定したが、豊臣秀吉の九州征伐が動き出して一気に情勢が変わった。犬童休矣は伊集院三河守と共に豊後の萱迫城にいたが、3月18日に阿蘇の坂梨城に退却した。深水宗方は伊集院忠棟と共に同じく豊後の切禿城にいたが、葦北に退却。島津勢の総崩れとなって薩摩に撤退する中で、球磨勢も人吉に撤退した。
 豊臣秀長が耳川を渡って山田有信の守る高城を包囲すると、島津義久・島津義弘は救援に赴くことになり、頼房も犬童休矣を従えて出陣し、日向国で合流した。他方、4月15日に秀吉が八代に入ったことを聞いた深水宗方は、すでに戦利なしとして、相良長誠を奉じて八代に赴き、秀吉の陣所に伺候して所領の安堵を切に哀願した。秀吉は深水宗方に同情し、所領安堵を許した。深水宗方はすぐに使者を日向に送った。頼房は17日にこれを知ってすぐに陣払いをしたので、寸前で根白坂の戦いに参加しなかったが、球磨の士の何人かはこれを潔しとせずにそのまま島津義弘の家臣となった。
 4月23日、佐敷に入った秀吉の元に馳せ参じ、頼房は深水宗方と犬童休矣をつれて拝謁した。以後、秀吉に仕えることになり、豊臣側に寝返って球磨勢も薩摩に侵攻した。九州平定後、大平寺の秀吉陣所には、深水宗方が名代として勤めていたが、彼が連歌の達人であることを推薦する者があって、秀吉の前で歌を詠み、その外征の意をすでに知っていたかと喜ばれ、大坂に来て直臣になるようにと言われるほど大変気に入られた。深水宗方はこれを固辞するが、秀吉の彼への高評価が相良家にとって大いに利益となった。
 天正15年(1587年)、頼房は宮内大輔を名乗るようになった。新たに肥後領主となった佐々成政の統治に国人衆が反発して肥後国人一揆が起こると、秀吉は島津義弘と伊集院忠棟に一揆鎮圧の助成するよう命じたが、成政はこれを疑い、乱に乗じて自分を攻め殺そうするものと勘違いして、頼房に檄を飛ばし、義弘らの入国を阻むよう要請した。頼房はこれに従って佐敷で防戦。伊集院忠棟がすぐにこれを注進したため、秀吉は激怒した。深水宗方が急ぎ大坂に赴いて、秀吉に陳謝して行き違いを説明し、島津氏と和解すべく働いたので、肥後国人衆が尽く罰せられる中にあっても、相良家は何とか処罰を免れた。しかし功臣・深水宗方も天正18年(1590年)に亡くなった。
 天正20年(1592年)2月1日、頼房は青井阿蘇神社に参詣して目前に迫った外征祈願をし、そこで深水頼蔵と犬童頼兄(軍七)に相良姓を与え、頼蔵を自らの軍師に頼兄をその補佐役と定めた。両名は不仲であり、陣中で不和を起さぬように誓書を交わさせた。しかし、名護屋城在陣中に両名は諍いを起こし、深水頼蔵は国許に帰ってしまった。竹下監物(深水一族)がこれを諭したので、結局、頼蔵は出征することになった。
 文禄元年(1592年)、文禄の役が始まると、頼房は深水頼蔵や犬童頼兄と共に760余人(他説では800人)を率いて出征して、加藤清正配下の二番隊に属した。ところが遠征中、国許では騒動が起きていた。竹下監物の一族の1人が出征拒否を理由に領地を没収されたのを、監物は犬童一族の陰謀と思い、湯前城に立て籠もり、犬童氏を滅ぼそうと檄を飛ばすという事態に発展していた。領国の乱は朝鮮にいた頼房の耳にも届き、深水頼蔵を疑って責めたが、彼は知らぬと言い、関与を否定した。文禄3年(1594年)8月15日、頼房は朝鮮より家臣を派遣して監物に切腹を命じた。上意に誰も逆らえず、監物とその二子,郎党ら数名が腹を切って事は収まったが、この騒動は長く相良藩の禍根となった。
 頼房は、文禄4年(1595年)に犬童頼兄を先に帰国させて休矣と共に領国の鎮撫を命じた。慶長元年(1596年)に帰国した際、途中まで同行した深水頼蔵は(暗殺を恐れて)加藤清正の元に出奔し、実父の深水織部も同じく出奔した。頼兄はその妻子を軟禁したので、竹下監物の旧臣ら数十名が湯前から人吉にきて奪還を図り、再び騒動となった。奪還は諌止されたが、関係のない町家で殺傷事件が起こされた。頼蔵は加藤家領の佐敷に入り、それを追って深水一族から出奔者が相次いだが、これを犬童頼兄は監視させ、頼房の命をうけて73名を一挙に誅殺した。これは私闘を禁じた秀吉の惣無事令の明確な違反であり、頼蔵が清正を通じて訴え出たため、奉行である石田三成が頼蔵と頼兄を呼び寄せて吟味することになった。しかし頼兄は弁が立つ上に、石田三成は加藤清正に敵意があり、頼兄に一方的に味方した。
 慶長の役が始まると、再び頼房は出征して加藤清正の配下となり、特に安辺城の防戦と、蔚山城の戦いで功を挙げ、秀吉から感状を与えられた。頼房は戦利品として朝鮮人捕虜を数十名連れ帰ったが、彼らを住まわせた場所が唐人町(現在の人吉市七日町)で、その中の陶工が開いた窯が、上村焼窯である。
 慶長4年(1599年)1月、後陽成天皇より従五位下・左衛門佐に叙された。また、豊臣姓を下賜された。
 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、初めは石田三成の檄に従い、頼房は犬童頼兄を従えて上京。西軍に加わって伏見城の戦いなどに参加し、相良家臣・神瀬九兵衛は先登の功をあげた。しかし他方で、頼兄は、家康家臣の井伊直政と内通して謀議を進めていた。9月15日、関ヶ原本戦で西軍が壊滅すると、頼房は同じく大垣城に籠城していた秋月種長・高橋元種兄弟(彼らも水野勝成の工作で内応していた)と共同で東軍に寝返り、熊谷直盛,垣見一直,木村由信・豊統父子らを城内で謀殺し、東軍に降伏した。頼房と頼兄は不承不承に西軍についたと主張し、井伊に内通していたことから家康に所領を安堵され、人吉藩2万石の初代藩主となった。
 慶長9年(1604年)6月、頼房は伏見にいた老母・了信尼を江戸に人質として差し出したが、これは西国の大名の母としては最初の江戸詰の例だったため、徳川秀忠は喜び、備前実長の刀を授け、老母にも終生月俸50口を与えた。
 大坂の冬陣には出陣せず、夏の陣には一応出征したが、到着した時には戦闘はすでに終わっていた。
 慶長12年(1607年)、頼房は嫡子・長寿丸を連れて駿府で家康に拝謁し、江戸でも秀忠に拝謁した。このとき長寿丸は頼尚と名を改めた。元和元年(1615年)、椎葉山騒動があって相良藩も鎮圧に参加したが、幕府軍の山中での戦いは難航。結局は、数百名が斬首され、椎葉村一帯が天領となるが、鎮圧の功績が秀忠に評価されて、その管理と実質的な支配は隣接する相良藩に任された。
 寛永6年(1629年)、江戸にて名乗りを替えて左衛門佐を主に用いるようになった。寛永9年(1632年)、年老いた頼房は大垣城で裏切り殺した面々と石田三成の追善供養を頼兄に命じた。寛永13年(1636年)6月13日に死去。享年63。

 慶長5年(1600年)12月13日、初代藩主・相良頼房の長男として生まれる。寛政13年(1636年)、父の死去により家督を継ぐ。寛政14年(1637年)の島原の乱では、自らは江戸に参勤していたため、家臣を出陣させた。
 寛政16年(1639年)、頼寛は父の時代からの重臣である犬童頼兄を「専横の士である」として幕府に訴えた。これにより頼兄は幕府に召還され、小田原藩仮預かりの身となる。この間に江戸屋敷より国許への使者として、神瀬外記が遣わされた。遣いの内容は、頼兄の養子・犬童頼昌を引き続き藩士として取り立てる、というものであった。しかし、「お下屋敷」と呼ばれる頼兄の屋敷に呼ばれた外記は、頼昌らに殺害された。これは頼昌が養父の身を心配し、またこれは謀略だと疑ったためだとされている。そして頼兄の一族はお下屋敷に立て籠もり、藩兵がこれを取り囲んで戦闘となった。結局、頼兄の一族181人が全員が討ち死に、または自害により死亡した。そして頼兄も寛政17年(1640年)、幕府の裁定により津軽藩に流刑となった(お下の乱)。
 正保2年(1645年)3月、300石取りの上士である村上顕武が、一族を招いて先祖供養の法要を行っている最中に、顕武の養子である万江角兵衛とその実兄である柳瀬長左衛門が乱入し、一族約70名を惨殺した事件が起こる。直後に角兵衛と長左衛門は自決しているため、事件の詳細は現在でも明らかではないが、原因は村上顕武に嗣子が無く、跡継ぎとして万江角兵衛を養子として迎えようとした。ところが角兵衛の生母の出自が低身分だったために、顕武の妻が養子縁組に反対して夫に訴え、顕武も養子縁組を一時中断したために起こった事件であるとされている(村上一族鏖殺事件)。
 寛文4年(1664年)閏5月7日、長男・頼喬に家督を譲って隠居し、寛文7年(1667年)6月29日に死去した。享年68。

 

相良頼喬 相良頼福

 寛永18年(1641年)5月25日、第2代藩主・相良頼寛の長男として生まれる。寛文4年(1664年)閏5月7日、父の隠居により家督を継ぐ。藩政では土木工事に尽力した。寛文2年(1662年)より、藩士の林正盛が頼喬の許可を得て、自費で球磨川を開削。寛文5年(1665年)完成し、下流の八代まで船での行き来が可能となり、領内の発展に大きく貢献した。
 貞享4年(1687年)、真宗信者の男女14人が川辺川(球磨川支流)に入水自殺するという事件が起きた。人吉藩は、薩摩藩と共に真宗の信仰を禁止していた。ところが密告により信仰が発覚し、頼喬が捕り手を向かわせる前に集団自殺を図った事件である。
 元禄16年(1703年)1月24日に死去した。享年63。5人の男児は早世していたため、従弟で正室・於亀の兄弟でもある頼福が養子となり跡を継いだ。 

 慶安4年(1651年)、第2代藩主・相良頼寛の弟・相良長秀の次男として生まれる。初名は長房。元禄元年(1688年)、第3代藩主・頼喬が正室の於亀の間にもうけた頼泰、継室の月仙院との間にもうけた頼真が相次いで早世したため、元禄3年(1690年)4月に頼喬の養子となった。同年7月に将軍徳川綱吉に拝謁し、従五位下・志摩守に叙任される。元禄16年(1703年)4月、頼喬の死去により家督を継ぐ。
 宝永2年(1705年)、前年の大水害を受けて、頼福は上野国利根川,武蔵国荒川で改修普請を命じられ、同役の出羽久保田藩・佐竹義格,松平頼昌(松平大膳家),出雲広瀬藩・松平近朝と共に任にあたり、この功で時服十領を賜る。藩政においても水害の対策に追われており、財政は厳しかったが、宝永7年(1710年)4月より五木村逆瀬川赤岩谷の銅山の採掘を開始した。
 正徳2年(1712年)9月16日、病気を理由に長男の長興に家督を譲り、幕府の許可を得て隠居。正徳4年(1714年)5月には剃髪して梁誠と号した。享保5年(1720年)3月5日に死去した。享年70。 

相良頼峯 相良頼央

 享保20年(1735年)9月29日(異説として享保18年(1733年))、第6代藩主・相良長在の長男として生まれる。元文3年(1738年)の父の死去により跡を継いだ。しかし幼少であることから、幕府より領地を削減されることを恐れた家臣団が、頼峯の生年を2年ほど改竄したと言われている。
 享保の飢饉による被害で藩財政難に苦しみ、倹約令を出す。しかし効果はなく、宝暦5年(1755年)に藩内を大洪水が襲って大被害を受けた。翌宝暦6年(1756年)8月に頼峯が江戸に出府しているとき、家老(大衆議派)の万江長右衛門ら5人は、逼迫する藩士の生活を助けるために藩の銀を貸し出し、返済方法は藩士の知行から年賦払いにするという改革案を提示する。これに対して門葉(相良一族で小衆議派)である相良織部,相良頼央らは、その返済方法では藩士の知行はどのみち削減されて一層貧困に苦しむとして反対したことから、家老と門葉による対立が起こった。これに対して、頼峯ははじめ門葉を支持し、さらに自分に継嗣が無かったことから、頼央を自らの養子として迎えるまでにいたった。養子縁組に対して家老一派は反対したが、頼峯は押し切った。ところが、藩医の右田立哲なる者が門葉一派の指示を受けて頼峯を毒殺し、頼央を擁立しようとする陰謀が発覚する。この事件で右田は自殺し、門葉一派も処分され、頼峯は一転して家老一派による改革を承認した。
 宝暦8年(1758年)4月12日(4月14日とも)に江戸参府の途上に発病し、江戸到着後に死去した。享年24。この若さのため、一説に毒殺ともされている。跡を養子の頼央が継いだ。

 

 元文2年(1737年)7月3日、第6代藩主・相良長在の次男として生まれる。母は側室・於要。長在の死去の時点で幕府に出生が届けられていた男子は正室・寿昌院所生の嫡男頼峯のみだったため、頼央は前藩主の実弟であるにもかかわらず、公にはこれを長在の長女・為姫と一門の相良頼直の子を養子に迎えたということにした。公的な系譜の『寛政重修諸家譜』には頼峯の甥、家中の資料『探源記』『相良家譜』には頼峯の弟と記載されているのはこのためである。
 宝暦8年(1758年)に頼峯が死去したため、その末期養子となって家督を継いだ。宝暦9年(1759年)6月から人吉に入って藩政を執るが、同年閏7月15日に薩摩瀬屋敷「観欄亭」で休養していたところ何者かに鉄砲で撃たれて負傷し、その傷がもとで1か月後の8月3日に死去した。享年23。
 銃声が聞こえたのだから暗殺に他ならないとして、人吉藩の一部からは背後関係の調査を訴える声が上がったが、藩上層部は聞こえたのは子供の遊戯による竹鉄砲(爆竹)と結論してこれを病死として処理した。故にこの暗殺事件は「竹鉄砲事件」と呼ばれることになる。事実関係は明らかにされなかったものの、当時からこの暗殺の背景には前藩主時代から対立していた相良氏の一門が関与していたことが噂されていた。
 事件後、急遽、寿昌院の弟である日向高鍋藩主・秋月種美の3男・晃長を末期養子として迎え、家督を継がせた。これで人吉藩の取りつぶしは避けられたものの、相良家の血統は断絶、以後、人吉藩では10年間に4代の藩主を次々に他家から迎えるという混乱の時代に入る。 

相良晃長 相良頼完

 宝暦9年(1759年)から宝暦12年(1762年)まで藩主の地位にあり、公式には第9代藩主とされる1人目の人物である。
 宝暦2年(1752年)2月20日、日向国高鍋藩の第6代藩主・秋月種美の3男として誕生。兄は出羽国米沢藩の第9代藩主・上杉鷹山(治憲)。
 宝暦9年(1759年)12月11日、頼央が暗殺されたため、末期養子に迎えられて家督を継いだ。相良家と秋月家の間には、領地が近いという関係の他、6代藩主・相良長在の正室・寿昌院が秋月家出身(種美の姉で晃長の伯母)という縁もあった。頼央の生前に仮養子として届出されており、当初は兄の松三郎(鷹山)が養子に望まれていたが、既に上杉家との養子縁組の交渉が進行中だったため、代わって弟の長次郎(晃長)が指名された。
 生来病弱であった晃長は、3年後の宝暦12年(1762年)2月4日に早世した。享年11。
 当然、継嗣はなく、秋月家と同様に相良家の縁戚に当たる大納言・鷲尾隆熙の子である頼完を新たな藩主として迎えた。しかし、頼完は晃長より年長で、さらに17歳未満では末期養子は認められないことから、人吉藩では無嗣断絶による改易を恐れて、晃長の病状は回復し、その後に頼完と改名したということにした。つまり、幕府には晃長と頼完を同一人物であるということにして処理し、さらに公式系譜も改竄した。

 寛延2年(1749年)、羽林家公家の大納言・鷲尾隆熙の子として生まれた。
 宝暦12年(1762年)に第8代藩主・相良晃長が死去すると、鷲尾家と相良氏は縁戚関係に当たることから、その跡継ぎとして藩主に擁立され、人吉藩内において極秘のうちに宝暦12年(1762年)12月15日に家督を継いだ。
 しかし、10歳で死去した晃長に末期養子を迎えるのは難しく(17歳以下での末期養子は認められていなかった)、さらに頼完は晃長より3歳年長であり、幕府に認定されず無嗣断絶で改易になる可能性が高かった。それを恐れた藩の重臣たちが、幕府には晃長が全快して頼完と改名したと説明し、晃長と同一人物ということにされたので、公儀への記録では宝暦9年(1759年)12月11日に家督を継いだことにされている。
 明和2年(1765年)2月15日、将軍徳川家治に御目見した。同年12月18日、従五位下・近江守に叙任される。藩政においては明和期の天災により、藩財政難で苦しんだ。明和4年1月17日に死去、享年19。跡を養子の福将が継いだ。
 天明5年(1785年)に対馬藩主・宗猪三郎(義功)が将軍家治に御目見せずに死去した際、対馬藩家老が幕閣に内々に折衝したところ、幕閣より判元見届使の対馬派遣の不可欠である旨と、他家において藩主急死の際に別人を替え玉に仕立てた例の存在を示唆され、これにより対馬藩においてもすり替え工作(弟の富寿が替え玉となる)が行われることになった。このため、人吉藩の藩主すり替えは幕府に察知されていたが、問題にされていなかった可能性がある。 

相良福将 相良頼直(織部)

 明和4年(1767年)3月5日、(2人目の)第9代藩主・相良頼完が死去した。当初、相良家の重臣は幕府に秋月種武の弟・種穀との養子縁組を願った。しかし、老中・松平武元は、年齢の高いことや異姓であることを指摘して却下し、人吉藩主家の別の姻族か、武元が推薦する実弟・遠山友明の次男・友充(後の福将)のどちらかを要請した。相良家の姻族に他に適当な人材もないので、相良家の重臣は友充擁立案に同意し、友充を末期養子に迎えた。
 こうして、遠山友充改め相良福将は、相良頼完の末期養子として人吉藩主を継いだ。同年4月15日、将軍・徳川家治に御目見する。同年12月16日、従五位下・越前守に叙任する。
 明和4年1月に、米良山騒動が起こって182人が処罰されるという事件が起きている。藩政においては洪水や旱魃が相次ぎ、2万石の収入が1万4000石程度まで激減したと言われている。ただし学問には熱心で、後に藩校が創設される基礎を築いた。
 明和6年(1769年)1月12日に死去、享年20。若死にのため、一度もお国入りすることはなかった。跡を養子の長寛が継いだ。 

 人吉藩の第5代藩主相良長興の弟・相良栄長を父とする。織部は栄長の長男であり、一族として人吉藩政に参与した。元文元年(1736年)には藩の大目付である平山清左衛門と共に門葉(相良一族で小衆議派)として一族家臣の知行半減に反対し、当時、藩政改革を行なっていた家老派(大衆議派)の万江長右衛門らと対立した。この対立には第7代藩主・頼峯の継嗣問題も絡んで騒動に発展し、頼峯の毒殺を門葉一派が謀ったとして織部は失脚した。
 織部の死後、その家督は第12代藩主・相良長寛の3男である頼匡が養子として継いだ。

 

相良頼直

 文化7年(1810年)4月1日、人吉藩の第12代藩主・相良頼徳の3男として人吉で生まれた。当初、内田氏の養子に出されたが、叔父の相良織部頼匡の子・相良頼為が死去したため、頼匡の養子となって跡を継いだ。しかし、藩政の主導権をめぐって家老の田代政典と対立する。
 このような中で、天保12年(1841年)2月に茸山騒動が起こる。田代が改革の一環として座(特権商人制度)を設け、豊後国より椎茸栽培を導入したことにより、椎茸山への入山を禁止するなどしたことに不満を抱いた藩内一円の農民約1万人が、特権商人宅などに打ちこわしを行った事件である。この事件により政典は引責自害し、座が廃止されることで事件は収拾した。このとき、田代の責任を追及したのが頼直である。このため悪政を行った田代を成敗した正義の味方として、頼直は領民から信望を集めたといわれる。
 しかし天保13年(1842年)2月21日、登城すると同時に藩主・相良長福の命令で切腹を命じられた。享年33。信任していた田代を自害に追いやったことを長福が恨んでいたためといわれる。死後、頼直は領民に慕われて「左仲様」と呼ばれたという。
 ちなみに、当時の大衆議派(相良一族ではない武士)の家老の家禄は、家禄の自発的返上の影響などもあってか概ね300石、田代政典でも250石であるが(実質高はその約1/3)、そんな中にあって頼直の家禄は800石に及んでいた。頼直死後、その跡を継いだ福直には、300石を減らした500石が扶持されている。