<藤原氏>南家

F044:工藤家次  藤原乙麻呂 ― 藤原為憲 ― 工藤家次 ― 伊東祐清 F045:伊東祐清

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伊東祐清 伊東祐光

 伊東祐親の次男で、諱は祐兼,祐長,祐氏,祐忠とも。源頼朝の乳母である比企尼の3女を妻としており、伊豆の流人であった頼朝と親交があった。安元元年(1175年)9月頃、平家の家人である父の祐親が頼朝を討とうとした際、頼朝に身の危険を知らせて逃がしている。『曾我物語』によると、自身の烏帽子親であることから、北条時政を頼るように頼朝に薦めたという。頼朝はこの恩義を忘れなかった。
 治承4年(1180年)8月の頼朝挙兵ののち、平家方であった祐親・祐清父子は頼朝軍に捕らえられた。その際、頼朝は祐清にかつて自分を助けたことによる恩賞を与えようとしたが、祐清は父が頼朝の敵となっている以上、その子である自分が恩賞を受けることはできないとして暇を乞い、平家に味方するために上洛した。その後、祐清は平家方として篠原合戦で討ち死にしたという。また、父・祐親が自害を遂げた際、祐清が自らも頼朝に死を願い、頼朝は心ならずも祐清を誅殺したともあり、真偽は不明。いずれも父に従う祐清の態度を孝道の美談としている。
 後北条氏,徳川氏に仕えた仁杉氏の系譜によれば、通説では工藤祐経の子とされる伊東祐光を祐清の子として掲載して仁杉氏をその子孫と位置づけている。 

 源頼朝は伊東祐清から命を助けられた恩義(祐清の項)を生涯忘れなかった。頼朝は、祐清の遺児・祐光に伊東荘を与えている。祐光の玄孫・祐熙は足利尊氏から先祖代々の地である久須見,伊東,河津の地を与えられた。 
伊東武兵衛 伊東長久

 元々は相模国の住人であったが尾張国に移り住んで織田信長に召し出されて仕えたという。
 天文年間後期に開かれたと思われる年不詳7月18日の津島盆踊り大会では、武兵衛は飯尾定宗らと共に武蔵坊弁慶の仮装をして登場して現れたというので、他国から移住してきた人間ではあるが信長の家臣としては古参の部類に入ると言える。
 永禄年間(1558年以降)に入ってから黒母衣衆に選抜されたが、その後に故あって坂井迫盛という人物を斬殺して織田家を出奔し今川氏真に仕えた。永禄12年(1569年)1月21日、掛川城を脅かす徳川家康の軍と天王山で交戦した際、徳川家臣の椋原次右衛門に討ち取られた。なお、この時点の武兵衛の今川家での地位は槍大将であった。 

 一族はもともと相模国の出身だが、祖父の長時の頃に尾張岩倉に移住し、祐之はかなり早くに織田信長に仕えた。堀田左内,城戸少左衛門と共に「鑓三本」に数えられた槍の名手であった。
 天文21年(1552年)、尾張三本木村(萱津の戦い)では、兜をつける隙きも無く編笠をかぶって奮戦したことで、信長より「編笠清蔵」の異名で呼ばれたと伝わる。永禄年間に選抜された信長の母衣衆では赤母衣衆に選抜された。元亀元年(1570年)の小谷城攻めで活躍し、信長から一字拝領を受けて長久と改めた。天正元年(1573年)8月からの小谷城の戦いの終盤には、羽柴秀吉の配下として参戦。この戦闘では刀,脇差などを紛失しながらも無刀で三人を討ったという。その後も羽柴秀吉に従い、同年9月、秀吉の腰母衣衆に選ばれ、旗奉行となる。
 天正12年(1584年)の小牧の戦いでは、秀吉本陣の備えとして佐久間忠兵衛,真野助宗,池田与左衛門,速水守久,佐藤主計頭,尼子六郎左衛門と共に小姓組七手の合計4,000を率いた。
 天正13年(1585年)8月、佐々成政に対する越中征伐に従軍したが、加賀国金沢城で病死したという。死地は金沢ではなく小松ともいう。享年53。跡を継いだ子の長実は岡田藩初代藩主となり、子孫は明治維新まで一貫して岡田藩主を務め華族(子爵)に列せられている。 

律師

 父・河津祐泰が討たれた5日後に生まれている。祐泰が工藤祐経に討たれると、河津祐成,時致の兄弟は曽我祐信の養子となり、生後間もない末弟(諱は不明)は祐泰の弟・伊東祐清の妻(比企尼の3女)に引き取られた
 建久4年(1193年)5月28日、曽我祐成,時致兄弟は富士の巻狩りで父の仇である工藤祐経を討った後、討ち死にした(曽我兄弟の仇討)。
 末子は、祐清と死別した妻が平賀義信に再嫁していたため、義信の養子となり、出家して律師と号していたが、曾我兄弟の仇討ちの後、兄に連座して鎌倉へ呼び出され、7月2日に甘縄で自害した。