<藤原氏>南家

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工藤家次 河津祐親

 伊豆国久須美荘(久須見荘,葛見荘:伊東荘,宇佐美荘,大見荘,河津荘などから成る)の開発領主。伊東氏の祖であり、狩野氏,河津氏などを派生した。工藤祐隆,伊東家次とも。
 工藤氏代々の拠点であった伊豆国内陸の狩野荘(狩野川上流)を4男である工藤茂光(狩野氏の祖)に譲り、自身は東部の久須美荘を拠点とし、伊東氏の祖となった。嫡子である伊東祐家が早世するなど後継者に恵まれなかった祐隆は、後妻の娘の子を家督を継がせるために工藤祐継として養子とし(実父は祐隆本人だったともされる)、本領である伊東荘,宇佐美荘を与える一方、伊東祐家の子である嫡孫の伊東祐親(河津氏の祖)には河津荘を与えるかたちで、領地を分割継承させる措置を採った。
 しかし、この措置に不満を覚えた伊東祐親は、工藤祐継の死後にその領地を奪取。それを恨んだ工藤祐継の子である工藤祐経が、今度は伊東祐親の嫡子・河津祐泰を射殺。それに対して、河津祐泰の子どもたちが、『曽我物語』に描かれる曾我兄弟の仇討ちを行うことになるなど、報復の連鎖を生むことになった。

 伊東荘を領する工藤祐隆の嫡男であった父・祐家が早世すると、祖父・祐隆は後妻の連れ子である工藤祐継を嫡子として本領の伊東荘を与え、嫡孫の祐親には河津荘を与えた。総領の地位を奪われたことに不満を持つ祐親は、祐継の死後にその子・工藤祐経が上京している間に伊東荘を奪った上、祐経に嫁がせた自身の娘・万劫御前とも離縁させてしまった。これを恨んだ祐経は安元2年(1176年)10月、郎党に命じて狩りの場にいた祐親を襲撃させる。刺客の放った矢は祐親を外れ、共にいた嫡男・河津祐泰が射殺された。これがのちに祐親の孫達が起こす曾我兄弟の仇討ちの原因となる。
 祐親は、東国における親平家方豪族として平清盛からの信頼を受け、平治元年(1159年)の平治の乱に敗れて伊豆に配流されてきた源頼朝の監視を任される。しかし祐親が大番役で上洛している間に、娘の八重姫が頼朝と通じ、一子・千鶴丸を儲けるまでの仲になってしまう。祐親はこれを知って激怒し、安元元年(1175年)9月、平家の怒りを恐れ千鶴丸を松川に沈めて殺害、さらに頼朝自身の殺害を図った。頼朝の乳母・比企尼の3女を妻としていた次男の祐清が頼朝に知らせ、頼朝は夜間、馬に乗って熱海の伊豆山神社に逃げ込み、北条時政の館に匿われて事なきを得たという。なお、時政の正室は祐親の娘であったため、祐親から見れば娘婿の裏切りにあったことになる。祐親はこの前後に出家している。
 治承4年(1180年)8月に頼朝が打倒平氏の兵を挙げると、大庭景親らと協力して石橋山の戦いにてこれを撃破する。しかし頼朝が勢力を盛り返して坂東を制圧すると、逆に追われる身となり、富士川の戦いの後捕らえられ、娘婿の三浦義澄に預けられる。養和2年(1182年)2月14日、頼朝の妻・北条政子が懐妊した機会を得て、義澄による助命嘆願が功を奏し、一時は一命を赦されたが、祐親はこれを潔しとせず「以前の行いを恥じる」と言い自害して果てた。

河津祐泰 八重姫

 工藤氏の流れをくむ伊東祐親(河津祐親)の長男であり、曾我兄弟の仇討ちで知られる曾我祐成・時致の父。祐通とも。
 父の伊東祐親から河津荘を相続したため、河津祐泰を名乗った。同時期、工藤一族内では伊豆国伊東荘を巡る所領争いが起きていた。親族の工藤祐経が相続した伊東荘だったが、これに不満を抱いた伊東祐親は祐経の上洛中に伊東荘を奪った上、祐経に嫁がせていた娘の万劫御前とも離縁させてしまった。祐経は深く恨み、郎党に伊東祐親の暗殺を命じた。安元2年(1176年)10月、伊豆の奥野の狩場にいた祐親・祐泰親子を刺客が襲撃し、矢を射かけた。祐親は無事だったものの、近くにいた祐泰は矢に当たり落命した。享年31。祐泰の妻(満功御前。横山時重?の娘)は5歳の十郎(祐成),3歳の五郎(時致)2人を連れて曾我祐信と再婚した。
 建久4年(1193年)5月28日、2人の兄弟は富士の巻狩りで父の仇である工藤祐経を討った後、討ち死にした。この仇討ちは『曽我物語』として広く世に知られることになる。
 祐泰の討たれた5日後に生まれた末子は、祐泰の弟・祐清の妻(比企尼の3女)に引き取られ、妻が再婚した平賀義信の養子となり、出家して律師と号していた。曾我兄弟の仇討ちの後、兄に連座して鎌倉へ呼び出され、7月2日に甘縄で自害している。

 伊豆国伊東庄の豪族であり、頼朝の監視役であった伊東祐親の3女。源頼朝の最初の妻とされる。頼朝の初子・千鶴御前(千鶴丸)の母。
 『延慶本 平家物語』『源平盛衰記』『源平闘諍録』『曽我物語』などの物語類にのみ登場し、同時代史料や『吾妻鏡』など後世の編纂史料には見えない。また前述の物語類にも名は記されておらず、「八重姫」の名は室町後期から江戸期にかけて在地伝承として生まれた名だと思われ、文献では江戸時代末期の伊豆の地誌『豆州誌稿』に初めて現れる。また江戸時代前期成立の『東奥軍記』『和賀一揆次第』では名を「万功御前」としている。 

万劫御前 鮫島宗家

 『曽我物語』では、河津祐親は兄の伊東祐継が死去する際、遺児の祐経の後事を託され、自身の娘の万劫と娶わせる約束をした。祐親は遺言通り祐経と万劫を結婚させて祐経を後見したが、やがて祐親は祐経を脅威に思い、祐経が在京中にその所領を押領してさらに満功を連れ戻し、土肥遠平へと再嫁させてしまったとする。
 また、江戸時代初期に成立したとされる『東奥軍記』『和賀一揆次第』などでは、万功(万公/満功)は源頼朝の妻として描かれている。則ち、頼朝が流人生活を行っていた頃、頼朝は伊東祐親の娘の万劫との間に男子・春若を儲けたという。両者の関係を喜ばない祐親は春若を殺害させようとしたが、実行者たちはその行く末を憐れみ、曾我祐信と図って春若を落ち延びさせた。後年、頼朝と再会した春若は所領として陸奥国和賀郡を与えられ、和賀氏と祖となったという。 

 駿河国鮫島郷(現在の静岡県富士市鮫島)を本貫としていた。石橋山の戦いの直前、源頼朝が伊豆国から相模国土肥郷へ赴く際に従った武士の一人として『吾妻鏡』治承4年(1180年)8月20日条に登場するのが初見である。駿河国の武士ではただ一人、挙兵以来頼朝に臣従している。同年10月20日の富士川の戦いは鮫島郷の直近で行われたものであり、『吾妻鏡』当日条に宗家の姿はないが何らかの動きをした可能性がある。
 『吾妻鏡』元暦元年(1184年)6月17日条によると、宗家は一条忠頼誅殺の際に不手際を生じ、頼朝から右手指切断という制裁を受ける。以後、同書に宗家の名前を見出すことは出来ないが、建久年間の古文書に薩摩国阿多郡地頭として姿を現す。
 鮫島氏が阿多郡地頭に補任された理由については明確になっていないが、阿多郡が大宰府領であったことに注目し、鎮西奉行となった天野遠景との親密な関係も指摘されている(一条忠頼暗殺の際に討手となったのは遠景であり、その場に宗家も同席していたことなど)。阿多郡は平安時代後半、薩摩平氏の一流・阿多氏が支配しており、阿多忠景は源為朝の舅として「一国棟梁」化し、大隅国にも影響力を行使した。しかし、忠景は中央政府より反逆者と見なされ(阿多忠景の乱)、鬼界ヶ島に逐電を余儀なくされる。その娘婿である阿多宣澄は平氏政権と密着する道を選ぶも鎌倉幕府成立と共に所領を没収される。その様な状況の中で阿多郡地頭として下向したのが宗家であった。
 「鮫島光家申状案」によると、宗家は建久3年(1192年)8月25日に阿多郡を拝領している。同年10月22日には阿多宣澄の所領であった谷山郡,伊作郡,日置郡等の地頭に島津忠久が補任される。その後、同5年(1194年)2月に関東下知状が出され、宗家に対して「阿多郡地頭併八箇所名主職等」の知行安堵がなされた。
 宗家は子息への所領分与の際、阿多郡を南北に分割する。阿多郡北方地頭となった家高は郡内の新田八幡宮領で乱暴を働き、所領を没収されてしまう。代わりに北方地頭となったのが、幕府政所に重きをなした同族の二階堂氏であった。鮫島氏の命脈を保ったのは阿多郡南部を継いだ弟の方の宗景によってである。以後は島津氏に臣従していくことになる。

鮫島員規 鮫島員重

 海軍軍人。階級は海軍大将。薩摩藩士・鮫島新左衛門の長男として鹿児島で生まれる。戊辰戦争に従軍し、明治4年(1871年)、海軍に入り少尉補任官、「龍驤」乗組。佐賀の乱、西南戦争に従軍。その後、参謀本部海軍部第2局長、装甲艦「金剛」艦長、装甲艦「扶桑」艦長を歴任。明治24年(1891年)、フランスに発注した軍艦「松島」の回航委員長、初代艦長となる。
 さらに横須賀鎮守府参謀長,常備艦隊参謀長,海軍大学校長,横須賀鎮守府長官,常備艦隊司令長官などを歴任。日清戦争時には常備艦隊兼連合艦隊参謀長として黄海海戦に参加、日露戦争では佐世保鎮守府司令長官をつとめた。
 明治38年(1905年)、海軍大将に進級。明治40年(1907年)2月14日、予備役に編入され、同年に男爵となった。
 「寛厚の長者」と評され、部下に全てを任せる人物であった。日清戦争を目前に連合艦隊を編制した際、伊東祐亨司令長官と坪井航三第1遊撃隊司令官は、持論の単縦陣をはじめ、戦術や運用に関して壮絶な口論を繰り返していたが、参謀長である鮫島は仲裁や妥協案の提示などいっさいしなかった。そのため、一参謀に過ぎない島村速雄大尉が調整役を買わざるを得なかった。また、佐世保鎮守府司令長官時代にも、艦隊の補給や整備に忙殺される鎮守府の業務いっさいを坂本俊篤参謀長に任せ、のちに教育本部長として教育改革を成し遂げた坂本に実績を上げさせた一方、自らは労せず大将に昇進したと厳しく批判されている。 

 岩倉具経の四男として生まれ、海軍大将鮫島員規の養嗣子となる。太平洋戦争において司令長官職を歴任。ラバウルでともに終戦まで戦い抜いた同期生の草鹿任一,南東方面艦隊司令長官や、陸軍第8方面軍司令官の今村均と同様に人格者として知られていた。戦後の戦犯問題では部下の責任を引き受ける態度を示し、豪軍に感銘を与えたという。
 1909年(明治42年)11月、海軍兵学校を卒業し、翌月に海軍少尉に任官し、同月には養父の死去に伴い男爵を襲爵。1916年(大正5年)12月、海軍砲術学校高等科を卒業し、以後、「吾妻」分隊長,「金剛」部隊長,砲術学校教官,「陸奥」副砲長、東伏見宮依仁親王付副官を経て、1923年(大正12年)10月、海軍大学校を卒業した。
 「由良」砲術長,イギリス駐在,高松宮宣仁親王付武官,「羽黒」副長,運送艦「青島」艦長,上海陸戦隊指揮官,第3艦隊参謀,「北上」艦長,「最上」艦長,「羽黒」艦長,「長門」艦長を歴任した。最上艦長時代に酒に酔った板倉光馬少尉(当時)に殴られるという事件があったが、板倉を軍法会議処分にせず、他艦への移動処分に留めるという温情処分にしている。1937年(昭和12年)12月、海軍少将に進級し、第4航空戦隊司令官,第13戦隊司令官,第2航空戦隊司令官,侍従武官を経て、1941年(昭和16年)10月、海軍中将に進級した。1942年(昭和17年)10月、井上成美の後任として第4艦隊司令長官に着任。翌年4月、第8艦隊司令長官となったが、第8艦隊は艦船を消耗して大戦末期には事実上第8艦隊の司令部が置かれたブーゲンビル島ブインの守備隊司令官となる。
 この時期、かつて最上艦長時代に自身を殴った事件で温情処分とした板倉が艦長を務める潜水艦による補給作戦を受ける。板倉は鮫島に「かつて上官を殴った私が恥ずかしながら救援に参りました」としてウイスキーを贈り、鮫島は手製のパイプを贈った。鮫島はブインを死守し終戦を迎える。1946年(昭和21年)3月、予備役に編入された。板倉とは戦後の軍事裁判の場でも再会しており、涙を流して手を取り合ったという。 

鮫島重雄

 陸軍軍人。陸軍大将正三位勲一等功二級男爵。薩摩藩士鮫島藤兵衛の次男として生まれる。
 1871年(明治4年)、御親兵として陸軍入り。1873年(明治6年)1月から陸軍教導団に入営し、同6月陸軍伍長。1874年(明治7年)3月陸軍士官学校生徒,同9年陸軍少尉試補・東京鎮台附。台湾出兵に際して台湾蕃地征討軍に編入される。1875年(明治8年)3月、陸軍工兵少尉に任官、1877年(明治10年)2月から西南戦争に出征する。4月に工兵中尉に進んで第1旅団参謀を命ぜられるが、同10月帰還する。
 1878年(明治11年)2月から工兵第1大隊中隊長に移り、1879年(明治12年)3月参謀本部管西局員、1881年(明治14年)4月工兵大尉、1883年(明治16年)2月には近衛師団参謀を命ぜられる。1885年(明治18年)7月に工兵第3大隊長心得、1886年(明治19年)3月陸軍大学校副幹事心得を経、同5月工兵少佐に進んで陸軍大学校副幹事。1887年(明治20年)6月監軍部参謀。1889年(明治22年)近衛師団参謀を経て、1894年(明治27年)6月18日工兵大佐・近衛師団参謀長に進んで1895年(明治28年)4月から日清戦争に出征する。日清戦後は中部都督部参謀長、1897年(明治30年)9月28日には陸軍少将に任官。
 1900年(明治33年)4月25日に由良要塞司令官に就任し、1902年(明治35年)5月5日東京湾要塞司令官に移る。1904年(明治37年)9月5日に陸軍中将として大本営附を命ぜられて同10月日露戦争に出征する。戦中の12月1日第11師団長を拝命し、1906年(明治39年)4月1日勲一等旭日大綬章を受章。同7月6日第14師団長に移る。1907年(明治40年)9月21日、日清・日露戦役の軍功により男爵を授爵。1911年(明治44年)9月6日、陸軍大将昇任と共に後備役編入となる。1916年(大正5年)4月1日に退役した。退役後も14師団の置かれた宇都宮にとどまった。
 1928年(昭和3年)薨去。重雄には後継者なく爵位は継承されなかった。宇都宮の別邸跡地は宇都宮グランドホテルになった。