<藤原氏>南家

F047:伊東祐継  藤原乙麻呂 ― 藤原為憲 ― 工藤家次 ― 伊東祐継 ― 宇佐美祐茂 F053:宇佐美祐茂

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宇佐美祐茂 宇佐美孝忠

 伊豆国宇佐美荘を拠点とし、平安時代後期から鎌倉時代初期にかけて生きた武士であり、宇佐美氏の祖。宇佐美助茂,宇佐美三郎とも。
 藤原南家の流れをくむ工藤氏の6代目であり伊東氏の祖でもある開発領主の工藤祐隆(伊東家次)の本領である、伊東庄,宇佐美庄を受け継いだ工藤祐継の子であり、曾我兄弟の仇討ちで敵役となった工藤祐経の弟でもある。父から宇佐美荘を継承し、宇佐美氏を名乗るようになった。
 1180年(治承4年)の源頼朝の挙兵から随行し、奥州攻めや京都入りにも参加した。

 定秀は男子がないままに死去し、適当な後継者もいなかったため、守護・上杉房定の下知で伊豆の宇佐美定興の子・孝忠を立てて家督とした。そして、孝忠は文正元年(1466)に越後に入部したのだという。この孝忠と『鎌倉大草紙』にみえる孝忠とは同一人物と考えられ、おそらく孝忠は、関東管領職をついだ越後守護・上杉房定の次男・顕定を援けるため関東に出陣したものと思われる。
 孝忠は房定が見込んだ人物だけに文武兼備の武将で、『梅花無尽蔵』を著した万里集九も孝忠の館を訪れている。孝忠は房定のあとを継いだ房能に仕えてよく守り立てていたため、房能に対して謀叛を企てた守護代の長尾為景は、孝忠の死をまってクーデタを起こしたともいわれる。

宇佐美定満

 定満は越後守護の上杉氏の一門である上条上杉家に仕え、天文4年(1535年)に上条定憲と共に上条上杉家の再興を目指して長尾為景と戦ったが、天文5年(1536年)に春日山城下で敗北すると、為景に降伏した。
 為景の死後、その子の長尾晴景、そして長尾景虎(上杉謙信)に仕えた。天文19年(1550年)、景虎に反抗した一族である坂戸城主・長尾政景を屈服させるのに戦功があった。永禄年間にはすでに老齢で現役から隠退していたといわれる。
 永禄7年(1564年)、坂戸城近くの野尻池で政景と共に溺死し、彼の死後に宇佐美氏は没落して枇杷島(琵琶島)城も廃城になった。嘗て謙信に敵対したことのある政景を粛清するため、我が身を犠牲にして政景を葬ったと言われている(異説あり)。享年76。
また、これ以前の永禄5年(1562年)、武蔵上尾原における北条氏との戦いで戦死したとも伝えられている。 17世紀中に紀州藩に仕えた軍学者・宇佐美定祐が、当時流行していた甲州流軍学に対抗して上杉謙信の軍法として越後流軍学を唱えた時、自身の先祖と称する宇佐美駿河守定行という人物を上杉謙信の軍師にして越後流軍学の祖であると仮託し、架空の軍師・宇佐美定行の名が広く知られるようになるが、そのモデルは実在の武将である宇佐美駿河守定満であると考えられている。
 墓所は、新潟県南魚沼市雲洞(旧南魚沼郡塩沢町)の雲洞庵と長野県上水内郡信濃町野尻にある琵琶島(野尻湖)の2ヶ所に伝わるが、琵琶島の宇賀神社にあるのは墓所ではなく具足を埋めて供養した経塚である。