<藤原氏>南家

F044:工藤家次  藤原乙麻呂 ― 藤原為憲 ― 工藤家次 ― 伊東祐継 F047:伊東祐継

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伊東祐継 工藤祐経

 後妻の連れ子であった継娘が産んだ子を嫡子に取り立てて伊東荘を与えて伊東祐継と名乗らせた。一方、早世した祐家の子である祐親は次男として河津荘を譲り、河津氏を名乗らせた。
 『曽我物語』によれば、祐親は祐継を「異姓他人の継娘の子」と呼び、真名本『曽我物語』では祐継は寂心が継娘に産ませた子で、祐親の叔父であるとしている。
 伊東荘を継いだ祐継は病により43歳で死去。

 幼少期に伊東氏の家督であった父の祐継が早世すると、父の遺言により義理の叔父である伊東祐親が後見人となる。元服ののち、祐経は祐親の娘・万劫御前を娶り、祐親に伴われて上洛し平重盛に仕える。だが、祐経が在京している間に祐親は祐経が継いだ伊東荘を押領してしまい、妻の万劫御前まで奪って土肥遠平に嫁がせてしまう。押領に気付いた祐経は都で訴訟を繰り返すが、祐親の根回しにより失敗に終わる。所領と妻をも奪われた祐経は祐親を深く怨み、祐親父子の殺害を図って安元2年(1176年)10月、郎党に命じ、伊豆奥野の狩り場から帰る道中の祐親の嫡男・河津祐泰を射殺する。
 治承4年(1180年)8月の源頼朝挙兵後、平家方として頼朝と敵対した伊東祐親は、10月の富士川の戦い後に頼朝方に捕らえられて自害した。祐経の弟とされる宇佐美祐茂が頼朝の挙兵当初から従い、富士川の戦いの戦功で本領を安堵されており、祐経は京から鎌倉へ下って頼朝に臣従し、祐茂を通して伊東父子亡き後の伊東荘を取り戻したと考えられる。祐経の子・祐時は伊東を名乗り、伊東氏を継承する。
 『吾妻鏡』には、元暦元年(1184年)4月の一ノ谷の戦いで捕虜となり鎌倉へ護送された平重衡を慰める宴席で鼓を打って今様を歌った記録である。文治2年(1186年)4月には静御前が鶴岡八幡宮で舞を舞った際にも鼓を打っている。祐経は武功を立てた記録はなく、都に仕えた経験と能力によって頼朝に重用された。
 建久4年(1193年)5月、頼朝は富士の裾野で大規模な巻狩りを行い、祐経も参加する。巻狩りの最終日深夜、遊女らと共に宿舎で休んでいたところを曾我祐成・時致兄弟が押し入り、祐経は兄弟の父・河津祐泰の仇として討たれた。祐経が仲介して御家人となっていた備前国吉備津神社の神官・王藤内も一緒に討たれている。騒動の後、詮議を行った頼朝は曾我時致の助命を考えたが、祐経の子の犬房丸(のちの伊東祐時)が泣いて訴えたため、時致の身柄は引き渡され梟首された。

安積祐長 武蔵秀貞

 曾我兄弟の仇討ちで知られる工藤祐経の次男として生まれる。通称は六郎。1193年(建久4年)、曾我兄弟の仇討ちで父の祐経が曾我兄弟に討たれる。
 1213年(建暦3年)に発生した泉親衡の乱の恩賞として安積郡を賜り、安積氏を名乗って安積伊東氏の祖となる。祐長は安積郡を拝領した後も鎌倉に住んでいたと考えられるが、子孫が安積郡に移住して戦国時代頃までその周辺を治めた。

 当初は氏井氏を称し、兄吉正は織田信長に仕えた。22歳の時、織田家を辞していた吉正とともに徳川家康に仕え、その際に兄弟ともに姓を武蔵と改めた。元亀3年(1572年)三方ヶ原の戦いでは弓を手に力戦し、以後の武田氏との戦いでも武功があった。天正12年(1584年)小牧長久手の戦いでは長久手で森長可の部隊と交戦し、渡辺守綱とともに敵将を討った。天正19年(1591年)武蔵国入間郡山口領(埼玉県所沢市)に250石を与えられた。家康が伏見城に入る際には、先行して城士となっている。