<藤原氏>南家

F044:工藤家次  藤原鎌足 ― 藤原武智麻呂 ― 藤原乙麻呂 ― 藤原為憲 ― 工藤家次 ― 狩野茂光 F055:狩野茂光

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狩野茂光 狩野宗光

 伊豆を代表する牧草地だった牧之郷を領有し良馬を多数有したため伊豆半島最大の勢力を築くこととなった。伊豆大島を所領としており、保元の乱(1156年)で大島に流罪となった源為朝の監視役となる。やがて為朝が流人の身でありながら周辺諸豪族を切り従えて自立の動きを見せたため、嘉応2年(1170年)にこれを追討し自害に追い込んでいる。
 治承4年(1180年)、同じく伊豆国において流人生活を送っていた源頼朝が反平家の兵を挙げるとその足下に駆けつけ、石橋山の戦いで平家方の大庭景親,伊東祐親らと交戦。この戦いに敗れ自害して果てた。一説には、茂光は肥満体であったため思うように走ることができず、周囲の足手まといになることを嫌い、孫の田代信綱に懇願して介錯されたともいう。
 狩野氏は古代から安土桃山時代の小田原の役にいたるまで武家として活躍し、末裔が現代まで伊豆に多数残り、伊豆名門の一つである。

 源頼朝に仕えるようになり、治承寿永の乱では、源頼朝側として挙兵当初から従っている。
 建久4年(1193年)には、頼朝主催の富士野の巻狩りの準備として駿河国で北条時政と共に屋形の設営などを行った。その後は巻狩りに参加し、曾我兄弟の仇討ち事件の際に、父の仇である工藤祐経を討った曾我兄弟の曾我祐成と時致が、頼朝の尋問を受ける場面に立ち会った。
 狩野宗茂以降、代々、狩野介を称し伊豆国の在庁官人であった。「狩野」の名は、工藤氏が拠点としていた伊豆国の狩野荘(現在の狩野川上流、伊豆市大平柿木付近)に由来する。

狩野親光 満功御前

 工藤親光とも。通称は五郎。
 治承4年(1180年)、父・茂光とともに石橋山の戦いに参陣。茂光はこの戦いで敗れ、息子である親光に介錯を頼んだが、親光は渋り、田代信綱が介錯を行った。親光は信綱から首を受け取り山へ逃げ込んだ。文治5年(1189年)、藤原国衡を攻めた際、厚樫山にて討死した(阿津賀志山の戦い)。

狩野親光の3女。伊豆国司代の源左衛門仲成に嫁いで一男一女を産み、4年目に離別して河津祐泰に再嫁。一説に、任期を終え京に帰る夫に愛娘が付き従うのを親光が許さなかった、と。また、彼女は祐泰が工藤祐経によって討たれると、父の仇を討つよう幼い兄弟に言い含め、生まれたばかりの遺児を祐泰の弟・伊東祐清に預けた。当初は出家しようと考えていたものの義父・伊東祐親の説得に従って祐泰の従兄弟にあたる曾我祐信に一万と箱王を連れて後妻として嫁ぎ、さらに3人の男子を儲けた。
 その後、伊東氏は没落し、曾我氏は工藤氏ともども源頼朝の御家人となった。そのため曾我氏に迷惑のかかる仇討ちは諦めており、再三兄弟に仇討ちの翻意を促したが、結局兄弟は仇討ちを達していずれも死亡した。母は兄弟を曾我の地で葬り、祐成の妾だった虎御前とともにその菩提を弔って仇討ちの7回忌の日に死去した。
 なお、仲成との間に産まれた娘は二宮朝忠に嫁し、夫の没後は花月尼として二宮町に知足寺を建立、夫と曽我兄弟(異父弟)の菩提を弔った。
 『曽我物語』では曾我兄弟の生母の名を伝えていないが、江戸時代中期ころまでには満功の名が定着したようで、享保9年(1724年)初演の歌舞伎『嫁入伊豆日記』を始めその名が充てられている。同じく実父についての記述もないが、歴史学者の菱沼一憲は横山党の横山時重に比定している。