江戸時代後期から幕末の大奥女中(上臈御年寄)。江戸幕府11代将軍・徳川家斉から14代将軍・徳川家茂までの4代に渡り大奥の最高位である筆頭老女を務めた。 天保3年(1832年)、後に江戸幕府13代将軍となる徳川家定の正室として輿入れした当時8歳の鷹司任子の世話役として江戸へ出仕。天保7年(1836年)、11代将軍・徳川家斉の寵臣である林忠英が宿元となり、家斉の将軍付小上臈として大奥に入る。その後、徳川家慶が12代将軍に就任して以降、将軍付上臈御年寄に昇格、万里小路と名を改める。この頃の大奥では、同じく上臈御年寄の姉小路が権力を握っていたとされるが、実際の筆頭老女は万里小路であった。 13代将軍・徳川家定が死去した安政5年(1858年)頃に大奥から退き、桜田御用屋敷へ移る。しかし、14代将軍・徳川家茂の御世には、再び大奥への出仕を命じられた。 元治元年(1864年)5月29日、大奥を退き、宿元であった林忠英の4男で請西藩主・林忠交の元を頼り、江戸浜町藩邸に移り住む。慶応3年(1867年)に忠交が死去、養子の林忠崇が後継ぎとなり、慶応4年(1868年)に元部屋方の都山と共に、請西藩の上総国望陀郡請西村へ移り住む。その際に請西藩にある長楽寺が仮宿となり、同寺では万里小路を「まて様」と呼んでいたと伝わる。長楽寺の裏手にある真武根陣屋へ移り住む。 明治4年(1871年)には重田嘉之三郎を養子とする。 明治11年(1878年)5月7日、脳卒中により死去。享年66。墓所は木更津市にある長楽寺。
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