<藤原氏>北家 小野宮流

F508:藤原師尹  藤原房前 ― 藤原冬嗣 ― 藤原良房 ― 藤原忠平 ― 藤原師尹 ― 鳥居行範 F511:鳥居行範


リンク F512・{F609}
鳥居行範 鳥居行遍

 『寛政重修諸家譜』によると、元々は穂積朝臣鈴木氏の一族で、紀伊国熊野権現の神官であり、重氏が法眼に叙された記念として熊野山に鳥居を建立したことから鳥居と名乗ったとされる。その後、内裏で実施された闘鶏に赤い鶏を参加させたところ、その鶏が勝ち続け、平清盛に平家の赤旗を連想させて縁起が良いという理由で気に入られたことから、桓武平氏を名乗る事を許されたとされている。通称「鳥居法眼」と呼ばれた。
 妻の鳥居禅尼は源為義の娘で、出家前は丹鶴姫と呼ばれ、行範と結ばれた後は、「立田原の女房」と呼ばれた。行範の死後、「立原の女房」はすぐさま剃髪して鳥居禅尼と名乗り、菩提寺の東仙寺に入り、行範の菩提を弔いつつ、後家として一家の要の位置を占め、子供たちを育てた。
鳥居禅尼は治承・寿永の乱中の数々の功績によって、甥に当たる将軍・源頼朝から紀伊国佐野庄および湯橋,但馬国多々良岐庄などの地頭に任命され、鎌倉幕府の御家人になった。また、承元4年(1210年)、幕府は鳥居禅尼の願いをいれ、これらすべての知行地の地頭職を養子に譲補することを認めた。養子の名前はわからないが、行詮の子の行忠か長詮が養子とされたと思われる。

 行遍は若年の頃、熊野新宮の社僧・御師としてその家業に従いつつ、熊野で修行していた紀伊出身の有名歌人・西行法師から歌道を学んだ。その時期は1160年代後半から1170年代前半にかけての時期と推定される。
 元久元年(1204年)、熊野行遍法橋は、『新古今和歌集』の撰者の1人である藤原定家の九条宿所を訪ね、西行のことなどを懐かしく語り合い、定家に自らの歌をゆだねた。その結果、『新古今和歌集』に「法橋行遍」という名前で4首が入撰したと推定される。
 元久2年(1205年)、行遍は、実兄の23代熊野別当・範命の推挙により、法眼に補任された。
 行遍の死亡時期は、鎌倉時代初期の1210年頃に比定される。享年60歳前後か。僧侶としての極位は法眼。行遍は、後に紀伊の新宮や有田の宮崎水軍の統率者となった宮崎氏の祖とされている。

鳥居行命 鳥居行忠

 承安元年(1173年)、後白河院熊野参詣の際に、常住の行命法眼が入道前太相国(平清盛)や長床衆などの「船渡」を務めたという記録があり、この頃から院のみならず平家との関係をも深めたとみられる。
 治承・寿永の内乱当初、熊野別当家では、源氏寄りの立場を取る別当の範智(行命の叔父で20代別当)や行快と、平家に加担する権別当の湛増との対立が見られたが、治承4年(1180年)の熊野新宮合戦を経てその後、後者が前者に妥協することで、反平家色が鮮明となった。これを受けた平家方は範智・湛増を罷免し、これらに対抗せしめるべく、両者と距離を置いていた法眼行命を別当に補任した。
 これにより行命は「熊野の輩のうちただ一人志を官軍に有する者」の立場で、平家方としての活動を継続する。しかし、数において次第に劣勢となり、遂に養和元年(1181年)、熊野からの脱出を余儀なくされ、途中、日高郡北の志賀王子神社の在庁らの襲撃によって一族郎党の大半を失いつつも、何とか上洛を果たして平家に合流。しかし、寿永2年(1183年)に平家一門とともに都落ちし、元暦2年(1185年)の壇ノ浦の戦いにおいて遂に源氏方の捕虜となって、同年常陸国へと配流された。文治5年(1189年)に赦免され帰洛するも、程なく京において没したと伝わる。


 承久の乱以降の行忠の代には、三河国矢作庄に移り、土着して忠氏と改名したと伝わる。