<藤原氏>北家 小野宮流

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鳥居忠吉 本翁意伯

 三河国碧海郡渡城主。松平清康,松平広忠,松平元康(後の徳川家康)の3代に仕えた。天文18年(1549年)に主君・広忠が暗殺され、その後は、新たな幼主・竹千代(後の家康)の身柄が駿府に預けられ、岡崎城は今川氏の管理下に置かれた。
 この間、岡崎の治世は今川氏から派遣された城代による統治よりも、鳥居忠吉と阿部定吉との実務によって成り立っていた。収穫などの富は今川氏への分配が多く、松平党の暮らしは困窮するも、家康が帰参するであろう将来に備えて倹約・蓄財に心血を注いだ。阿部が死去すると忠吉の下に、松平家臣団は一段と結束する。貧しさに苦しもうとも、いざ合戦となると、命を惜しまぬ戦いぶりを見せつけた。その忠誠心は後世まで「三河武士」として名声を高めるが、彼らの姿勢や意識は、家康を想う忠吉によって植えつけられた。
 永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いでは家康に従軍し、今川義元の戦死後、大樹寺より岡崎城に入った家康に、今まで蓄えていた財を見せたという。その後は高齢を理由に岡崎城の留守を守った。生年は不明だが、没した時に80余歳と伝えられているため、文明から明応年間(1492~1501年)と推定される。元亀3年(1572年)に死去した。墓所は、本翁意伯が住職となっていた不退院(愛知県西尾市)。 

 出家して総本山である京都河原町四条に在する誓願寺で修行した。たいへんな博学者で宗派の曼荼羅の指導者として有名になった。その後、岡崎城の近くの光善寺の住職をしていたが、本山の任命で三河十二本寺の一つである不退院の第6世の住職になった。
 元亀3年(1572年)、正親町天皇の勅願により二条城に参内して曼荼羅を講演した。その礼に正親町天皇より授法山「上衍寺」の勅額を賜る。また文禄2年(1593年)、徳川家康の異母妹・市場姫の葬儀を不退院で行い、その導師を勤めた。不退院で没し、没後、不退院の住職は同族の鳥居忠春の親族が継いだ。 

鳥居元忠 鳥居忠広

 三河国碧海郡渡郷(愛知県岡崎市渡町)に生まれる。徳川家康がまだ「松平竹千代」と呼ばれて今川氏の人質だった頃からの側近の一人で、天文20年(1551年)から近侍した。家康の三河統一後、旗本先手役となり旗本部隊の将として戦う。
 天文16年(1547年)、渡の戦いで、長兄・忠宗は戦死し、次兄・本翁意伯は出家していたため、元亀3年(1572年)、父の死後、家督を相続する。多くの戦いに参戦し、天正10年(1582年)、天正壬午の乱で家康の背後を襲おうとした北条勢の別働隊10,000を鳥居元忠ら2,000が撃退し北条勢約300を討ち取り(黒駒合戦)、その後、家康より甲斐国都留郡を与えられ、谷村城主となる。
 天正13年(1585年)、上杉景勝へ通じた真田昌幸を討伐しようとした上田合戦では、大久保忠世,平岩親吉と共に兵7,000を率いて上田城を攻撃するものの大きな損害を受け、撃退される。天正18年(1590年)の小田原征伐にも参加し、岩槻城攻めに参加した。戦後家康が関東に移封されると、下総国矢作城4万石を与えられる。
慶長5年(1600年)、家康が会津の上杉景勝の征伐を主張し、諸将を率いて出兵すると、伏見城を預けられる。6月16日、家康は伏見城に宿泊して元忠と酒を酌み交わし、家康は伏見に残す人数は3000ばかりで苦労をかけると述べると、元忠は人数を多くこの城に残すことは無駄であると一人でも多くの家臣を城から連れて出てほしいと答えた。家康はその言葉に喜び、深夜まで酒を酌んで別れたと伝わる。家康らの出陣中に五奉行・石田三成らが家康に対して挙兵すると、伏見城は前哨戦の舞台となり、元忠は1,800人の兵力で立て籠もるが、13日間の攻防戦の末、鈴木重朝と一騎打ちの末に討死した。享年62。その忠節は「三河武士の鑑」と称された。このときの伏見城の血染め畳は元忠の忠義を賞賛した家康が江戸城の伏見櫓の階上におき、登城した大名たちに元忠の精忠を偲ばせた。明治維新により、江戸城明け渡しの際、その畳を栃木県下都賀郡壬生町の精忠神社脇に埋め供養した。床板は、「血天井」として京都市の養源院をはじめ、宝泉院,正伝寺,源光庵,宇治市の興聖寺に今も伝えられている。墓所は京都市左京区の百万遍知恩寺のほか、福島県いわき市平の長源寺。
家康は忠実な部下の死を悲しみ、その功績もあって嫡男・忠政は後に磐城平藩10万石を経て山形藩24万石の大名に昇格している。また元忠の子孫が江戸時代に不行跡により2度も改易の憂き目にあった際、いずれも元忠の勲功が大きいとして減封による移封でいずれも断絶を免れた。
元忠は家康の絶対の忠臣であったと言われている。幼少の頃から家康に仕えて幾度となく功績を挙げたが、感状をもらうことは無かった。家康が感状を与えようとしたが、元忠は感状などは別の主君に仕えるときに役立つものであり、家康しか主君を考えていない自分には無用なものであると答えた。秀吉からの官位推挙の話が度々あったものの、主君以外の人間から貰う言われはないと断ったという。
武田氏の滅亡後、馬場信春の娘の捜索を元忠に命じる。しかし、元忠は娘は見つからないと報告し捜索は打ち切られたが、その娘が元忠の本妻になったという話を聞き、家康は高笑いで許した。

 『三河物語』によると、三河一向一揆に参加して松平家康と敵対したが、一揆終息後は帰参した。兄の元忠同様に武勇に優れ、姉川の戦いでは徳川軍の先鋒を務めた。軍監として働くことも多かったと言われている。
 三方ヶ原の戦いにおいて家康が武田信玄に決戦を挑もうとしたときには、兵力の差などを考慮して籠城するように進言したが受け入れられず、そのことで成瀬正義に腰抜けと呼ばれ喧嘩となる。予想通りに徳川軍が大敗すると、忠広は家康をはじめとする全軍を逃すために新井本坂で殿軍を務める。このとき猛攻をかけてきた武田軍の土屋直村の軍勢を散々に打ち破ったが、やがて力尽きて戦死した。
 徳川十六神将の一人として数えられている。子孫は小田原藩大久保氏の家臣となって存続した。

鳥居成次 鳥居忠房

 幼少時より父と共に徳川家康に仕え、関ヶ原の戦いでも活躍して戦功を挙げた。父・元忠は伏見城攻防戦で石田三成らによって攻め殺されていたが、戦後に三成の身柄を父の仇として預けられた。成次は三成を少しも恨まず、逆に小身ながら大身の主家によく抗した人物として衣服を与えて手厚く厚遇し、三成は成次を大いに賞賛したといわれている。
 武田氏滅亡後に家康が領していた甲斐国は、豊臣政権下での家康の関東移封により豊臣系大名が領していたが、家康は関ヶ原後に甲斐領主・浅野氏を転封させ再び甲斐を直轄領化する。甲斐一国のうち甲府を中心とする国中地方は城代・平岩親吉のもと四奉行・代官制による統治が実施されていたが、甲斐東部の郡内領2万石は豊臣系大名支配以前に父・元忠が支配にあたっていた経緯があり、郡内領の支配は浅野氏重に代わって成次が着任し、谷村城に在城して国中地方とは別に独自の統治を行っている。慶長8年(1603年)に甲斐国は家康の9男・五郎太(義直)が拝領し親吉らは家臣化され、慶長12年(1607年)の尾張国清洲への転封に際しては同行し、国中は再び直轄領化され城番制支配となるが、成次は郡内領主として残留している。同年、従五位下土佐守に叙任されている。慶長17年(1612年)には御室浅間神社本殿の造営を行った。
 慶長20年(1615年)の大坂の陣にも従軍し、5月7日一日で首28級を上げる大功を立てた。元和元年(1615年)には、江戸幕府2代将軍・徳川秀忠の次男・国千代(忠長)が甲斐を拝領し、元和2年(1616年)、成次は郡内領主の地位は保ちつつ甲府の朝倉宣正とともに忠長の附家老となる。寛永元年(1624年)、忠長は駿河・遠江・信濃国小諸を加増され、成次も駿河国において加増を受け、3万5000石を領する。忠長領の拡大に伴い支配機構の再編が行われ、朝倉宣正が東海地方担当として遠江掛川城へ移ったため、成次は甲斐支配を一任した。ところが、忠長は3代将軍・徳川家光により、寛永8年(1631年)5月には蟄居処分となり、郡内領を含む忠長領の没収に伴い、成次や朝倉宣正らも失脚した。
 成次は赦免に奔走しているが、同寛永8年(1631年)6月18日に死去し(享年62)、神田吉祥寺に埋葬された。郡内支配を補佐していた長男の忠房も江戸方に働きかけ赦免に奔走しているが、忠長は翌寛永9年(1632年)10月に上野国高崎に幽閉され、翌寛永10年(1633年)には自害しており、忠房も配流処分になっている。

 寛永元年(1624年)に五位下淡路守に叙任し、同8年(1631年)、父の死去により跡を継ぐ。同時に徳川忠長の附家老にもなったが、翌年6月2日、忠長が幕命により改易されると連座によって改易され、一族の出羽国山形藩主・鳥居忠恒預かりとなって山形藩で蟄居を余儀なくされた。寛永13年(1636年)9月18日に赦免されたが、翌年7月に32歳で死去。家督は弟の鳥居忠春が継いだ。
鳥居忠耀

 実父は大学頭を務めた江戸幕府儒者の林述斎。旗本・鳥居成純の長女・登与の婿として養嗣子となり、文政3年(1820年)、25歳の時に鳥居家を継ぐ。
 老中・水野忠邦の天保の改革では、目付や南町奉行として厳しく市中の取締りを行う。渋川敬直,後藤三右衛門(13代目・後藤庄三郎)と共に水野の三羽烏と呼ばれた。おとり捜査を常套手段とするなど権謀術数に長けていたため、当時の人々からは“蝮の耀蔵”、あるいはその名をもじって“妖怪”(通称の「耀蔵」・官位の「甲斐守」)とあだ名された。また、この時期に北町奉行・遠山景元(金四郎)が改革に批判的な態度をとって規制の緩和を図ると、耀蔵は水野と協力し、遠山を北町奉行から地位は高いが閑職の大目付に転任させた(遠山は鳥居失脚後に南町奉行として復帰した)。天保14年(1843年)に勘定奉行も兼任、印旛沼開拓に取り組んだ。
 アヘン戦争後の列強の侵略の危機感から、高島秋帆らは洋式の軍備の採用を幕府に上申し採用されるが、終始反対の立場にあった耀蔵は快く思わず、手下の本庄茂平次ら密偵を使い、姻戚関係にあった長崎奉行・伊沢政義と協力して、高島に密貿易や謀反の罪を着せた。
 改革末期に水野が上知令の発布を計画し、これが諸大名・旗本の猛反発を買った際に耀蔵は反対派に寝返り、老中・土井利位に機密資料を残らず横流しした。水野は老中辞任に追い込まれてしまうが、半年後に老中が土井利位から再び水野に変わると、耀蔵は孤立する。水野は自分を裏切り、改革を挫折させた耀蔵を許さず、元仲間の渋川,後藤の裏切りもあって、同年9月に耀蔵は職務怠慢・不正を理由に解任される。翌弘化2年(1845年)2月22日に鳥居は有罪とされ、全財産没収の上で肥後人吉藩主・相良長福に預けられると決定したが、4月26日に出羽岩崎藩主・佐竹義純に預け替えになった。結局10月3日に讃岐丸亀藩主・京極高朗に預けられ、この際には「金毘羅へいやな鳥居を奉納し」という川柳も詠まれている。水野自身も2月に再び老中を罷免され、家督を実子の忠精に相続させた後に蟄居隠居。その後、水野家は出羽国山形藩に転封されている。鳥居が讃岐丸亀藩預かりとなった同日、渋川も水野と連座して豊後臼杵藩主・稲葉観通に預けられ、後藤は斬首、本荘は播磨三日月藩主・森長国に預けられた。また、伊沢も長崎奉行を罷免され、西丸留守居に左遷された。これ以降、耀蔵は明治維新の際に恩赦を受けるまでの間、20年以上お預けの身として軟禁状態に置かれた。
 丸亀での耀蔵には健康維持のため、若年からの漢方の心得を活かし幽閉屋敷で薬草の栽培を行い、領民への治療も行い慕われた。林家の出身であったため学識が豊富で、丸亀藩士も教えを請いに訪問し、彼らから崇敬を受けていた。この時期、丸亀藩周辺の人々からは尊敬され感謝されていたようである。丸亀にいた間に、鳥居が食べたビワの種を窓から投げ捨てていたら、彼が去る際に立派な大木に育っていた、と勝海舟が記している。
 江戸幕府滅亡前後の明治政府による恩赦で、明治元年(1868年)10月に幽閉を解かれたが、耀蔵は「自分は将軍家によって配流されたのであるから上様からの赦免の文書が来なければ自分の幽閉は解かれない」と言って容易に動かず、新政府や丸亀藩を困らせた。
 その後、東京と改名された江戸に戻って居住した。晩年は知人や旧友の家を尋ねて昔話をするような平穏な日々を送り、明治6年(1873年)10月3日、多くの子や孫に看取られながら亡くなった。享年78。墓所は東京都文京区の吉祥寺。