<藤原氏>北家 小野宮流

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鳥居忠政 鳥居忠恒

 徳川家康に従い、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いに参加。慶長5年(1600年)、父の元忠が伏見城攻防戦で討死し、長兄の康忠は早世していたため家督を継ぎ下総矢作藩主となる。忠政は家康の命令で関ヶ原の戦いの時は江戸城留守居役を勤めていた。戦後に父の戦功によって陸奥磐城平に10万石を与えられている。
 両度の大坂の陣では江戸城の留守居役を務めた。元和8年(1622年)、最上氏が改易された後を受けて出羽山形22万石に加増移封され、妹婿で新庄藩主・戸沢政盛、娘婿で鶴岡藩主・酒井忠勝らと共に、徳川氏の譜代大名として伊達政宗などの東北諸大名の監視を命じられた。
 寛永5年(1628年)9月5日、山形で死去。享年63。墓所は東京都文京区の江岸寺。跡を長男の忠恒が継いだ。 

 寛永5年(1628年)、父の死により家督を継ぐ。しかし生来から病弱で 幕府の任にほとんど勤めることができなかった。寛永9年(1632年)、徳川忠長が改易されると、その付家老であった鳥居忠房のお預かりを命ぜられる。
 正室はあったが嗣子が無く、異母弟に鳥居忠春がいたがその生母と仲が悪かったため、死に臨んで彼を養子とせず、同腹弟で戸沢家に養嗣子として入っていた戸沢定盛に家督を譲るという遺言を残した。しかし、これは幕府の定めた末期養子の禁令に触れており、さらに病に臨み後の事を考慮しなかったとして幕府の嫌疑を招いた。寛永13年(1636年)7月7日、33歳で死去した。所領没収となったが、この件に関しては、鳥居忠政と井伊直勝の時に正室の処遇をめぐって両家の対立があり、井伊直孝(直勝の弟)はその旧怨から鳥居家を改易に追い込んだという説もある。
 鳥居氏の先祖・鳥居元忠の功績が考慮され、忠春に新知として信濃高遠藩3万石を与えることで家名を存続させた。

鳥居忠春 鳥居忠則

 父の死後、家督は兄の忠恒が継いだが、その兄が寛永13年(1636年)に嗣子無くして死去した後、忠春の末期養子が認められなかったため鳥居氏は改易されたが、忠春の祖父である鳥居元忠の功績などを考慮されて、改めて忠春に信濃高遠藩3万2000石の所領が与えられた。
 忠春は始めこそ名君として政務に尽力していたが、次第に自分に諫言した重臣7名を斬り殺し、悪政を敷いては百姓を苦しめて、その結果、承応3年(1654年)に百姓に尾張藩領の木曾に逃散されるなどの暴君へと変貌していく。そして寛文3年(1663年)7月、2度目の大坂城山里丸加番を務めるために鐘町の宿舎にいたとき、かねてから忠春の暴君ぶりに反感を抱いていた侍医の松谷寿覚に斬りつけられて、松谷はその場で倒したがこの時の傷がもとで8月に大坂で死去した。享年40。松谷が忠春を襲った理由は狂気によるものとされている。跡を長男の忠則が継いだ。
 忠春は兄・忠恒の時代に失った24万石の所領を取り戻すため、増上寺の警備,江戸城西の丸石垣の修理,江戸城御留守居役と西の丸大手門警備,朝鮮通信使の負担など、他にも連年のように各所への贈物などをしているが、結果、財政に大きな影響を与え、百姓が木曾に逃散する事態を招いた。このため高遠藩は無主の耕作地が増加し、土地は荒廃して忠春は貢租を得ることを狙って明暦2年(1656年)から2年かけて検地を行なっている。
 忠春自身も茶屋遊びを繰り返し、毎年5回から6回は上伊那郷平山村のお茶屋で奢侈の限りを尽くし、お茶屋に来る時は領民に必ず出迎えさせ、献上物を出させて村役人が必ずご機嫌伺いをさせるようにした。また忠春配下の100人余りの従者も威張り散らして食事用の米に藩への納入米として一時保管している郷蔵から出させて食事とした。 

 父が寛文3年(1663年)に死去したため、跡を継いで藩主となるが、父同様に暗愚な藩主で、逸話として藩財政難のために木曽や松本の商人から借金しては返済を拒否したために商人から幕府に訴えられたほどであったと言われている。
 元禄2年(1689年)6月、忠則の家臣で江戸城馬場先門の守衛を務めていた高坂権兵衛が、夜中に密かに旗本・平岡頼恒の長屋を覗いたという罪により逮捕されたことに関連し、主君として連座し家中不取締で閉門を命じられた。閉門中の同年7月23日に忠則は急死した(一説では自害したとも言われる)。高坂も取調中に主家に累が及ぶことを恐れて、舌を噛み切って自殺した。このため真相は闇の中となったが、幕府はすでに故人となっていた忠則の家臣団統制がよろしくなかったということから、忠則の後嗣であった鳥居忠英の家督相続を認めず、その所領を没収・改易するに至った。
 しかし、鳥居氏が鳥居元忠以来の名族・功臣の家系であるという経緯もあって、幕府としても取り潰すわけにはいかず、特例として忠英に能登国内の内、鹿島・珠洲・鳳至・羽咋四郡の内の1万石を与えて能登下村藩を立藩させた。 

鳥居忠英 鳥居忠意

 貞享2年(1685年)9月21日に徳川綱吉と拝謁し、12月28日に叙任する。幕府は故人となっていた忠則の家臣団統制がよろしくなかったということから、忠英の家督相続を認めず、その所領を没収して改易するに至ったのである。
 しかし、鳥居氏の祖の元忠が幕府創設に抜群の功績を挙げたことを考慮して、忠英に新たに能登下村1万石が与えられた。元禄8年(1695年)5月15日に近江水口に1万石加増の上で移封される。宝永2年(1705年)9月21日には奏者番と寺社奉行を兼任の形で任じられ、正徳元年(1711年)6月27日には若年寄に任じられる。そのため、正徳2年(1712年)2月26日には1万石をさらに加増されて合計3万石の上で下野壬生に移封された。
 忠英は名君で、壬生の藩政においては殖産興業政策(特に干瓢栽培)を奨励し、藩校である学習館を創設するなどして藩政の基礎を固めている。正徳6年(1716年)3月21日に死去。享年52。実子は全て早世したため、弟の忠瞭を養子として跡を継がせた。 

 享保2年(1717年)、第2代藩主・忠瞭の長男として生まれる。享保18年(1733年)7月28日に徳川吉宗と拝謁し、享保19年(1734年)12月18日に叙任する。享保20年(1735年)に父が死去したため、跡を継いで藩主となる。延享4年(1747年)5月15日に奏者番となり、宝暦2年(1752年)4月23日には寺社奉行を兼務する。宝暦10年(1760年)3月22日には若年寄となるが、翌年に徳川家重が死去すると、全ての職を辞職した。
 宝暦12年(1762年)5月24日に再び奏者番、寺社奉行を兼務し、天明元年(1781年)閏5月11日には若年寄となる。そのため、同年9月18日には従四位下を叙任された。天明6年(1786年)に徳川家斉が新将軍となると、老中に任じられる。しかし高齢のため、寛政3年(1791年)10月11日に眼疾に倒れている。
 この間、世子の長男・忠求が寛政元年(1789年)に早世、忠求の長男・忠貴は寛政3年(1791年)に廃嫡、継いで世子となった4男・忠見も寛政6年(1794年)5月12日に先立って死去してしまう。そして、忠意もその後を追うように同年7月18日に死去した。享年78。跡を忠見の次男・鳥居忠熹が継いだ。 

鳥居忠宝 鳥居忠文

 兄・忠粛が早世したため嫡子となり、安政4年(1857年)、父の死去により家督を相続。安政6年(1859年)11月23日に叙任する。幕末期では尊皇攘夷をめぐっての争いが絶えず、文久2年(1862年)には勤王派が主導権を握って保守派の江戸家老・鳥居志摩が失脚の上、自害させられた。
 ところが元治元年(1864年)に水戸藩で天狗党の乱が起こると、今度は保守派が力を盛り返して勤王派を退けるなど、藩内は二分して大混乱した。戊辰戦争では新政府につくか、幕府側に与するかで混乱する中、ようやく新政府側に与して幕府軍と戦った。
 明治2年(1869年)に版籍奉還で知藩事になるが、翌年に病気により弟の忠文を養子として家督を譲って隠居した。明治18年(1885年)、壬生で死去。 

 慶応4年(1868年)3月、兄の第7代藩主・忠宝の名代として上洛する。同年9月、忠宝の補佐を命じられる。明治2年(1869年)9月、忠宝の養子となる。明治3年(1870年)9月25日、忠宝が病気により隠居したため、その跡を継いで知藩事となった。 明治4年(1871年)7月15日の廃藩置県で免官となり、同年9月5日に司法省中録に就任した。同年10月29日、海外留学のために辞任する。同年11月12日、岩倉使節団の一員として日本を出発した。佐々木高行に随行し、法律を学ぶことを目的としていた。明治5年(1872年)4月、岩倉使節団を離れて、アメリカに留学する許可を得る。
 明治16年(1883年)5月、外務省御用掛となる。明治17年(1884年)7月8日、子爵を叙爵した。明治18年(1885年)5月、外務省御用掛兼書記生となる。明治19年(1886年)11月、ハワイ王国副領事となり、明治22年(1889年)2月、ハワイ王国領事に就任する。明治23年(1890年)7月10日、貴族院議員に選ばれ、その後、死亡時まで在職した。大正3年(1914年)10月31日に死去。享年68。墓所は文京区吉祥寺。