| F512:鳥居忠吉 | 藤原房前 ― 藤原冬嗣 ― 藤原良房 ― 藤原忠平 ― 藤原師尹 ― 鳥居行範 ― 鳥居忠吉 ― 鳥居忠政 | F513:鳥居忠政 |


| リンク | F513・{H105}{G126}{H153} |
| 鳥居忠政 | 鳥居忠恒 |
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徳川家康に従い、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いに参加。慶長5年(1600年)、父の元忠が伏見城攻防戦で討死し、長兄の康忠は早世していたため家督を継ぎ下総矢作藩主となる。忠政は家康の命令で関ヶ原の戦いの時は江戸城留守居役を勤めていた。戦後に父の戦功によって陸奥磐城平に10万石を与えられている。 |
寛永5年(1628年)、父の死により家督を継ぐ。しかし生来から病弱で 幕府の任にほとんど勤めることができなかった。寛永9年(1632年)、徳川忠長が改易されると、その付家老であった鳥居忠房のお預かりを命ぜられる。 |
| 鳥居忠春 | 鳥居忠則 |
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父の死後、家督は兄の忠恒が継いだが、その兄が寛永13年(1636年)に嗣子無くして死去した後、忠春の末期養子が認められなかったため鳥居氏は改易されたが、忠春の祖父である鳥居元忠の功績などを考慮されて、改めて忠春に信濃高遠藩3万2000石の所領が与えられた。 |
父が寛文3年(1663年)に死去したため、跡を継いで藩主となるが、父同様に暗愚な藩主で、逸話として藩財政難のために木曽や松本の商人から借金しては返済を拒否したために商人から幕府に訴えられたほどであったと言われている。 |
| 鳥居忠英 | 鳥居忠意 |
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貞享2年(1685年)9月21日に徳川綱吉と拝謁し、12月28日に叙任する。幕府は故人となっていた忠則の家臣団統制がよろしくなかったということから、忠英の家督相続を認めず、その所領を没収して改易するに至ったのである。 |
享保2年(1717年)、第2代藩主・忠瞭の長男として生まれる。享保18年(1733年)7月28日に徳川吉宗と拝謁し、享保19年(1734年)12月18日に叙任する。享保20年(1735年)に父が死去したため、跡を継いで藩主となる。延享4年(1747年)5月15日に奏者番となり、宝暦2年(1752年)4月23日には寺社奉行を兼務する。宝暦10年(1760年)3月22日には若年寄となるが、翌年に徳川家重が死去すると、全ての職を辞職した。 |
| 鳥居忠宝 | 鳥居忠文 |
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兄・忠粛が早世したため嫡子となり、安政4年(1857年)、父の死去により家督を相続。安政6年(1859年)11月23日に叙任する。幕末期では尊皇攘夷をめぐっての争いが絶えず、文久2年(1862年)には勤王派が主導権を握って保守派の江戸家老・鳥居志摩が失脚の上、自害させられた。 |
慶応4年(1868年)3月、兄の第7代藩主・忠宝の名代として上洛する。同年9月、忠宝の補佐を命じられる。明治2年(1869年)9月、忠宝の養子となる。明治3年(1870年)9月25日、忠宝が病気により隠居したため、その跡を継いで知藩事となった。 明治4年(1871年)7月15日の廃藩置県で免官となり、同年9月5日に司法省中録に就任した。同年10月29日、海外留学のために辞任する。同年11月12日、岩倉使節団の一員として日本を出発した。佐々木高行に随行し、法律を学ぶことを目的としていた。明治5年(1872年)4月、岩倉使節団を離れて、アメリカに留学する許可を得る。 |